薬術師ディルアローハの渉外~遺産の星と悪魔の少年~
藍間真珠
第1話 悪魔と呼ばれた少年
権力を持つ少年を、果たして子どもと扱うべきか否か。
額を押さえたディルアローハは、ため息を飲み込みつつ白い廊下をうろついていた。
小国ニーミナの中心に位置するこの教会は、どこもかしこもこうした白い壁、床、天井で覆われている。廊下に並ぶ無愛想な扉も真白で統一されており、まるで異世界に迷い込んだような心地がした。
実際、ここは彼女の知る世界とは異なっていた。
長年閉じられていた怪しい宗教国家。各国から疎まれていた場所。訪れてみれば危険なものこそ見当たらなかったが、それでもここでは不可思議な理屈がまかり通っている。
最も驚いたのが、まだ十三歳の少年が国の中枢に入り込んでいることだ。心も体もこれから成長する段階にある者を、そんな場所に放りこむなど。シリンタレアでは許されない。
ニーミナを目指す前から、噂には聞いていた。突然大国間で重宝されるようになったこの怪しい国では、悪魔と称される少年が闊歩していると。
叔母がこの国の中枢にいるからというその立場はわかるのだが。それにしても彼の振る舞いは、予想していたよりも異常だった。
美しい少年が国の象徴として扱われるのは、ままあることだ。彼女には理解できない感覚ではあったが、人の目を惹くというのは一種の才能であるから致し方ないとは思う。
しかしそうした少年に要人の相手をさせる、他国の人間と関わらせるというのが、どうにも腑に落ちなかった。しかも国の重要な事項にも関わっているようなのだから、ますます不可解だ。
「あ、ディルさん」
と、不意に背後から声をかけられた。――見つかった。足を止めたディルアローハは、拳の汗をスカートへと押しつけ、振り返る。
人気のない廊下の向こうで手を振っているのは、今まさに彼女の思考を奪っていたかの少年だ。情報を探るのを阻み、翻弄してくる者。
白いシャツに黒いズボンという取り立てることのない恰好をしているはずなのに、それでもどことなく気品を漂わせている。緩く波打つ黒い髪に黒い瞳と、これまた特段目を引くような点はないのに、彼はどうしてだかどこにいても周囲から浮き立って見える。
「クロミオくん」
「もしかしてまた迷ったの? しょうがないなぁ」
鷹揚と近づいてくる彼を待ち受け、彼女は眉尻を下げた。
全てが白いこの教会は、探索者をいとも容易く迷わせる。あちこち探りを入れようにも、まずあてがわれた部屋に戻るだけでも一苦労だった。
そういう状況であるから、教会内を彷徨っている間に、こうして彼に見つかる日々が繰り返されていた。
こんな大事な場所に部外者を入れるなど浅はかだなどと当初は思ったが、間違いだった。この教会は部外者を閉じ込めておく檻であり、罠でもある。
どこかに植物でも置かれていれば、彼女はまず間違いなく自分の居所を掴むことができるのに。しかし廊下には絵一つ掲げられていない。
ただひたすら真白な空間に包まれていると気が狂いそうになる。窓の外に広がる風景すら愛想がなかった。春を迎えたはずなのに、まだ木々も冬の装いだ。
「すみません。ここは本当にわかりにくいですね」
「案内一つないからね。ずっとそうだったんだって。知ってる? ここは全部かなーり昔のものを真似て作ってるだけなんだ。最初はちゃんとわけがあったのかもしれないけど、でも今となっては誰も知らないんだ。知らないのに、それを変えるなんて不届きだっていって、長いことこのままなんだ」
肩をすくめた彼はけらけらと笑い声を上げた。こちらの心情も、事情も、まるで全て見透かされているかのようだ。彼女は強ばった笑みを顔に貼り付ける。
この世界の歴史が途切れてから、どれだけの月日が流れたのか。もはや彼女には知る由もない。
この宗教国家ニーミナは、歴史上では古くから存在する国の一つらしい。それこそお伽噺の時代から。彼女の生まれたシリンタレアも長いこと国という形が維持されている方だが、この小国には敵わない。
かつては存在したという女神の力を信仰し、頑なに他国との関わりを避けていた宗教国家。それなのに、この五年ほどで突然、国交を開いた国。
大国の間に挟まれ摩耗されている小国シリンタレアにとって、ニーミナは無視できない存在となりつつあった。
とはいえ、ニーミナとシリンタレアは離れている。その間には不毛の地が広がっており、実害を受けるようなことはない。
だからしばらくは様子を見ていた。ニーミナが何か動き出せば対処するという方針を執り続けていた。事情が変わったのはここ最近の話だ。
「だからお客さんがみんな困ってるんだよ。この間もジブルの使者さんが迷っちゃってさ。探し回ったんだから」
