第2話 婚約者の条件

 口元まで湯に浸かりつつ、ディルアローハは指先でこめかみを押さえた。

 この選択は間違いだったのではないか。そんな予感にひしひしと苛まれながら待つ時間の、なんと長いことか。いや、実際長すぎる。このままではのぼせてしまいそうだった。

 嘆息するのを堪えた彼女は、手を伸ばしてそっと湯を掻いた。柔らかな光に照らされた白い湯の上で、薄紫の花弁がくるくると回る。

 この国を象徴する花らしい。実に甘やかで華やかなよい香りがする。こんな状況、こんな場所でなければ、贅沢な時間だろう。

 両の手のひらで湯を掬い、彼女は眉根を寄せた。耳を澄ませども、あの少年が扉を開けてくる気配はない。彼を待たずにさっさと湯を出た方がよいのではないか? だがそうであれば、何のためにこの提案を呑んだのかがわからなくなる。

「困ったわね」

 小さくぼやいたつもりの声は、想像以上に響いた。天井が低いせいだろうか。クロミオ曰く、この浴場は客人用に最近あつらえたものらしい。大国からの要人が頻繁に出入りするようになったせいだという。

 確かに、大国ジブルでは定期的に湯に浸かる習慣があった。彼女には留学経験があるので、そういった風習も知っている。

 戯れに、その花びらを指で摘まんでみた。見慣れない花弁だ。薬術師である彼女に覚えがないということは、シリンタレアには自生していない花かもしれない。

 ジブル留学時にも見かけたことはなかった。どのような花だろうか? こんな時だというのに好奇心が刺激される。つぶさに調べてみれば、何らかの効能が見いだせるかもしれない。いつだって植物は貴重な研究対象だ。

 と、背後で扉の開く音がした。はっと息を呑んだ彼女は、慌てて腕を胸元まで引き寄せる。かすかに俯くと、湯の上で揺れる亜麻色の髪が視界に飛び込んできた。

 ぺたりと軽そうな足音がする。まだ十三歳だというから、彼女の方が背丈もある。きっと体重もだろう。彼女は緊張を押し隠すように、白い湯をねめつけた。

「ディルさん」

 すぐ後ろで、しゃがみ込む気配があった。

「状況が変わった。早くここを発って。昨夜、早馬が来た。ナイダートの使者が、遺産探索を行うって警告してきた」

 けれども耳元で囁かれたのは、予想だにしない話だった。弾かれたように彼女は振り返る。湯から出た髪の先から、ぽたりと滴が落ちて跳ねた。

「早馬?」

 すぐ目の前にいるクロミオは、見慣れない白い貫頭衣を身につけていた。簡素な白い帽子からはみ出た黒髪が、湿気のせいかいつもよりもうねっている。

「うん。じきにこの辺りの道も封鎖される」

 普段は余裕の色をたたえたその双眸が、今は神妙に何かを訴えていた。

「遺産探索……?」

 彼女は繰り返す。文書の中でのみ存在するような単語だ。少なくとも彼女が生まれてからは、警告が必要なほどの大規模な探索は行われていないはずだった。そうする労力をかけるくらいの遺産は、既にどこかの国に渡っているせいだと言われていた。

 過去の技術でもって生み出されたそれらは、大雑把にひっくるめて遺産や遺跡等と呼ばれている。小国の倉庫に埋もれていたり、何も知らぬ人々の家の奥に眠っていることもあるが。大抵はろくに使えぬものばかりだ。

 長いこと整備されていないのだから仕方ない。だからもうこのところは大国も、そうした遺産を探すのは諦めているはずだった。

 それでもクロミオは冗談ではないと告げるよう、真顔で頷く。

「そう。怪しんでいたら、今朝方にジブルの使者までやってきた。そっちはずっとだんまりだけど。でもきっと大国間でまた諍いが生じている。遺産探索という体で何かするつもりだ」

「そんなっ」

 嫌な予感がした。彼女は思わず身を乗り出しかけたが、しかしこのまま湯から出るわけにもいかない。ひたすら瞬きを繰り返しながら、思考を巡らせる。

 ジブルとナイダートの二大国は、何かあるごとに勢力を誇示しようと争っている。他の小国は、その流れから逃れることはできない。

「急がないと。このままじゃあ、ディルさん帰れなくなるよ」

 そう続ける彼の声には、真に案じている響きがあった。もちろん、そう装っているだけの可能性も高い。だが疑る時間も惜しかった。

「わかりました」

 彼が知らせてくれたという点が、今重視すべきものだ。自国へ帰れなくなるのは困る。クロミオの思惑について考えるのは、その後でもよいだろう。

 ニーミナからシリンタレアへ戻るためには、遺跡群の傍や毒の地を通らなければならない。遺産探索が行われるのであれば、その辺りは封鎖されてしまうに違いなかった。

「あ、そうそう。本当は後で渡そうと思っていたんだけど」

 そこでふいと彼は声音を変えた。どこか悪戯っぽい色を含む、それでいて奥底に何かを潜ませた、少年独特の高さの声だ。

「贈り物があるんだ。用意した荷物の近くに置いておいたから。持って行って」

 艶めいた微笑を浮かべた彼は、内緒話でもするように耳元で囁いた。ぞくりと彼女の背は粟立つ。悪魔の少年がそんなものを押しつけてくるという噂は聞いたことがなかった。彼女が首を捻ると、髪からまた一滴、水滴が落ちる。

「宝飾品じゃなくてごめんね。実は、医術書なんだ。僕らが持っていても仕方がないでしょう? ディルさんの方がきっと役立ててくれると思うから」

「どう、して?」

 喫驚した彼女は目を見開いた。自然と唇が震える。そうすることで、彼に利点があるとは思えなかった。

 いや、皆無ではないのか。どうやら彼は彼女との繋がりを維持したいらしい。あえて親しげな呼び方をしてくるのもその一環だろう。ならば贈り物は、誠意の印といったところか?

