第22話 似たもの同士

 そのまま息を潜めて微動だにせずにいると、カツンと小さな靴音がした。聞き覚えのある、硬い音だった。途端、何者かがはっとする息づかいが聞こえる。

「そこで何をしてる?」

 廊下から響いたのはサグメンタートの声だ。今の靴音は彼のものか?

 同時に、誰かが勢いよく走り出す気配がする。「うわっ」と漏れたサグメンタートの声に、何かがぶつかる音が重なった。ついで軽やかな靴音が響いてくる。

 それでも彼女はその場を動けないでいた。

「待てっ!」

 サグメンタートが叫ぶ。扉を乱暴に閉める音が続く。

 そこまで耳にしたところで、突然全身に安堵が広がった。――助かった。その実感が、彼女の体から力を奪っていった。

 ゆっくり崩れ落ちるようにその場に座り込んだ彼女は、声を出そうと唇を震わせた。だが明確な音にはならず。ただただ喉の奥が引き攣れるような息がこぼれ落ちるだけだった。必死に空気を取り込もうとすると、今度は呼吸が荒くなる。

 頭の芯がまだぼうっとしていた。ぴりぴりと肌が痺れるような感触が、さらに現実感を遠ざける。吸い込んだ息が、体中に行き届かないような錯覚がした。布袋が膝に落ちるも、かすかな痛みさえ感じない。

 しばらくそうしていると、控えめに戸を叩く音がした。

「ディルアローハ」

 扉越しに呼びかけてきたのはサグメンタートだ。戻ってきたのか? 彼女は怖々と首を動かした。部屋の隅からでは扉の方はよく見えない。棚が視界の邪魔をしていた。

「寝てるのか?」

 そう問いかけながら彼は部屋へと入ってくる。そして恐る恐る寝台に近づこうとし、そこが空っぽであることに気づいたらしい。はっとしたように周囲を見回した。

 そこで、視線が合った。座り込んだままの彼女は、何も口に出すことができず。ただ彼をじっと見上げるしかできなかった。薄暗い中でも目が慣れたおかげか、彼が目を見開くのがわかる。

「ディルアローハ?」

 答えようにも、唇はわななくだけだ。呼吸さえうまくできない。すると困惑した彼は、手にしていた明かりをつけた。携帯用の小さな角灯だ。

 突然の眩しさに、彼女は思わず目を瞑る。途端、じわりと目尻から冷たいものがこぼれ落ちた。

「泣いてるのか?」

 困り切った彼の声に、彼女ははっと目蓋を持ち上げる。頬を伝っていく感触は、確かに涙だ。そんな自覚が全くなかっただけに、自分でも狼狽する。

「何か、されたのか?」

 首を捻った彼が、怖々と近づいてくる。彼女は急いで首を横に振った。何もされていない。大丈夫。そう伝えたいだけなのに、全く声にならずに歯痒い。

「なあ……」

「だい、じょうぶ、です」

 彼まで何故泣きそうなのか? そう考えると、ようやく喉が震えた。歪な発音になったが、それでもどうにか聞き取れる程度の言葉にはなった。そのことに安堵すると、ますます目頭が熱くなっていく。

「ただ、びっくり、して」

「……起きてたのか?」

 何か言いかけた彼は、思い直したようにそう尋ねてきた。彼が戸惑っているのは、揺れる角灯の軌跡からもよくわかる。

「はい。ねむれ、なくて」

「そうか」

 すぐ目の前で彼は膝を折った。彼女は唇を噛んだ。目を伏せると、寝間着用の白い治療衣が視界に入る。母が知れば叱られること間違いない状況だが、今さらの話だろうか。

 ニーミナへの旅でも、シリンタレアに戻る最中でも、何度も危険な目には遭ったというのに。それでも今日の恐ろしさはまた別格だった。自国で身を守る術もなく、ただ息を潜めるしかないというのは、心境が違う。

