第21話 侵入者
「母が聖の間に入れられたのであれば、次は父が狙われる可能性が高いでしょう。ここで付け入る隙を作るのは望ましくありません」
「でもな、お前を助けて欲しいと親父に頼み込んだのは、ミッシュエルン医術師なんだぞ」
彼女が淡々と告げれば、彼は吐き捨てるようにそう絞り出した。苦々しさと嘆きが混じり合った、胸を掴むような声だった。
彼女の記憶に刺さった棘が、かすかにうずく。
「だから親父は、俺に頼んだ」
目を背けた彼の横顔は、一段と険しかった。そこには明らかな痛みがあった。
かけるべき言葉を探し、彼女は押し黙る。それはまさか、先ほどのようなやりとりで、押しつけられたのだろうか。あんな風にあっさりと、当たり前のように、彼は送り出されたのだろうか。
「そうだったんですか」
彼女が発つ時はどうであったか? 思い出そうとして、彼女はすぐに諦めた。
父は奥の層での大事な研究中だからと、正門まで出てこなかった。母も療養塔の回診当番の時期であり、やはり見送りにはこなかった。
正門まで一度出てしまうと、中層や奥の層へはすぐには戻れない。外層での待機時間が発生してしまう。だから二人は当然のように仕事を優先した。シリンタレアでは正しい態度だ。
「お前はそれだけ愛されてるんだから、もっと自分を大切にしろよ」
だから彼がそう言い捨てたことに、彼女は心底驚いた。同時に、彼が抱いている苦悩が少しだけ見えた気がした。彼女は肩の力を抜くと、俯く彼のつむじを見下ろす。
「でも彼らは、私と国を天秤にかけたら、国をとります」
彼女の言に、彼は弾かれたように顔を上げた。虚を突かれた様子だった。彼女は薄く微笑んで、彼の視線を受け止める。
「私が、両親にとって心の弱い部分にいることは間違いありません。でもあの人たちは、医術師としての使命や、この国を守るという思いが強いので、理性としてはそちらを優先します」
彼女がニーミナに発った後のことを、想像するのは容易い。あの両親は、とんでもない旅路に送り出してしまったことを、後にひしひしと実感したに違いなかった。
怪しい宗教国家に娘を一人送り出すというのがどういうことなのか、誰もあの二人には言えないから。だからそうなってから彼らは気づく。
子どもは宝と呼ばれる。それは未来のため。発展のため。紡ぐため。全てこの国の方針だ。
故に子どもをもうけても、道具のようにしか感じていない親もいる。国はそれでもよいから産めと、ことあるごとに言い続けてきた。
しかしディルアローハの両親は欲張りだった。国のための存在だと言いながらも、子どもを愛し、愛される関係を求めた。その間でいつも揺れていた。
「でも、感情のうちでは、割り切れていないので。だからいつも後悔するんです」
彼女は苦笑をこぼした。
ジブルへの留学の時も、思い返せばそうだった。送り出してしまってから不安になったのか、ひっきりなしに手紙を寄越した。戻ってこいとは言わないのに。
いつだって後戻りできない段階になってから、いつも彼らは狼狽える。
おそらく母の聖の間の話が出た時に、二人はゼランツウィーシュに泣きついたのだろう。いや、心情を吐露しただけだったのかもしれない。
娘と二度と会えないとは、きっと思っていなかったのだ。頭では理解していたつもりでも、心はそうではなかった。
「最後まで突き通さないから迷惑をかけるのです。あなたも、ゼランツウィーシュ医術師も、それに巻き込まれたんです」
彼女は破顔した。サグメンタートは片眉を跳ね上げた。
世の人たちが見る彼女の両親というのは、医術師としての顔ばかりだろう。高潔で、向上心に溢れるその姿を、多くの者は賞賛する。
しかし子どもとして見上げていると、彼らはいつもちぐはぐなことを口にしていた。それが感情のせいだと気づいたのは、そんなに昔の話ではない。彼女も長らく翻弄されていた。
「お、お前なぁ」
「体面なんて気にしなかったのであれば、父には最初から拒否することができたはずなんです。私が選ばれたのはたまたまですから。それこそ適当な理由をつけて、別の者にって話を持って行くことも可能だったはずです。それだけの力も、影響力もありますから。違いますか?」
彼女がそう続けると、彼ははっとしたように顔を強ばらせた。――おそらく、そのようなことをゼランツウィーシュはやっているのだろう。
権力があり頭が回るのだから、もっともらしい理屈をつけて断らせることくらい可能だ。その方が賢い。