「どうしてって? 嫌だなぁ。婚約者に贈り物をするのは当然でしょ?」

「こ、婚約者?」

「一緒に浴場に入ったんだからもう婚約者だよ。シリンタレアではどうか知らないけど、ニーミナではそう見なされる。今は無理だけど、そのうち迎えにいくから。シリンタレアで待ってて」

 だが続いて放たれたのは別の問題を孕む言葉だった。満面の笑みを浮かべた彼の顔を、彼女はまじまじと見上げる。声が出ない。

 ではまさか彼は、対外的な既成事実を作ろうとしていたのか? しかし理由がわからない。彼ほどの実権を持つ者が、彼女と繋がるためにそこまでする必要があるのか?

「言ったでしょう? 僕、子どもがたくさん欲しいんだよね」

 彼はそう付言した。確かにそれは聞いた。彼は女神に愛されし血の持ち主であり、そのためニーミナでも重要な立ち位置にいる。故にたくさんの子を望まれている。その血筋を絶やさぬことが、この宗教国家では重要なのだ。

 正直、そんな理由で子を望むというのは理解に苦しむ。それに、そもそも彼はまだ少年だ。子どもにそんな思いを抱かせるこの宗教国家に対して、嫌悪感すら抱いていた。

「……それを私に望むのは間違いかと思います。それに婚約なんて、私は了承した覚えはありませんよ」

「うん、ディルさんはそう思っていてもいいよ。でも必ずそうなるから」

「強気ですね」

「この状況でそんなことを言うディルさんの方が強気だよ」

 彼は楽しげに笑った。軽く人差し指でさされて、彼女は眉をひそめる。だが異を唱えるのは難しい。こんな無防備な恰好で、しかも自国へ帰る道が危うくなっているという状況で、強く突っぱねたところで笑い種だ。

 しかしこちらも言われっぱなしではいられない。彼女は頭を傾け、ついで口の端を上げた。

「そうですね。これは失礼しました。それではその件は一旦保留とさせていただきます。少なくとも私の国では、十五歳未満の人を婚約者には指定できませんので。私を犯罪者にしないでくださいね?」

 彼女はそう告げて瞳を細めた。ただし、今のは正確な表現ではない。厳密にはシリンタレアにはそのような規則はない。

 もっとも、十五歳未満の人間の扱いについてはかなり事細かに決められており、正式に婚約を結ぶことは不可能であった。せいぜい軽い口約束程度だ。

「そうなんだ。ま、いいよ。二年後なら、ディルさんもまだ二十四でしょう?」

 そんなことは、さすがの彼も知らないだろう。案の定あっさり引き下がった彼に、これ以上追及する気はなさそうだった。

「二年後も、あなたの気持ちが変わらなければ検討しましょう」

 だから現時点で言えるのはここまでだ。今はまずこの危機を乗り越えることが先決だった。

 二年も経ってしまえば、彼女の立場は全く異なるものになっている可能性がある。いや、彼女だけでなくシリンタレアも。そうなればきっと彼も考え直すことだろう。

「慎重だなぁ」

 彼は困ったように笑いながら、自らの頬に手を当てた。まるで彼女が我儘を言っているかのような口ぶりだ。しかしこんなところで動じていても仕方がないと、彼女はうそぶくようなつもりで微笑む。

「当然です」

 身を守るものがない場所でははったりも必要だ。けれども何の成果もなく自国に帰ることを思うと、やはり心は沈んだ。

 結局はニーミナが台頭してきた理由も掴めずじまいだ。彼をこのように育てたこの国について、今の彼女にとやかく言う資格などない。彼女は彼女で、自国の子どもたちを守らなければならない。

「それじゃあ」

 名残惜しげに、彼はやおら立ち上がった。白い貫頭衣が重たげに揺れる。彼は帽子からはみ出した髪を指先で弄りつつ、黒い瞳をわずかにすがめた。

「気をつけてね。部屋の前に案内人を待たせているから。彼について教会を出て。表側にはジブルの使者の付き人がいる。たぶん、裏から出た方がいいよ」

 そう告げられて、彼女はもう一度瞳を瞬かせた。彼は本気で彼女のことを案じてくれているらしい。いや、違うか。彼女が無事に戻らなければ、シリンタレアとの交友が絶たれてしまうからか。

「ありがとうございます」

 それでも彼女にとっては幸運な取り計らいだった。ぺたぺたと足音をさせながら遠ざかっていく背中に、丁寧に頭を下げる。

 また髪から一つ滴が落ちて、浮かんだ花びらを揺らした。白い湯から、甘やかな香りがかすかに立ち上った。

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