第3話 追っ手
吹き荒ぶ風に髪を煽られ、ディルアローハは瞳をすがめた。
つい歩みも止めてしまうと、ますます足の重みに意識が向く。一日ならまだしも、二日も歩き通しとなると、疲労を意識せざるを得なかった。
急ぐ理由がなければ、もっと適切な頻度で休息をとるところだ。この先に待ち受ける毒の地の滞在時間を減らすべきだろうから、それまでは体力を温存した方が賢い。しかしそうするわけにはいかなかった。
「寒い」
彼女は首をすくめ、外套の襟を手で押さえた。人家が減ると、遮る物がなくなるので、風の勢いも増してくる。だが悠長にはしていられない。
遺産探索警告の話が本当であれば、もう大国は動き出しているはずだった。
探索と呼ばれる時に主な標的となるのは、滅びた小国の跡地や、どの国にも属さぬ不毛の地だ。ニーミナの周囲には、放置されていた汚染地域が幾つも存在している。そのうちのどこが封鎖されるのかは、わかったものではない。
「せめて夜だけでも、風をしのげる場所が必要ね」
襟で跳ねて揺れる髪を、彼女は耳にかけた。その拍子に腕の中の布袋が落ちそうになる。慌ててそれを抱え直した彼女は、背中の荷の位置も正した。
「それにしても、大国はどうしてまた急に」
顔をしかめると同時に愚痴もこぼれる。一人旅は、どうしても独り言が増える。ひたすら殺風景で平坦な道を進むのだから、なおさらだろう。再び歩き出した彼女は物思いに耽った。
大国が動き出すのには理由があるはずだ。まさかシリンタレアでの騒動が明るみに出たのか? そこまで考えたところで頭を振る。
そのはずはない。まだ大国が動く段階ではない。そうだったとしても、遺産探索警告という派手な方法を選ぶ理由がなかった。大国同士の何かがなければ、そこまでの手段は執らない。
彼女は抱きしめた布袋を見下ろした。この中には、クロミオが置いていった本がある。昨夜、暖を取るために潜り込んだ空き家で確認してみたところ、医術書というのは嘘ではないようだった。
何故ニーミナに医術書があるのか訝しんだが、そもそも連合にも加盟していなかったので、大国も知りようがなかったのだろう。
禁忌の力に手を出そうとしている、怪しい宗教国家。それが彼女たちが学んでいたニーミナという国だ。他の小国であれば医術書はほとんど大国に持ち去られているが、ニーミナは免れていたに違いない。
そんな小国が、突然大国から重宝されるに至った。シリンタレアだけでなく、各国が動揺した。
「そこが変なのよ」
彼女は道の先をねめつける。実際に国を訪れてみても、理由はわからなかった。唯一わかったことがあるといえば、そこに古の書物が豊富に残されている点くらいだ。
この世界は、この星は、何度も文明の滅びを迎えている。繰り返された大戦が原因だとも、他の星の侵略を受けたのだとも言われているが、記録も曖昧なため詳細は杳として知れない。
だが確実に、この世界は緩やかに死に向かっている。技術がなく、資源も乏しいとなれば、打つ手がない。
しかし次こそ本当の滅亡がやってくると人々が考え出してからでさえ、既に相当の月日が流れていた。
生き物というのはどうやらしぶとく、打たれ強いらしい。それは毒の地に疎らに生える草も証明している。汚染された土地の一つである毒の地は、この先に待ち構える難所の一つだ。
「……その前に遺跡群があるか」
いや、難所は毒の地だけではない。ぽつりと彼女は独りごちた。
点在していた人家が途絶えてしまうと、小山が立ち並ぶ地帯へと突入する。その先は遺跡群だ。ニーミナへと赴く途中にも目にしたが、あれは実に異様な光景だった。
かつては金属の塊が空を飛び、地中を走り回っていた。それどころか、星を飛び出して宇宙にまで進出していた。そんな絵空事が現実であることを突きつけてくるのが遺跡群だ。
今となっては分解することも不可能な、巨大な建造物。半分朽ちたまま植物に覆われているそれらは、確かに自分たちが文明を失ったことを訴えかけてくる。
遺跡群は夜盗や動物のねぐらとなっている可能性が高いため、夜の寒さをしのぐ場としては不適当だった。
ならばどこかの山の麓で夜を明かすしかないのだが、小屋のようなものがあるのは期待できない。これも問題だった。
また荷を背負い直し、彼女は顔をしかめる。
ニーミナが長らく他国との交友を絶っていたせいで、この辺りの道はろくに整備されていない。この数年でようやく、女の身でも歩けるようになった程度だ。だから寝泊まりするのに適した場所も少ない。
