絡まる指とほどけない心

飛鳥休暇

ごめんねとありがとう

「こーちゃん、みつけた」


 泣きじゃくっていたおれに手が差し伸べられる。

 その手をゆっくりと掴むと、美咲みさき姉ちゃんは優しく微笑んでくれた。


 おれは隣にあったお地蔵さんの頭を支えにするように立ち上がる。

 真っ暗な森の中、遠く祭囃子まつりばやしが聞こえている。

 はっきりと覚えているのは、美咲姉ちゃんの柔らかい手のぬくもりだけだった。



 ******



 大阪から電車に乗って六時間。

 そこからバスに乗り換えてさらに二時間ほど。


 バスの中から見えた高知の海はエメラルドグリーンに輝いていて、遠くのほうで小さな漁船がぽつりぽつりと浮かんでいた。


 目的のバス停で降りると、すぐに「こーちゃん!」と元気な声が聞こえてきた。


「あ、美咲姉ちゃん」


 声の主を確認すると、おれは軽く手を上げ、そしてすぐに顔を反らした。

 まるで太陽を直視した時のように、その笑顔があまりにも眩しかったからだ。

 久しぶりに会った美咲姉ちゃんは肩に掛かるほどの髪を左右に揺らし近づいてくる。


「よう一人で来れたね。疲れたやろ?」


 そう言っておれが持っていた手荷物を一つ奪い取るように持ってくれた。


「あ、大丈夫やで」


「ええから、ええから。お姉ちゃんこう見えて力持ちなんやき」


 奪い返そうとした荷物を大きく持ち上げ美咲姉ちゃんが笑う。

 おれの胸元あたりには美咲姉ちゃんの汗と髪の匂いが混ざり合ったような甘い残り香が漂っていて、それだけで鼓動が早くなってしまう。



 見渡す限りの田んぼ道を二人で歩く。


 日は落ちかけてはいたが、遮るもののない直射日光が容赦なく体力を奪ってくる。


「こーちゃん頑張りや、あと少しで着くけん」


 前を歩く美咲姉ちゃんがたまに振り返ってはそんなことを言ってくる。

 さすがに慣れているのか、美咲姉ちゃんの顔には疲れが見えない。


 いつもであれば親父の運転する車で来るものだから、おれはへろへろになりながら美咲姉ちゃんの後をついていく。




「おー、ようきたな洸一こういち!」


 家に着くなり、正嗣まさつぐおじさんが居間のほうから大きな声で言ってくる。親父の兄にあたる人物だ。


「ほんまに。疲れたでしょ?」


 雅美まさみおばさんも玄関まできてねぎらってくれる。


「ちょっとだけ、疲れました」


 軽く笑ってから、背負っていたリュックを玄関に降ろす。


「それじゃあ、この荷物は部屋に持っていっとくからちょっと休んでなさい」

「あ、自分で――」


 おれの返事を待たずに、雅美おばさんはすぐさまおれのリュックを担ぎ上げると、二階へと消えていった。


「こーちゃん、とりあえずなんか飲も?」


 そう言って台所に向かう美咲姉ちゃんの後を追って、おれも台所へと向かう。



「麦茶とカルピスどっちがいい?」


 冷蔵庫を覗きながら美咲姉ちゃんが聞いてくる。


「あ、じゃあ、麦茶で」


「おっけー」


 台所にグラスを用意し、おれに背を向ける形で麦茶を注ぐ美咲姉ちゃんの背中を見つめる。 

 Tシャツ一枚のその丸まった背中にブラジャーの形が浮かんでいて、ドキリとしつつも視線を外せずにいた。


「はい」

「うぉっと!」


 急に振り返った美咲姉ちゃんに驚きの声を上げたおれを美咲姉ちゃんが不思議そうな顔で見てくる。


「どないしたん?」


「……いや、なにも」


 誤魔化すように、手渡された麦茶を一気に喉に流し込む。


「こーちゃん、お腹も空いてるやろ? もうすぐご飯にするから、先に荷物片づけておいで」


 二階から降りてきた雅美おばさんが台所にやってきて言う。


「あ、わかりました」


 おれは残りの手荷物を持って美咲姉ちゃんの案内で二階の部屋に向かう。


「ここがこーちゃんの部屋ね。ご飯できたら呼ぶからちょっとゆっくりしとき」


 そう言うと美咲姉ちゃんは手を振ってから部屋のふすまを閉めた。



 案内された部屋は八畳ほどで、端のほうにおれのリュックと折りたたまれた布団があった。


 おれは手荷物をリュックの隣に置くと、折りたたまれたままの布団にもたれかかるようにして座り込んだ。


 夕日の差し込む窓の外では閉店前のセミが最後の呼び込みをするかのように鳴き叫んでいた。


 天井を見上げて一息つくと、浮かんでくるのは美咲姉ちゃんの顔だった。


 脳内で先ほど見たブラジャーの形をなぞる。


 思わず熱くなりそうな股間の熱を治めるように、腰を上げて荷物を整理することにした。




広志ひろしは仕事が忙しいんやってか」


 正嗣おじさんが瓶ビールを手酌しながら聞いてくる。

 食卓にはおれのために用意してくれたのか豪華な食事が並んでいた。


「うん。おじさんによろしくって言うといてって」


