君の匂いが僕から消えない
向日ぽど
はじめまして
第1話
──今日は、雨だ。
朝、爽やかな笑顔で「曇り」だと告げた天気予報士を信じていたのに、外は土砂降りだった。もちろん私は傘を持ち合わせていない。
会社の窓から外を眺めてため息をつく。せっかく定時で仕事を終えることができたというのに、憂鬱な気分だ。
「……あれ、石川さん?」
ぼーっと窓を見ていた私に声をかける一人の男。振り返ると雨雲なんて吹き飛ばしてしまいそうな──朝に見た天気予報士よりもっと爽やかな笑顔でこちらに近付いてくる男。
「あ……及川さん……」
私が密かに想いを寄せる相手、及川慎二。
私が入社した時から優しく指導してくれた先輩だ。
その大人な雰囲気とスマートさ。茶色がかったサラサラの髪に、人の良さそうな少し垂れ目な彼。目鼻立ちがはっきりとしているそのルックスは女子社員にとても人気だ。
私だって例外じゃなかった。
だけど私には他の女子社員とは違う、彼との秘密がある。
「──今日、行ってもいいかな」
囁くように耳元を掠めた声。私はこの声に抗えない。
──そう、あれは入社したての歓迎会。
まだ自分の酒に対する加減もわからない20歳だった。今となっては言い訳にしかならないのだけど。
そこで見事に酔い潰れてしまった私は、飲み会の途中で意識を手放した。
そして、目が覚めたら──見知らぬ部屋の見知らぬベッドに横たわる自分を見て呆然とした。明らかに上質なシーツから漂う甘い香水の香りは今でもはっきりと覚えている。
そんな異世界に迷い込んだかのような感覚に陥る中──唯一、隣で眠る人にだけは見覚えがあった。
『及川、さん……』
お互い、生まれたままの姿。ベッドの下に散らばる脱ぎ捨てられた服。それが何を意味するのかなんて、分からないほど子どもではなかった。
それから彼に事情を聞き、自分の予想があまりにも的確だったことに絶望感でいっぱいになる。指先が震えるほどの背徳感に苛まれた。
……なぜなら彼には、婚約者がいるからだ。
何度も謝る私に慎二さんはいつもの爽やかな笑顔で「大丈夫だよ」と焦った様子もなく言う。悠長な彼の態度には何が大丈夫なのかと怒りさえ沸いた。
そして次に彼が持ちかけた提案。それはあまりにも常識の範囲外で私は驚愕し、彼に失望した。
だけどそんな思いとは裏腹に喜びを感じてしまったのもまた事実だった。
彼はみんなが思っているほど
優しくも
紳士的でも
いい男でもないようだ。
『──石川さんのこともっと知りたい。これからも内緒で会おうか』
そう、この言葉だって……一体何を意図するのか、分からないわけがなかった。
そこからは彼の都合のいい時に呼び出され、身体だけを求め合う関係。ドラマなんかでは在り来たりではあるものの、決して清いとは言えない。罪悪感だって抱かないわけはない。
それでも、私にとって多くの女子社員にとって憧れの彼と触れ合っていられる関係を手放せるわけもなく。たとえ都合のいい女だとしても、自分から慎二さんと別れるという選択肢を持ったことはなかった。
「……わかりました」
“もうやめませんか”
一瞬過った言葉も彼の目を見てしまえば言えなくなる。了承の返事だけをするが何だか居たたまれなくなり、雨が弱まるのを待とうと思っていたのも忘れて土砂降りの中走り出したのだった。
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