既に足は棒のようになっていた。この調子であれば、最初の小山の辺りで野宿となりそうだ。できればもっと急ぎたいところだが、夜に出歩くと獣の餌食になりかねない。
そうあれこれ考えつつも、彼女は淡々と足を進めた。山が近づいてくると、辺りを吹き抜ける風が勢いを増していった。
草葉の揺れるさざめきが、ざわざわと肌に張り付くようで。何とはなしに居心地の悪さを覚える。
空気に雨の匂いが混じっているせいもあるだろうか? ここらは朝方に雨が降っていたのか、道が所々ぬかるんでいる。
そんな中、違和感を覚えたのは、日が傾き始めた頃だった。
泥の一部にならされた跡があることに、彼女はふと気がついた。風によるものとは思えぬなだらかな表面を、最初は怪訝に思って一瞥しただけだった。
しかしさらに進んでいくと、そういった場所が散見されることに意識が向く。土の質の問題なのかもしれないが、どことなく奇妙な印象があった。
それはまるで、何かの痕跡を消そうとしているようだと。
「まさかね」
呟いた声が震えていることを自覚すると、背筋が冷たくなった。こういう時の得も言われぬ感覚を無視してはいけないと、両親は口うるさく言っていた。それは研究者の勘だと。
普段とは違う何か、自然ではない何かを、見逃す者は足下をすくわれる。
しかもナイダートが遺産探索警告を出した後だ。既に誰かが動いていても不思議はなかった。先走った者がいるかもしれない。
もしくは、違法に探索していた誰かが、逃散のための動きを見せているとか。
これといった確証はないが、誰かにとって見られたくない何かがあった可能性は否定できない。それをうっかり発見してしまうのはまずいだろう。彼女はため息を堪え、傍にある小山を見上げた。
「入りたくはないんだけど」
たとえば不法に遺産を運んでいる者がいたとすると。痴れ者でもなければ、さすがに山の中を進もうとは思わないだろう。
抱えているのが軽く手で運べるような物ならば、そもそもあのように泥をならす必要性がない。そうする必然がある重たい何かを所持しているのであれば、普通は生い茂る木々の中には飛び込まない。
とはいえ、小さくとも山は山だ。彼女も足を踏み入れるのは気が進まなかった。
が、安全に夜を過ごすためには、人目につかない場所を探さねば。偶然誰かに見つかってしまうと、どう勘違いされるかわかったものではない。
仕方なく、彼女は山へと足を向けた。幸いにも緩やかな斜面が続いていたので、それ相応の装備がなくとも登ることができそうだった。
ただ抱えた本の重みは増したような気になったし、動きはどんどん鈍くなっていった。つくづく体力が乏しいと、恨めしい気持ちになる。
それでも長かった髪をばっさり切っていたことは正解だった。こうなることを予期したわけではなかったのだが。あのままでは、枝に引っ掛かっては足を止める羽目になっていただろう。
だが歩けそうな場所を選んでも、次第に疲労が色濃く全身に染み渡っていった。気温もぐんと下がっている。
吹き込む冷たい風が、長草をざわりと揺らした。それに混じって、不意に鳥の鳴き声がした。慌てたせいでよろめいた彼女は、怖々と顔を上げる。
さらに日が傾いたせいで、ますます辺りは薄暗くなっていた。進んだ分だけ、生い茂る木々も勢いを増しているようだ。
彼女は身を震わせつつ、足を前に出す。さらに陽光が遮られるようになり、ぬかるんだ足下が見えづらい。その後も幾度か転びそうになった。
誰かが追いかけてきていると気がついたのは、また危うく転倒しかけた時だった。咄嗟に手を伸ばして側の枝を掴んだところで、がさりとどこかで木々が揺れる音がした。
風のせいにしては短く、単発的な音。それが確かに後方から聞こえた。
彼女は恐る恐る振り返る。はっきり見える範囲に、人影はない。たださらにその奥となると、重なり合った灌木のせいで判然としなかった。
誰かいるのか? あちら側からは、こちらが見えているのか? 何もかもがわからない。それでも一つはっきりしていることがあるとすれば、その何者かは、彼女が立ち止まったのにあわせて動きを止めているという事実だ。
獣か? それはそれで危険だが、獣がこちらにあわせて足を止めるものだろうか? まさか「見つかった」と勘違いをした盗掘者だろうか? 距離を詰めるまでは息を潜めているつもりなのか。それとも他の仲間の到着を待っている?