「なんや洸一、大人みたいな言い方して。まぁ、そうか、美咲の二個下やからお前ももう高校生になったんやな」


「ほんとに、大きくなったなぁ」


 おじさんの言葉におばさんも同意する。


「それでも、顔見せてくれておっちゃんは嬉しいわ。明後日までおるんやろ? 美咲も久しぶりに会えて嬉しいやろ」


「もちろん。こーちゃんに会えるの楽しみにしてたよ」


 にこりと笑う美咲姉ちゃんのその言葉が社交辞令であったとしても嬉しかった。


「祭りは明日の夜やから、それまではゆっくりしときね」


 おばさんの言葉におれは黙ってうなずいた。




 夕食後、先にお風呂にお呼ばれすることになった。


 自宅よりも大きな湯船につかると一日の疲れがほどけていくような気がした。


 風呂からあがりまだ少し濡れた髪のまま風呂場の扉を開けると、待ってましたと言わんばかりに美咲姉ちゃんが廊下を歩いて近づいてきた。


「じゃあ、こーちゃんタッチね」


 そう言ってハイタッチをすると、美咲姉ちゃんが入れ替わるように風呂場に入っていった。



 自分の部屋に戻るとすでに布団が敷かれていた。


 布団の上に座って目を閉じて耳をすます。


 シャワーの音でも聞こえてこないだろうかとよこしまな考えを浮かべつつ。




 翌日、朝食を食べてから部屋でまったりしていると、唐突にふすまが開いた。


「こーちゃん、夏休みの宿題持って来た?」


 美咲姉ちゃんが顔だけを出して聞いてくるので「ちょっとだけ持って来たよ」と答えた。


「良かった。一人じゃ集中出来ないから良かったら一緒にやろうよ」


 そう言うと、返事も聞かずに階段を下りて行ってしまった。



 宿題と筆箱を持って一階に降りると、居間に座っている美咲姉ちゃんの姿を見つけた。


「お、きたね」


 嬉しそうに手招きする美咲姉ちゃんの向かいに座る。


 タンクトップから伸びる肩から二の腕のラインが生々しくて、ちらちらと視線を送ってしまう。


「こーちゃん、手が動いてないよ」


 からかうように口を尖らせる美咲姉ちゃんの言葉に思わず肩を揺らす。


「ご、ごめん」


 そう言って宿題に目を落としてはみるものの、意識は目の前の美咲姉ちゃんに向いてしまう。


 定期的にエアコンの風が運んでくる甘い香りをリズムに合わせて吸い込む。


 結局、宿題は三ページも進まなかった。




 昼食に出された素麺をお腹いっぱい食べると、おばさんが「買い出しに付き合って」と言ってきた。


 車をしばらく走らせると地元住民御用達の大きなスーパーに到着した。


 慣れた動きで美咲姉ちゃんがカートを持ってきて、店の中に入る。


「こーちゃん、好きな飲み物とかあったら入れていいからね」


 そう言っておばさんがドリンクコーナーを指さす。


「あ、あぁ。ありがとうございます」


「遠慮せんと、いこ?」


 ふいに、美咲姉ちゃんがおれの手を取ってドリンクコーナーに誘導する。


 手の平に感じる柔らかさのせいで、おれは少し前かがみになりながら美咲姉ちゃんについていく。


 ――と。


「えー! 美咲、もしかして彼氏?」


 聞こえてきた声に振り返ると、そこに二人組の女子がいた。


「あー! ミチ、マリ!」


 美咲姉ちゃんは繋いでいた手を放し、嬉しそうに二人に駆け寄っていく。


「ちょっと、あの子誰なん?」


 一人の女子がおれに目線を送りながらにやにやした顔で聞いている。


「親戚の子! あやしい関係やないよ」


 美咲姉ちゃんがほっぺを膨らませながら二人に言う。

 おれも二人に向かい頭を下げる。


「なーんや。てっきり彼氏かと思ったやん」


「ほんま。美咲学校でもモテてるのに全然付き合ったりせんから他に彼氏おるんやと思ってたんよ」


 二人の女子がからかうように美咲姉ちゃんに言っている。

 その中に出てきた気になるワードを頭の中で繰り返す。


 ――モテている。

 ――付き合ったりせんから。


 美咲姉ちゃんは可愛いからモテているのは当然だろう。

 でも、話を聞く限りは今現在付き合っている彼氏もいないようだ。


 そんな推測をして、少しだけほっとした自分がいた。



「じゃあまた夜に」



 しばらく談笑していた三人だったが、ほどなく会話を終了し、美咲姉ちゃんが戻ってきた。


「同じ学校の人?」


「そう。田舎は行くとこ少ないからここにきたら大体誰かと会うんよ」


 そう言って美咲姉ちゃんは笑っていた。


「だから噂が回るんも早いよ。今回はすぐに説明出来たから良かったけど、こーちゃんといるとこ見られてそのままやったらたぶんすぐに変な噂流されてたわ」


 やだやだと肩をすくめる美咲姉ちゃんの横顔を見ながら、それで美咲姉ちゃんに悪い虫がつかないのであれば噂が回ってくれたほうが良かったかもしれないなんてことをおれは考えてしまっていた。