ディルアローハの両親がそうしなかったのは、公平であれという思い、国のために最善を尽くすという理念を、無視できなかったからに違いない。娘を特別扱いすることを、よしとできなかったのだ。
「そんなに不満に思うなら、あなたはどうしてニーミナまで来たのですか?」
苦しげに顔をしかめるサグメンタートへと、彼女は単刀直入に問いかけた。
不服そうな彼を見ていてずっと疑問に思っていた。彼は医術師を目指す者なのだから、それこそもっと自分を大切にすることが必要だ。
「見習いとはいえ、あなたは医術師への道を歩んでいる。この国のためを思うなら、あなたは私情による依頼など断るべきだったのかもしれません。この国の視点でいえば、私よりもあなたの方が大切にされるべきです」
命の価値は同じだと言われるが、国としての優先度はそうではない。これはもはや暗黙の了解だ。命を救うことの難しさを知る者たちだからこそ、まず自分の命を繋ぐことをも課せられる。
何かを口にしかけた彼の唇が、かすかに震えた。わずかに視線を逸らすその横顔からは、これまで抱えてきた痛みが垣間見える。
「俺は所詮、それだけの存在ってことさ」
サグメンタートの声は苦々しかった。ボッディとの会話の中で出た、兄の話がふと思い出される。
子がたくさんいることも、もちろん国としては賞賛している。しかし兄弟が多いというのも、それ相応の問題があるらしい。
「親に必要とされるだけが、国に必要とされるだけが、私たちの全てではないはずです」
彼女はそっと、膝の上で拳を握った。彼の家族事情など、深くはわからない。だから彼女に言えるのはそれだけだ。
しかしそれでも、寂しい思いをするたくさんの子どもたちを見ていたら、気づくこともある。
ここは親がいなくとも子が育つだけの環境を与えられている国だ。自分を必要としてくれる人間や場所を探すことも許される。子どもは宝だから。国の未来だから。だから、親の所有物ではない。軽んじられてもいけない。
「国を思うやり方だって、いかようにもあるはずです。私は父の愛を拒否するつもりはありませんが、父という存在は、私以上に重宝されるべきものだと思っています」
彼女は口角を上げた。立場というものを語る時、頭をよぎるのはクロミオのことだった。彼はまだあの年齢だというのに、国から求められる立場というものを背負わされてしまっている。よくないことだ。
子どもには子どもらしく生きる時間が必要だ。そのための場所は、それこそ子どもを宝だと思うなら、大人たちがきちんと用意しなければいけない。
「助けてくれたことには、もちろん感謝しています。私にも託されたものがありますから。ですが私も父を失うわけにはいきません。ですから父には何も言わずに動くつもりです。……両親は、最後の最後で情に流されてしまう人間なんです。それはあなたもよくわかったことでしょう?」
そう続ければ、サグメンタートは絶句した。この一点だけは、彼女は間違えない。
父の安全を優先するのなら、何かあった時のために『無実』でいてもらわなければならない。
「……お前があの少年に買われた理由が、ようやくわかった気がする」
そうぼやいた彼は、ついでふっと苦笑をこぼした。今までのような硬さのない、心底呆れた、それでいて温かみのある笑い声だった。彼女は大きな瞬きをして、彼を見下ろす。
「そういうことなら協力しよう。俺もミッシュエルン医術師たちに、火の粉がかかるのは望まないからな」
彼は相槌を打ちつつ、再び彼女の足へと手を伸ばしてきた。ちらとだけこちらを見上げたその顔には、どこか悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
「足、見ておかないと。後で親父にまたどやされる」
初めて見る類の表情だった。それでも彼女がその相貌に目を奪われたのは一瞬のことで。足首に触れられて痛みが走り、つい顔が歪む。
丁寧に包帯が解かれていく様を眺めつつ、彼女は握っていた拳をそっと開いた。
どうしてだか、子どもの頃に母に手当された時のことが思い出された。それは数少ない、母との二人きりの時間だった。
寝付きの悪い方ではなかったが、その日は何故か目が冴えていた。
寝台の上で何度も寝返りを打ちつつ、ディルアローハはため息を堪える。やはり神経が高ぶっているのだろうか?