「ほんとうに、すみません」

 顔を上げられずにいると、そっと肩を掴まれる感触がした。ちらと横目で見れば、彼の大きな手が、ぎこちなく撫でようとしているのが目に入る。

 まるで子どもの相手をしなれていない大人が、恐る恐る触れているかのようだ。笑ってはいけないのになんだか少しだけおかしくて。ようやく口元から不自然な力が抜けていく。

「どうして、ここに?」

 ゆっくり顔を上げた彼女は、まずそれを確認した。何故彼はすぐに駆けつけてきてくれたのか? 偶然にしては早すぎる。

「献上の話を出したからな。動くかもしれないと思って」

 慌てたように手を離した彼は、わずかに目を逸らした。つまりずっと見回っていたのか? まさかそこまでしてくれているとは思わず、彼女は驚嘆する。

 何度か瞬きをしていると、彼は居心地の悪そうな顔をしながら、今度は左手をこちらへと差し出してきた。彼女は頭を傾けつつ、彼の手の中を見下ろす。

「廊下に落ちてた。たぶん、さっきの奴のだ」

 角灯の明かりに照らし出されたのは、液体の入った小瓶だった。少量の薬を持ち運ぶ際によく用いられるもので、シリンタレアでは珍しくもない。しかしこの形は、確か……。

「ねむり、薬?」

「中身が入れ替えられていなければな」

 彼は首肯する。彼女の記憶違いではなさそうだ。それは治療に用いるための鎮静薬だった。麻酔類が使用できない環境で、痛みを伴う処置が必要な場合などに用いるものだ。

 そう考えると、背筋を冷たいものが這い上ってくる。

「さっきのはまだ子どものようだった。たぶん十代だな。誰かに頼まれたんだろう」

 唖然としていると、彼はさらに驚くべきことを告げた。だから去って行く足音が軽やかだったのか? 納得すると同時に、頭を殴られたような心地がした。相手は子どもまで利用しているのか。

 襲ってきたのが子どもだとすれば、できることは限られている。彼がすぐにわかったくらいだから、それなりに体格差があったのだろう。もしかしたら彼女を深く眠らせ、その間に献上品を奪おうとしたのかもしれない。

 子どもならたとえ見つかったとしても、その子自身のせいにすればよい。好奇心がわいて止められなかったとでも言わせればいい。鎮静薬を取り出したことさえばれなければ、それでも押し通せるだろう。

「そん、な」

 子どもを切り捨ててまで、一体何を欲しているのか? 彼女には想像ができなかった。

 鎮静薬を使う考えも、この場で実際に手に入れることも、シリンタレアの人間にしかできない。大国にそそのかされたからでは説明ができない。少なくともこの国には、何かを隠そうとしている者がいる。

「大丈夫か?」

 サグメンタートの不安げな言い様に、彼女ははっとした。つい考え込んでしまっていた。ぎゅっと拳を握った彼女は頭をもたげる。

「ええ、平気です」

 慌ててそう答えたが、見上げた先の彼の顔は憂いに満ちていた。どうやら相当痛々しく見えるらしい。

 こういう姿を誰かに見られることがなかったので、彼女もどうすべきか困惑していた。心配をかけないように振る舞うというのは、なかなか難しい。

「すみません。本当に大丈夫です」

 指の背で目尻を拭いつつ、彼女は微笑を浮かべた。

 こんな時、嘘くさくない笑顔を作れたらよいのにと、考えずにはいられなかった。母のぎこちない笑みを思い出す度に、強くそう思う。そういう点は母譲りなのかもしれない。

「……それならいいんだが」

 ついと目を逸らした彼は、小さなため息を吐いた。呆れられてしまったらしい。今までのやりとりを思い返せばそれも当然だろうか。自分が役に立ったのは、大門を開けた時くらいだ。

「それにしても、一体誰の仕業でしょう」

 しかし落胆されるのは慣れている。彼女は落ちていた布袋を膝の上に乗せ、思考を現実へと向けた。

「さあな。どうせジブルに疑われる原因を作った奴らだろうさ。献上の話を流した途端にこれだからな。だから危険だって言っただろ」

 幸いにも、彼の口調は少しずつ元通りになっていった。どこか皮肉のこもった言葉にも、今は腹も立たない。視線を逸らしたままの横顔を、彼女はそのまま観察した。

「俺がいなかったらどうなっていたことか」

「そうですね。ありがとうございます」

 感謝の言葉はすんなりと飛び出した。あまりに流暢だったためか、こちらを振り返った彼は意表を突かれたようにぽかんとした。そんなに意外だっただろうか? しかし伝えるならば今しかない。