 日が暮れるまで自分の部屋で休んでいると、一階から呼ぶ声がした。


 階段を下りて玄関に佇む美咲姉ちゃんを見て息が止まる。


 髪を後ろでまとめ、青い浴衣に身を包んだ美咲姉ちゃんはどんなアイドルよりも可愛く思えた。


「あ、こーちゃん! いくよ」


「あ、あぁ。うん」


 嬉しそうな笑顔を見せて急かしてくる美咲姉ちゃんの声でようやく我に返り急いで靴を履いた。




 祭りは地元のお寺の境内で行われる。


 出店というには心もとないほどの屋台が並んでいる。すべてこの辺りの青年会のメンバーが担当しているらしい。


 奥の広場ではやぐらが組まれ、そのうちみんなが集まって盆踊りをするようだ。


 美咲姉ちゃんの少し後ろを歩きながら、きょろきょろと屋台を眺める。


「なんか食べたいものとかあったら言うてね」


 美咲姉ちゃんが振り返り言ってくる。


 その時、ふいに「あ、美咲!」という声が聞こえた。


 目の前から歩いてきたのは三人組の男たちだった。


 全員が野球部なのだろうか、揃いも揃って坊主頭をしていた。


「さっきミチらにも会ったで。……てか、そいつは?」


 中央にいた坊主がどこか睨みつけるような目線でおれを見てくる。


「あぁ、親戚の洸一くん。夏休みで遊びにきとるんよ」


 美咲姉ちゃんの紹介に合わせるように軽く頭を下げる。


 親戚という言葉を聞いた瞬間に、中央の男がほっとしたような表情になったのをおれは見逃さなかった。


「そうか。あー、美咲、なんか今日可愛いな」


 中央の坊主が頭をかきながら照れ臭そうに言う。


「おれらはちょっと席外すかなー」


 左右にいた坊主たちが目配せをするように言ってからどこかに行ってしまった。


「えー? なんよそれ」


 美咲姉ちゃんはきょとんとしているが、中央の坊主は真っすぐおれを見てくる。

 嫌な空気を感じていたたまれなくなったおれは「おれも、ちょっと一人で回ってくる」と言って逃げるようにその場から立ち去った。




 心臓が気持ち悪い動きをしている。


 暑さのせいではない嫌な汗が全身をじっとりと濡らしている。


 屋台のある通りから離れ、明かりも届かない地蔵のそばで立ちすくむ。


「くそっ! くそっ!」


 あの坊主はきっと美咲姉ちゃんに惚れている。

 空気に流されてしまったとはいえ、そんな男と美咲姉ちゃんを二人きりにしてしまった自分にも腹が立っていた。


 やりきれない思いを抑えつけるように、地蔵の横で丸まるように座り込んだ。



「……こーちゃん?」


 どのくらい時間が経っただろう。美咲姉ちゃんの声が聞こえたような気がして顔を上げた。


「やっぱり、ここだった」


 暗がりの中でも、なんとなく美咲姉ちゃんが微笑んでいるのがわかった。


「ほら、そんなとこに座ってると汚いよ。はい、立って」


 差し出された手を取って立ち上がる。


「ふふふ。昔もこんなことあったね。覚えてる?」


「……うん。覚えてる」



 ――忘れるわけがない。だっておれはあの時から。




 両親と離れて迷子になって、どこをどう歩いたのかこの地蔵の横で泣きじゃくっていたおれを見つけてくれたのが美咲姉ちゃんだった。


 あの時の光景は、今でも夢に見るほどだ。




 おれの手を握ったまま、美咲姉ちゃんが歩き出す。


「さっきの人、大丈夫だった?」


「ん? 大丈夫だったって?」


 おれの質問の意図が分からないといった様子で美咲姉ちゃんが首を傾げる。


「いや、だって。……あの人、美咲姉ちゃんと一緒に居たかったんじゃないの?」


 おれの言葉に、美咲姉ちゃんが「あー」としばらく声を出し。


「前にね、一回告白されたんよ」


「――えっ」


 おれは思わず立ち止まる。


「でも、断っちゃった」


「……そう」


 次の言葉が出てこずに、しばらく黙り込んでしまう。


