第2話


「もう、やめようかな……」

 雨の中、傘もささず歩く。ポツリとこぼした声は水音にかき消された。

 自分から彼との関係を清算するつもりなどなかったのだが、彼の婚約者に罪悪感を持って毎日を過ごすのに疲れたのも事実だった。


 しかし、彼と会うのは必ず私の自宅。

 このまま家へ帰れば彼はやって来て、きっとあの笑顔に流されてしまうだろう。つくづく押しに弱い自分が嫌になる。

 どうしたものか、と自宅のマンションへと帰る足がそこに近づくにつれ、重くなる。


 気がつけば、いつもなら右へ行くはずの曲がり角を左へと曲がっていた。

 些細な抵抗とでもいうのか。まるで子どもの家出のようだと自嘲した。


 これが、運命を変えるなんて思いもせずに──。







 30分ほど雨の中を歩いた。

 いつもの曲がり角を逆に曲がるだけで、こんなにも知らない場所に来るのか。予想もしていなかった私は帰り道も分からず途方に暮れていた。


 一人暮らしであるにもかかわらず家出をした私は、無計画のままそれを実行してしまった自分を悔いた。

 家に帰らなかったからといって、この後どうするかなどは特に決めていない。

 しかも自分は今、びしょ濡れでタクシーも拾えないくらいだ。


「無駄な抵抗だったってこと、か……」

 大きくため息を吐いて、仕方なく家へ戻ろうと来た道を引き返した──


 ──その時。




「──ねえ、お姉さん。俺が拾ってあげましょうか?」



 後ろから少し高めの男の声がした。きっと私より若いのだろう。けれどれっきとした男性であることは間違いない。物騒な世の中になったものだ……とため息をついた。


 ……聞こえないフリ。見ないフリ。


 無言のまま慌てて足を動かすが、ぱしっと腕を掴まれた衝撃で「ひっ」と声が漏れた。


「……無視しないでよ、お姉さん」

 先ほどより近く……耳元で聞こえた声に鳥肌が立つ。


 それは気持ちの悪さから来るものではなく、色気を含んだ声に不覚にも胸が高鳴ったからだ。


「行くところ、ないんでしょ……?」

 男の声に思わず頷く。この透きとおるような綺麗な声の前では、嘘がつけそうにない。


 その私の素直な行動に、クスリと笑う声が耳を掠めた。


「……俺のところにおいでよ。拾ってあげる」


 ──こんな、訳も分からない相手について行くほど馬鹿じゃない。


 これ以上、軽率な行動で人生を狂わせたくはない。

 頬でも叩いて逃げてやろうかと振り返った時

「ね?お姉さん」

 目の前の“男の子”が笑ったのを見て、私は目を逸らせなくなった。


 すっと通った鼻筋に、ぷっくりとした唇。ふわふわした黒髪は思わず手を伸ばして撫でてしまいそうになる。何より、笑うと見えなくなる目尻の垂れた目に魅入ってしまった。


 美少年というよりは、可愛らしい顔立ち。思っていたよりもずっと若い。青年とも言い難いほどだ。


「来てください」

 例えるならば子犬のような少年。私の手を引くあどけない顔立ちの彼に、抵抗することも忘れて連れられるがまま脚を動かしていた。


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