第19話 監視医ゼランツウィーシュ
サグメンタートが頷くのを確認して、彼女は再び鍵穴のある台へと戻った。そして先ほどの棒を、ゆっくり穴に差し込んだ。
ぴたりと何かがはまる感触があった。それを慎重に右へと回せば、どこかで何かが動き出すような音がした。間違いない、これが鍵だ。
どういった仕組みなのか気になるところだが、今は考えている暇などない。機構が作動したのであれば、あとは門を抜けて再び閉めるだけ。
彼女は引き抜いた鍵を道具箱へと戻し、それを抱えて踵を返した。念のため箱は元あった棚に入れておく。後のことを考えると、不自然な位置に放置はできない。
階段を下り始めると、ぐきりと足が嫌な音を立てた。いや、そんな気がした。顔をしかめた彼女は、それでも痛みは無視して壁伝いに一段一段下りる。
背中を冷たい汗が落ちていった。けれどもあともう少しだ。せめて門の向こうへ辿り着くまではもって欲しい。
「ディルアローハっ」
もう少しで階段が終わるというところで、サグメンタートが入り口に駆け寄ってきた。彼が手を差し伸べたところをみると、こちらの状態はずいぶん危うく目に映るようだ。だがどうにか笑顔を浮かべたくとも、顔が強ばってうまくいかなかった。
それでもようやっと階段を下りきれば、彼の手が彼女の腕を捕まえる。
「門は?」
「開いたっ」
腕を引き寄せられると血の臭いがした。肩を支えられながら門の方へと向かえば、かすかに開いた隙間から向こう側が見える。広い石畳の通路の先には、灰色の建物が並んでいた。右手には塔が見える。
当たり前にあったものを目にしただけなのに、言葉にならない感情がこみ上げてきた。
彼は門の隙間へと手を入れ、それを無理やりこじ開けようとした。ぎぎぎと軋むような音をさせながら、扉が開いていく。かなり重いのだろう。だがどうにか人が擦り抜けられるだけの隙間があれば、それで十分だ。
薬草の香りが混じり合った独特の空気が、彼女の鼻腔をくすぐった。シリンタレアに帰ってきたのだ。突然訪れる安堵感に、一瞬目の前が揺らいで見えた。
そこでぐいと彼に肩を引き寄せられ、彼女ははっとする。そうだ、まだ終わりではない。気を抜くには早い。
背負っていた荷を下ろして手に取った彼女は、かろうじて人が通れる程度の隙間に身を滑りこませた。うまくいった。続いて彼も門を通る。ぎりぎりだったが、彼は男性としては細身だったらしい。あとは閉めるだけだ。
大きく息を吐き出した彼女が再び革袋を背負っていると、手を離した彼は扉を閉めにかかった。石を擦るような、重たげな音が辺りに響く。
ゆっくりと狭くなっていく隙間から向こう側を凝視すれば、いつの間にか医の通りにまで煙が入り込んでいた。否、それだけではない。煙の向こう側で、何かの光がちらつく。
夕闇が世界を満たしていく中、一瞬だけ見えたもの。四角い金属の箱の下で、何かが回転していた。
――あれはおそらく車輪だ。つまり遺産だ。大国が所持するという移動装置の一つだ。
彼女は固唾を呑んだ。鼓動が高鳴り、額から汗が噴き出る。それでも門は、ゆっくりと閉まった。それに合わせて、再びどこかで機構が作動する気配がした。
助かった。これで大国といえども、容易には開けられない。
まさか移動装置を門にぶつけてくるような馬鹿な真似はしないだろう。それはさすがに連合でも糾弾されかねない。ナイダートならジブルに、ジブルならナイダートに、付け入る隙を与えることになる。そもそも、彼らにとっても遺産は貴重な物だ。
しかしこれであの者たちが諦めるとは思えなかった。おそらく何らかの方法でシリンタレア内部の調査を執り行おうとするだろう。
特にジブルは、今まさに友好条約違反の嫌疑を持ち出してきている。手続きを踏んだ後に、乗り込んでくるに違いなかった。
「行くぞ」
肩で大きく息をしていると、振り返ったサグメンタートがまた彼女の腕を取った。頷いた彼女の脳裏には、かすかに見えた遺産の姿が焼き付いたままだった。
ふと意識が浮き上がるような感覚があった。ゆっくり目蓋を持ち上げたディルアローハは、慣れ親しんだ天井をぼんやりと見上げた。
薄灰色の天井。そして高い位置に設置された窓。おうとつの乏しい壁。こうした内装は、シリンタレア独特のものだ。帰ってきたのだとという実感を噛みしめつつ、彼女はゆっくり体を起こす。
「あれ……?」
そこで気がつく。上方から差し込む光は茜色だった。これは朝日ではなく、夕陽だ。
夜が更けた頃に倒れ込むように寝台に入ったのだが。まさかそれからずっと眠り込んでいたのだろうか? 血の気が引く思いがした。
色々あって疲れていたのは確かだが、それでもこれから怒濤の報告書作成が待っているはずなのに。
けれども慌てて寝台を降りようとしたところで、包帯の巻かれた足が見えて動きを止める。骨に罅が入っている可能性があると告げた、医術師の言葉を思い出した。
今はまだ無理をする段階ではない。もう襲われる心配もないのだから。
彼女はそう自らに言い聞かせ、顔を上げて部屋の中を見回した。寝る直前と何ら変わりはなかった。布袋も棚の中に置かれたままだ。
外套や革袋は取り上げられてしまったが、これだけはどうにか死守することに成功した。外に出していなかったのが幸いしたのだろう。しかもここはシリンタレアの一番外層に当たる地区だ。そこまで感染制御にもうるさくない。
