第5話
「そうだ、お姉さんの名前は?」
自分の膝の上に肘を乗せ、頬杖をつく彼──太郎ちゃんは上目遣いで私を見た。
「……沙紀」
フルネームを教えるほど、まだ信用したわけじゃない。疑うのは心苦しいところがあるけれど。
だけどそんなことは気にしていないのか
「沙紀ちゃんね」
私の名前をさらりと呼ぶと、また目がなくなるくらいにっこり笑った。
「──沙紀ちゃんは、なんであんなところで捨てられてたの?」
「……失礼な」
別に捨てられていたわけではない。
むしろ、自分があの男を捨ててやろうとしていた所なのだ。
──その時ふと思い出した、“あの男”。
あれだけ私の頭の中を占領していたはずの男なのに、今の今まで忘れていた。
今頃、私のマンションへやってきているのだろうか。
──と考えたところで、携帯がタイミングよく鳴った。
画面を見てみれば案の定、慎二さんからだ。
「……もしもし」
軽くため息を吐いて電話に出た私の耳に届く優しい声。
「……どこにいるの?」
怒りもせず問いかける声に無性に泣きたくなる。
「ごめん、今日は──」
友だちと約束があったのを忘れていた、とでも誤魔化そうと思ったのだが、それを隣に座る少年が阻止した。
「ちょっと……?」
私の手にあった携帯がするりと抜き取られ、代わりに自分の耳にあてた太郎ちゃん。
「もしもし?」
浮気をしているのは“あの人”と私のほうなのに、まるで浮気現場がバレたかのような焦りが湧き上がる。
返して、ともがく私を押さえつけて、人差し指を自分の唇にあて「静かに」とポーズをする。
「……俺ですか?沙紀ちゃんの、彼氏」
その言葉に目が飛び出そうになった。いつからそんな設定が生まれていた?
「……そう。俺たちこれから一緒に住む予定だから、もう沙紀ちゃんとは関わらないでください」
続けて紡いでいく彼の嘘。彼の意図することが理解できない。抵抗することも忘れ、ただぽかんと彼の顔を見つめるだけだった。
……そして私は気が付かない。
その瞬間、私の意識はもう“彼”にはなかったことに。
「……ふう」
通話を切って、何故かやりきった表情をする太郎ちゃん。
「いやいや。なにしてくれてんの」
眉をひそめて詰め寄るが、彼は首を傾げるだけ。
「え?沙紀ちゃん、あの電話の人と関わりたくないって顔してたから……。違った?ごめんね」
しゅん、と申し訳なさそうに言う。
そんな顔をされたら怒れないじゃないか。
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