つい昼間の話し合いのことが脳裏に蘇ってくる。胃がきりきりと痛むような心地がして、彼女は毛布の中で腹を押さえた。
サグメンタートにお願いをして、例の噂を流してもらったのは五日前のことだ。そして昨日、本の献上についての話を上層部に伝えてもらった。――本とは伝えずに。
今のところは、何事もない。誰からの接触もない。恐ろしいほどに静かだった。大国が何かを申し入れてきたという話も流れてこない。その辺りは毎日サグメンタートに確認してもらっている。
きちんとした装具をつけたおかげで足の調子もそれなりだし、体調も悪くはない。今のところは平穏そのもだ。
しかし漠然とした不安がずっと胸の奥底に眠っていた。誰かがこちらの動向を探ろうとしているような、そんな違和感がある。
特に昼間回廊を歩いていると、誰かから見られているような視線を感じることがあった。その度に、心臓の裏側がぞわぞわとまさぐられるような不快な感触を覚えた。
似たような感覚は、今も続いていた。これを胸騒ぎというのだろうか。このままではどうにも眠れそうにないと、彼女は寝台から身を起こした。
なんとなく落ち着かなくてそのまま立ち上がると、本を隠している戸棚へと近づく。布袋の中にきちんとそれが収まっているかどうか、確認するのが日課となりつつあった。
そして頁を捲って、中を確認する。たとえ文章が理解できなくとも、別の情報を得てからであればまた違うかもしれない。そんな思いもあり、繰り返し読むようにしていた。
布袋を手に取ったところで、再び奇妙な感覚に襲われた。静寂が揺さぶられたような、誰かが気配を殺しているような、そんな違和感だ。
しばし逡巡した彼女は、そのまま息を潜めて部屋の隅へと身を寄せた。こんな真夜中に人が通るはずなどない。そう自分に言い聞かせようとしても、鼓動が速まるのを抑えられなかった。布袋を抱きしめながら、彼女は身を縮める。
しばらくそうしていたが、その後も何も起こらなかった。物音一つしなかった。注意深く耳を澄ましていたが、廊下に響くあの独特の靴音は聞こえない。
やはり勘違いだったのか? 肩の力を抜いた彼女は、再び本を取り出そうと布袋をのぞき込んだ。いや、そうしようとしたところで硬直した。
かすかな音がした。それは明らかに、扉が開けられる時の音だった。鍵を掛けているはずの戸が動く音。思わず息が止まりそうになる。
誰かが入ってくる?
ついで、ゆっくり扉が押し開けられる気配がした。相手は明らかに、気配を殺そうとしていた。
ここでどうするべきか? 彼女は視線を巡らせる。だが辺りには身を守るような物などない。かといって大事な本を武器にするわけにもいかない。
大体、相手が何を持っているのかもわからなかった。迂闊な行動はできない。
思考だけがぐるぐると回り、何も決断できない。今すぐにでも叫びだしてしまいたかった。その声に驚いた何者かが逃げ出せばいいと、それだけを期待して。
しかし頭ではそう思うのに、息をまともに吸うこともできなかった。強ばった唇を動かそうとしてもままならない。ただただ鼓動の音だけが頭の奥で鳴り響く。
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