「……あのさ。美咲姉ちゃんはこうやって男と手を繋いでてもなんとも思わないの?」


 言ってから、なんて質問だと思った。


「こうやってって……こうちゃんと?」


 美咲姉ちゃんは繋いだ手を確かめるように少し上げた。


「おれと、その、おれも男だし。……ドキドキとかしないのかなって」


「うーん。……しない、かな」


 その言葉に、胸が締め付けられるように痛んだ。


「おれは、してほしい。おれはドキドキしてるし、出来れば美咲姉ちゃんにもドキドキしてほしい。おれは、――おれは美咲姉ちゃんのことが好きや」


 心臓があまりに高まって、それでもなんとか思いを伝えようと、つっかえながらも一気に言葉を吐き出した。


 おれの言葉を聞いて、美咲姉ちゃんは少し困ったような顔をした。



「……私ね。『好き』って感情が良く分からんの」


 美咲姉ちゃんは少し悲しそうな目をしておれの顔を見つめてくる。


「今まで一回も、そういう気持ちになったことがないんよ。友達の話を聞いてても共感出来ないというか。……だから、ごめんね。私にはよく分からんの」


 申し訳なさそうな美咲姉ちゃんの顔を見て、余計に胸が締め付けられた。


 好きという感情が分からないとはどういうことなんだろう。

 でも、きっと美咲姉ちゃんはそのことで苦しんできたのだろう。


 自分の爆発しそうなこの好きという感情の、ほんの一部でも分け与えることが出来たら。

 そして願わくば、美咲姉ちゃんのその好きがおれに向いてくれればいいのに。


 頭の中で色んな思いが駆け巡る。

 悔しい、切ない、もどかしい。

 どんな言葉も間違っているような気がして、ただ繋いだ美咲姉ちゃんの手を強く握った。


「……じゃあさ」


 美咲姉ちゃんが声を出したかと思うと、握った手からふっと力が抜けた。

 離されるのかと思った瞬間、美咲姉ちゃんの指が絡まるような形で再び握り返してきた。


 いわゆる、恋人繋ぎという形だ。


「ごめんね。今は分からないけど。こうするともしかしたらちょっとだけ、ドキドキできるかも」


 絡まった指から美咲姉ちゃんの体温が伝わってくる。


「……うん」


 おれは強く握り返し、目を閉じる。


 おれの胸の鼓動が毛細血管まで巡って、そして指を伝って美咲姉ちゃんに届くように。


 耳に響くのは心臓の音と遠く聞こえる祭囃子。




 いつかこの絡まった指のように、あなたの心と重なり合えたら。


 恋人繋ぎの名の通り、そんな関係になれたなら。



 そんな願いを込めながら、繋いだ手に力を込めた。



「……そろそろ、いこっか」


 しばらくして、美咲姉ちゃんが優しく声を掛けてくる。


「……うん」


 油断すると泣いてしまいそうだから、おれは歯を食いしばる。


「いつか」


 ゆっくりとした速度で歩く美咲姉ちゃんに向かって言う。


「いつかおれが、美咲姉ちゃんに『好き』って気持ちを教えるから」


「……うん。ありがとう。……ごめんね」


「美咲姉ちゃんに『好き』の気持ちを教えるのはおれじゃないと嫌やから」


「……うん。ありがとう」


「ずっと、ずっと好きやったから」


「……ありがとう。……ごめんね」




 それから家に帰るまで、


 おれは思いを吐き出し続け、


 美咲姉ちゃんは「ごめんね」と「ありがとう」を繰り返し言い続けた。




 合わさったふたりの手の平だけが、夏に負けない熱を持ち続けていた。





【絡まる指とほどけない心――完】

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絡まる指とほどけない心 飛鳥休暇 @asuka-kyuka

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