彼女は息を殺した。取り越し苦労と決めつけるにしては、安心する材料が不足していた。この場合は、最悪の事態を想定しておいた方がよいだろう。
彼女は進路を右手へと変更した。さらに薄暗い方だ。
できれば追っ手を撒いて下山してしまいたいが、仲間が麓で待ち受けていたらそれはそれで終わりだ。隠れるのに適した場所を見つけ、やり過ごす方がましだろう。
忽然と泣きたい気分になった。
ニーミナを目指していた時は、まさかこんな目に遭うとは予想もしなかった。ただ何か手がかりがあればよいと、シリンタレアが追い詰められるより前に真実を掴みたいと、そればかりを考えていた。
まるで暗闇の中を手探りで進むような心境だった。本の入った布袋を抱えた手がじんじんと痺れてくる。
時々立ち止まって耳を澄ませてみたが、先ほどのような違和感のある葉擦れは聞こえてこなかった。また上空で鳥が鳴き、夕暮れを告げるだけだ。
段々、自分が山を下りているのか上っているのかも定かではなくなる。急な斜面を避けているうちに、どんどん山の奥へと入り込んでいるような気がした。
そろそろ立ち止まった方がよいのではないか? そう躊躇し始めた時だった。今度は前方の茂みが、がさりと音を立てた。
足が勝手に止まった。口から心臓が飛び出しそうな心地がした。かすかにこぼれかけた悲鳴が、冷たい空気を震わせる。
身をすくめた彼女は周囲へと視線を彷徨わせた。後退した方がよいのか? いや、後ろにも追っ手がいる可能性がある。
では別の方へ逃げた方がいいのか? しかしそちらの斜面は急だ。雨でぬかるんでいれば、たちまち転がり落ちることになるだろう。
「止まれ」
逡巡していると、前方から低い声がした。生い茂る葉の向こうから、明確な意思を持った言葉が聞こえてきた。
彼女はひゅっと息を呑む。呼吸をするのさえ苦しかった。それでも悲鳴を上げるのは堪え、大事な布袋を抱きしめる。
「シリンタレアの人間だな?」
ついで聞こえたのは思わぬ問いだった。彼女は瞠目する。シリンタレアの人間がこんな場所にいることを知っているのだとしたら、ただの盗掘者ではない。
――まさか大国ナイダートやジブルの関係者か? クロミオが彼女を密かに逃がしたことに気づいて追ってきたのか? それともシリンタレア自体を疑っている?
あらゆる可能性が考えられた。そういう場合は、こちらから不用意に情報を与えるのはまずい。彼女は黙することを決める。
「だんまりか」
一歩、何者かが進み出てくる。そこでようやくその姿が露わになった。
土色の外套を羽織り、同様の布を頭に巻き付けた青年だった。彼女とは違い、悪路を歩くことを前提とした恰好だ。そして何かを決意した形相だ。薄暗い中でも、茶色い瞳に剣呑な光が宿っているのが見て取れる。
「ニーミナから来たな?」
「そういうあなたは、何者ですか?」
さらに深く問われ、彼女は聞き返した。情報は漏らさずに相手から引き出す。それはシリンタレアを発つ時に、同じ薬術師の上司から何度も強調されたことだった。
本来であればニーミナの悪魔クロミオに対抗するための教えだったのだが、まさかこんなところで思い出すことになるとは。
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