第20話 優先順位
「えっ、あの、父は……」
「大丈夫。私たちがそこへ避難するように助言したんだ。アマンラローフィ医術師が聖の間の者に選ばれたのは、息子から聞いただろう? ミッシュも何らかの方法で拘束される恐れがあったからね。それで先手を打ったんだ」
彼女の動揺が伝わったらしく、ゼランツウィーシュは慌ててそう付言した。とりあえず父の身に何かが起こったわけではないことに、彼女は安堵する。父が無事ならば今はそれで十分だ。
「そうだったんですね。ありがとうございます」
「いや、ミッシュが率先して動いていてくれたからね。それで君たちが狙われてしまったんだろう。矢面に立たせてしまった我々の落ち度だ。……アマンラローフィ医術師の件については、本当に申し訳なかったと思っている。君たちばかり、辛い目に遭わせている」
心痛な面持ちのゼランツウィーシュの後ろでは、サグメンタートが苦い顔をしていた。何か言いたいことがあるのを堪えている表情だ。
しかしそれをここで指摘してよいとは思えず、彼女は押し黙る。何より、少しでも状況を知りたいところだった。今のうちに、できる限りゼランツウィーシュから聞いておいた方がよいだろう。
「あの、では母は……」
「聖の間に送られてしまった。間に合わなかったよ。本当に残念に思う」
ゼランツウィーシュは肩を落とした。本気で罪悪感を覚えている者の眼差しだった。
これでは詳細を聞く度に彼を傷つけることになるだろうか? 彼女は目を伏せる。母は元気なのか。最後に何か口にしていたのか。聞きたいことは色々とある。
「そう、でしたか」
「すまないね。それに君は十日間は、ここで療養することになる。それ以上短縮するのは無理だった。その直後にでも、ミッシュと会えるよう算段しておこう。何か言付けがあれば私が伝えるから、遠慮なく言ってくれ」
顔を上げたゼランツウィーシュは、すぐに破顔した。本当に親身になってくれるつもりらしかった。
しかし彼が言葉を紡げば紡ぐほど、サグメンタートの顔が曇っていくのが気に掛かる。父と会えるならば、話はその時の方がよいだろうか。だが十日も何もせずにすごして、果たして大丈夫なのか。
それでも頷いた彼女は、元気でいることを伝えて欲しいとだけお願いした。今はまだ、確たることが言える段階ではなかった。こちらももう少し現状を把握したいところだ。
「ディルくんが冷静で安心したよ。ではサグメンタート、彼女の足を見てやりなさい」
「……はい」
一通りのやりとりの後、相槌を打ったゼランツウィーシュは振り返ってそう口にした。
監視医が全て治療を担う必要はない……とはいえ、見習いに頼むのは異例だ。彼女としては、誰が見てくれてもかまわなかったが。彼らにはよくあることなのだろうか。
父と息子の会話というものを見かける機会に恵まれなかった彼女には、新鮮なやりとりにも映った。それともこれは医術師と医術師見習いのやりとりなのだろうか。
父と母は対等な立場であり、意見を衝突させることはあっても一方的な言動はなかったので、よくわからない。
ゼランツウィーシュがそのまま退室すると、痛々しい静寂が訪れた。扉の閉まる音が、やけに重々しく耳に染みる。
まず何を口にすべきか逡巡しつつ、彼女はサグメンタートを見上げた。彼は唇を噛みしめながら扉を見つめ、そしてため息を吐いた。今まで聞いた中で一番苛立たしげな嘆息だった。父親との関係は、良好とは言い難いらしい。
「すみません、お手数掛けて」
仕方なく、彼女はそう告げる。彼とてあの旅を終えた後なのに、もう働かされていることになる。そう考えると気の毒だが、彼自身には怪我はなかったということだろうか。彼も外層での観察対象なのは間違いないが。
「それは別にいい。俺の手当が不十分だからこうなったんだと、親父に手加減なしに叱られた」
こちらを振り向いた彼は、苦い顔をした。先ほどの会話から、容易に想像できる話だった。なるほど、そういう流れだったのか。
「まさか、その分ちゃんと責任を取れとでも?」
「最後まで責任を持てってだけだ。それは俺も異論はない」
彼が肩をすくめると、黒い術衣の上に纏った巻頭衣が揺れる。
帽子も外套もない姿というのは初めて見るが。彼の髪も、父親と同じく赤茶色だった。もっと深い色のように思っていたので意外だった。
「ところで親父には、あの少年の贈り物について話すつもりはないのか?」
近づいてきた彼は、膝を折りつつそう問いかけてきた。彼女は目を見開く。布袋を隠そうとしていたことを見抜かれたのか?