「あなたが来てくれて助かりました」

 ここまでずっと、彼には救われてばかりだ。迷惑をかけてばかりとも言う。

 けれども正直な思いを告げたというのに、何故か彼は苦い顔をして再び顔を背けた。照れているにしては眉間の皺が深い。

 もしかすると、彼は率直に褒められたことも、感謝されたこともないのか? そんな疑問がふと浮かび上がる。彼の父がずっとあの調子なら、あり得る話だった。

 優秀な一家にはありがちなことだ。やって当たり前。できて当たり前。そんな空気がそこかしこに満ちている。

「俺はただ、親父に叱られたくないだけさ」

「それでも助かったことは事実です」

 どこか後ろめたそうな彼の言い草には、きっと複雑なものが入り交じっている。

 だがこの際動機などどうでもいい。助けようとしてくれる人間がいる心強さを、彼女はこの旅で身に染みて実感した。表面だけの優しさよりも、それはずっとありがたい。

「ですから、あなたはあなたの心のままに選べばいいのです。私は私の目的のために、動きますから」

 心を決めた彼女が静かにそう答えれば、彼はやおらこちらを見た。先ほどとは違う神妙な眼差しが、真っ直ぐに彼女を捉える。

「それは、ニーミナの女神の教えか? 宗教って奴か?」

 どこか疑るような、それでいて怖じ怖じとした彼の声音に、彼女は全てを理解したような気になる。

 彼が恐れているのは宗教の力なのか。彼女があのニーミナを訪れたことで、何か変わってしまった可能性に怯えているのか?

 医術国家としての体を整える間に、シリンタレアでは信仰というものを排除するに至った。不要なものだと、争いの種だといって切り捨てた。

 だから彼女たちは祈る神というものを持たない。遙か昔にはそこかしこにあったという、神々を祀るための何かもない。全てのものは医術を守るためにある。――それも一種の信仰ではないかと、思う時もある。

「いいえ。私はウィスタリア教についてはほとんど何も聞いていません」

 ゆっくりと彼女は頭を振った。クロミオが口にしていたあの話は、ほんのさわりだろう。大体、あれだけ聞いても何もわからない。ニーミナの民が尊重しているという、女神の思いについては不明なままだ。

 それでもクロミオの言動から、ニーミナの現状から、読み取れることはあった。

 宗教という形があろうともなかろうとも、人々は時に争い、疑る。血筋を巡って口論する。その点に関しては宗教も解決してはくれない。違いがあるとすれば、何かの際に祈る先があるかどうかだ。

「これは私が得た教訓です。目指す先を間違えないことが肝要であると。優先すべきものが何か、間違えないことが大切なのだと。そう感じただけです」

 自然と頬が緩んでいくのを実感した。誰かを炙り出そうとするこの行為が、決定的な何かを引き起こしたとしても。このままジブルに全てを握られ、シリンタレアが消えていくことだけは避けなければならない。

 どんな形でも、シリンタレアは生き残らなければ。そのための道を、彼女は探るだけだ。

「……勝手にしろ。俺はただ、親父が困らないようにするだけだからな」

「はい、それで十分です」

 彼女が頷くと、サグメンタートはゆっくり立ち上がった。黒い術衣で、揺れる角灯の光が反射する。

「この薬は俺が預かっておく。親父には知らせない。お前も黙っていろよ」

「――わかりました」

 はっとした彼女は反論しかけたが、しかしそれをどうにか飲み込んだ。

 彼が最も大事にしているのが家族であるなら、口を出すべきところではない。父親の立場だとしても同様だ。

 彼女とて、自分の父親にも何も話さずに決行しようとしている。人のことをどうこう言えたところではなかった。

「実は、似ているのかもしれませんね」

 去って行く彼の後ろ姿を見送りながら、彼女は小さく独りごちた。苦笑交じりになるのだけは、禁じ得なかった。

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