感染といえば、サグメンタートは大丈夫だろうか? 彼女は眉根を寄せた。血を浴びていた彼は、正門の前でまず検閲を受ける羽目になった。彼とはそこで別れたきりだ。
その後彼女はそのまま問診室という名の尋問室にて取り調べを受け、怪我を見つけられて、この外層治療室送りとなった。しばらくは中層へも入れまい。それはおそらく彼も同様だろう。
外へ出た者は、何をもらってきているかわからない。そういう判断をされる。そのこと自体は、ジブルに留学経験のある彼女もよく知っていた。行った先が問題なのではない。大国であっても同様だ。
他国では、シリンタレアのような厳密な管理はされていないのが普通だ。だから国外から帰った者は、熱は出ないか、皮疹はないか、痛みはないか、その他の怪しい症状が出ないかどうか、一定期間監視される。それも経験豊富な医術師によって。
「その間に何もなければいいんだけど」
もう一度窓を見上げて、彼女は息を吐いた。周囲に騒がしい気配がないことから、何らかの騒動が起きていないことは推測できる。しかし相手は大国だ。いずれは絶対に何か仕掛けてくるだろう。
それに、敵は内側にもいる。ジブルに疑われるような何かを引き起こした者が、この中にいるかもしれない。――母を陥れた者が。
その者をジブルより早く見つけ出す必要があった。シリンタレアの人間が見つけ出し、突き出すことで、これ以上国が荒らされるのを防がなければ。
唇を噛んだ彼女は思案した。そのためには何ができるだろう? どうすれば尻尾を捕まえられるのか。おそらく相手を焦らせることが必要だ。焦りは正確な判断を失わせる。
彼女は寝台の上で膝を抱えた。質素な白い治療衣の裾が、薄い布の上を滑る。視線を窓とは逆側の壁へ向ければ、差し込む夕日によって焼き付いた影が見えた。
そこで彼女はふと思い出す。ジブルの使者は何故か、彼女が証拠を掴んでいることを疑っていた。つまり彼らが欲しているのは、彼女が持ち歩ける程度のものということだ。
本? 書類? それとも何らかの小物? 小さな遺産? 一体何があり得るのかと考えたところで、はたと思いつく。
では、彼女が証拠を掴んでいるという噂を流すのはどうだろうか? そんなはずがないと思いつつも、誰かが動き出すのではないか?
隠し事があると怪しく見えると、クロミオは言った。それを活かすのも手だ。
相手もおそらく隠し事がある人間だろう。どんなに頭のよい者も、疑念を突かれると弱いものだ。
「これしかないわ」
独りごちた彼女は、寝台から足を下ろした。そうなると策を練らなければならないし、本を守るための工夫も必要だ。
慎重に立ち上がろうとしたところで、重々しく扉を叩く音がした。弾かれたように顔を上げた彼女は、どうしたものかと狼狽える。まるで心中を読まれていたかのようだ。そんなはずもないのだが。
寝た振りをしてやり過ごしたい気分だったが、怪我の様子を見に来た医術師かもしれない。仕方がなく、自分の背で棚が死角となるよう姿勢を変えつつ、彼女は返事をした。
「はい」
寸刻の間を置いて、扉が開かれる音がした。戸の向こう側にたたずんでいたのは、よくある薄青の術衣の上に、白い巻頭衣を纏った男性だった。赤茶色の髪を撫でつけるよう整えた、温和な顔立ちの者だ。
彼はふわりと顔をほころばせてから、寝台の方へと進み出てくる。
「ディルくん、目覚めたようでよかった。何度来ても眠っていたから心配したよ」
親しげに名を呼ばれ、彼女は困惑した。そんなに訪室していたということは、彼が彼女の担当だろうか? だが昨日問診したのは別の医術師だった。
当惑しながらも曖昧に頷いていると、男性の後ろからサグメンタートが顔を出した。思わず彼女が目を丸くすれば、彼は何か言いづらそうに口を開く。
「親父、名前」
「ん? ああ、そうか、眠っていたので自己紹介もまだだったね。私はゼランツウィーシュ。君の監視医だ」
そう告げられた彼女は、気の抜けた声を漏らした。なるほど、サグメンタートの父親なのか。言われてみると、目元が似ている気がする。言動が尖っているサグメンタートよりは、ゼランツウィーシュの方がずいぶんと穏やかに見えるが。
サグメンタートの血縁者ということは、味方なのか? そうとは言えなくとも、少なくとも警戒しなくてもよいということか。
あれこれ考えていると、サグメンタートが扉を閉める音がした。それを待ち構えていたように、ゼランツウィーシュは口角を上げる。
「君のことはミッシュから頼まれていてね。無事でよかった」
近づいてくるゼランツウィーシュの口からこぼれたのは、父の愛称だった。
父をそのように呼ぶ者は限られているから、おそらく古くからの知り合いなのだろう。だから真っ先に彼女の愛称を口にしたのか。理由がわかり、彼女は胸を撫で下ろす。
「そう、でしたか。ご心配おかけしてすみません」
彼女は静かに頭を下げた。あの父がそんなことを他人に言うなど珍しかった。誰かに何かを任せるのは苦手な方なのだ。それだけゼランツウィーシュを信頼している証拠だ。
「いや、いいんだ。今ミッシュは療養塔で休んでいるからね。君に会うのはもう少し先になるだろう。それまでは私を頼りなさい」
そう続けたゼランツウィーシュは眉尻を下げた。小さく相槌を打ちかけた彼女は、思わぬ単語に息を呑む。
――療養塔に医術師が入る。それも治療者としてではなく。それはかなりの大事だ。
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