しかしそう問うてくるということは、彼もまだ話していないという証拠だ。彼女は曖昧に頭を傾ける。
「そういうわけではないのですが。誰が来るのかわからなかったものですから」
「ああ、そういえば親父とは顔を合わせてなかったんだもんな」
「問診は、別の方が担当でしたので」
昨日聞き取りを行っていたのは、ゼランツウィーシュより少し年下の女性だった。もちろん、ディルアローハよりはずいぶんと上だ。
てっきり彼女が監視医なのかと思い込んでいたが、もしかしたら、ゼランツウィーシュは何らかの力を使って交代させたのかもしれない。
「……親父、またやったのか」
それを裏付けるように、サグメンタートは眉根を寄せる。彼らにも色々あるらしい。それなりの地位のある医術師というのは、この国ではかなりの権力を持つ。
一方で義務も負う。医術師同士の関係というのも、複雑な部分もあるようだ。ディルアローハには捉えきれぬところだ。
「親父のことは気にするな。何かあっても自分で切り抜ける。……勝手に色々お前のこと守ろうとするかもしれないけど、それも無視していい」
彼女の足を片手で持ち上げるようにして、彼はそう続けた。本気で父親のことを疎ましく思っているようだ。その分、彼女の両親への憧れが強まったのだろうか? 自分にはないものの方が羨ましく思えるのは理解できる。
「その贈り物のことも、別に親父には明かさなくてもいい。どうせそのうちばれるだろうけどな」
彼のつむじを見下ろしながら、彼女は押し黙った。彼は幼い頃から医術師になるために指導され、それを当たり前とされ、生きてきたのだろうか。先ほど「叱られた」と口にした時の言い草は、それが今回だけに限らぬという調子だった。
彼女の両親は常に忙しくて、ほとんどろくに言葉を交わさない日もあったくらいだから驚きだ。
「……そのことなんですが。私、あの本がジブルの使者に、証拠として疑われているという噂を、流そうと思うんです」
気づいた時には、彼女はそう口にしていた。彼が「本?」と首を捻る姿を見て、中身が何であったかを話していなかったことにも気づく。だが今さらだ。
彼を信用しているのかと言われたら素直には頷きがたいが、しかし彼には言っておく必要があると感じられた。ここまで巻き込んでしまった以上、何も伝えずにいるのはまずい。
彼にもきっと火の粉が飛ぶだろうから、心の準備をしてもらわなければならない。
「贈り物のことです。ジブルの使者は、どうやら私が証拠品を握っていると疑っているようなんです。クロミオくんがどうにかごまかしてくれましたが、疑いが晴れたとは言い難いでしょう。きっといずれ、ここに乗り込んできます」
彼女の言葉を、彼は神妙に聞いていた。彼女が嘘を吐いているとは思っていない眼差しだった。
閉じられていた大門を開けたあたりから、その辺りの彼の態度が変わっている。国に見捨てられかけた者同士の哀れみなのか。それともあんな綱渡りをしてまで彼女が嘘を吐く利点はないと踏んだのか。
「ジブルの使者っていうと……あの獣使いの男か」
「はい。もしかしたら、私を疑るという体で、シリンタレアを探りたいだけかもしれませんが」
その可能性はずっと彼女も考えていた。クロミオが口にしていたことだ。
連合に糾弾されずに内部を探るための口実を、彼らは求めているのではないか? 嫌疑をかけるくらいだから、ある程度の証拠は既に握っているのだろう。あとは最後の一押しが欲しいと。
それがシリンタレア内でしか掴めそうにないなら、彼らならそうする。
「だとしたら、そんな噂を流したら、お前が危険だろう?」
手を止めた彼は、眉をひそめながら顔を上げた。彼女は目を丸くする。まさか案じてくれているのか?
「危険だから、やるんです。それにそんな噂が流れたら、ジブルが本当に疑っているという者が動き出すかもしれません。ジブルがここに乗り込んでくる前に見つけ出さないと、国は外から踏みにじられてしまいます」
それでも彼女はそう言い切った。
大国が動く前に何とかしなければという思いで、彼女たちは他国へと赴いた。しかし既に動いてしまったのであれば、もう悠長なことはしていられない。
大国はいつだって建前を欲している。それを与えてしまえば終わりだ。
「まさか、わざわざ自分を危険に晒すっていうのか? それじゃあ、俺が助けに行った意味がないだろっ」
睨み上げてくる彼の声には、強い不満の色が滲んでいた。怒りを堪えるよう震える唇の奥で、小さな舌打ちが漏れる。
なるほど、そういう考え方もあるか。しかしこの本をここに持ち込むことにもきっと意義はある。何があっても無駄にはならない。
「いいえ。私が無事にここに戻ったということには、きっと意味があります。もしかすると大門が閉じられていたのは、そういうことなのかもしれません」
故に動じることなく、彼女はそう述べた。
あの時はとにかく開けることだけを考えていたが、しかし門を閉めるというのは前代未聞な大事だ。ジブルが出した嫌疑を耳にしたからにしては、対応が単純でもある。
ならば「中にいる者」は一体何を憂いていたのか? 誰かの悪事が暴かれることを恐れたのではないか? だから大国の目が国外にいる彼女らへと向けられているうちに、対処しようとしたのではないか。
――そう考えれば考えるだけ、胸の奥に重石が置かれたような心地になる。そうなると、保身のために国を捨てた者がいることを意味してしまう。自分たちが見捨てられたとだけ考えるよりも、痛みは大きい。
「まさかミッシュエルン医術師にも言わないつもりじゃないだろうな?」
彼女が黙していると、しばし考え込む風に目を逸らした彼は、ついでそう問うてきた。父の名を出され、つい彼女の体にも力が入る。どうしてそこまで見抜いてしまうのか。
「……はい。私に万が一のことがあった時、父が事情を知っているのは、全てにおいて不利に働きます」
固唾を呑み、腹を決め、彼女は答える。
両親が疑われている状況であれば、彼女の拙い策についてなど伝えるべきではなかった。情熱的な母ほどではないにせよ、父も正義感と信念の人間だ。
「あのなぁ!」
「声が大きいです、サグメンタート医術師」
さらに声量が増したところで、彼女は釘を刺した。
人が乏しい外層の、しかも治療室とはいえ、どこで誰が聞き耳を立てているかはわからない。用心するに越したことはなかった。
「……見習いだ」
彼はばつが悪そうな顔で声を抑えた。それでも堪えきれぬものがあったらしく、固く拳を握るのが目に入る。
彼には信じがたい選択なのだろう。彼にとって、父親の判断はおそらく絶対だ。
しかし彼女は違う。両親はこの国の宝であり、彼女にとっても守るべき存在だ。彼らまで危険に晒すような真似はできない。
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