思考の海に潜りかけていると、クロミオは陽気な声で続ける。彼女は肩に力を入れた。当たり前のように口にされる大国ジブルの名が、強く耳に残る。
二大国による均衡が保たれている時代は、長く続いている。少なくとも滅びの決定打となった先の大戦からは、そうした状況が変わっていない。
どの国も二大国の顔色をうがいながら、じりじりとあらゆるものが失われていくのに耐えていた。医術国家などと呼ばれ特別な扱いを受けている、シリンタレアとて同様だ。
その二大国がこぞってこのニーミナとの関係の強化を図っている。これを異例と言わずして何と呼べばよいのか。ぬるま湯の中で現状に甘んじていた各国は、突然の変化に打ち震える羽目になった。
「あ、ジブルの使者さんといえば、ここのお風呂絶賛だったんだよね。ディルさんもどう? 背中流してあげるよ?」
そんなニーミナの中枢にいるこの少年を無下にすることもできず。かといって流されているままにもいかず。途方に暮れていた彼女の耳に飛び込んできたのは、これまた予想だにしない言葉だった。これには彼女も目を丸くするしかない。
「……お風呂?」
「そう。湯浴みが好きなお客様用のお風呂があるんだ。珍しいでしょう? ディルさんには特別に貸してあげるよ」
微笑んで近づいてきたクロミオは、そっと彼女の腕に絡みついてくる。さらに彼女は身を固くした。
この教会に滞在してからというもの、彼はずっとこうだ。隙あらば体を寄せ、甘え、そうかと思えばからかい、彼女を困惑させる。
「いえ、それはさすがに……」
「厚意は受け取っておいた方がいいよ?」
こちらを見上げた彼は笑みを深める。それは脅しなのか?
「どういう、意味ですか?」
「いやだなぁ、そんな怖い顔しないでよ。僕はただ、ディルさんと仲良くなりたいだけなのに」
彼はさらに口角を上げた。その緩く波打つ黒髪の下で、深い色をたたえた双眸が怪しく煌めく。返答に窮した彼女は、否とも応とも言えずに頭を傾けるしかなかった。
「仲良く、ですか」
「そう。叔母様がどう思ってるかは知らないけど、僕は魅力的だと思うんだよね、シリンタレア」
「それは……ありがとうございます」
彼女はどうにか笑みを維持しようと試みた。どこまでも信用ならない少年だ。しかし彼の言葉に幾分かは真実が含まれていることも、彼女はこのところようやく信じられるようになった。
このニーミナには医術の知識がまるでない。これまでシリンタレアとの国交がなかったのだから、それも当然だろうか。
シリンタレアに医術の知識を集め、その他の国へと容易に流れないようにと画策していたのは、あの二大国だ。そういう点で、シリンタレアは特異な国であった。
シリンタレアとの強固な関係を望む小国は多い。けれども大国が常に睨みを利かせているため、それもなかなか難しい。
「ね? あそこなら誰にも邪魔されないから」
そうした現状を彼がどこまで掴んでいるのか。にこにことそう続ける彼の誘いは、交渉の場として利用するという意味なのか? それともそう見せかけた罠なのか?
真意が読み取れず、彼女は躊躇した。
小国ニーミナの秘密については何一つわからなかったが、この少年クロミオについてなら幾つかわかったことがある。
叔母が彼を自由にさせているのは、彼が「女神と会った者」として神聖視されているためであること。両親は既に亡くなっていること。この国では血筋が重要視されていること。彼も将来的には多くの子をもうけるのを望まれていること。
そこから導き出されるのは、彼が安全なお産を求めている可能性だ。実際、シリンタレアと比べると、他国では出産で命を落とす女性が多いという。大国の要人がシリンタレアでの出産を望むのも、そういう理由だった。
大国の使者とも言葉を交わす彼であれば、シリンタレアの話を耳にしていても不思議はない。
「……わかりました」
しばし逡巡した後に、彼女は頷いた。これは一種の賭けだった。罠にはめられたのであれば逃げ場はないが、しかしなかなか尻尾を出さない彼から何かを引き出す好機でもある。
どうせこのまま教会を歩き回っていても、大した情報は得られまい。ならば危険性は承知で飛び込むしかなかった。
「よかった! じゃあ明日使えるように準備しておくね」
微笑んだ彼は、ようやく彼女の腕を解放する。華やいだその瞳を凝視するわけにもいかず、さりげなく目を逸らした彼女は曖昧に頷いた。
自分は一体何のためにこの国を訪れたのか。時々自問したくなる。長い旅路の末に得たのが悪魔と呼ばれる少年の情報だけとは、国に顔向けができない。
「楽しみにしていてね。それじゃあディルさん、部屋まで案内するよ」
だが今日の捜索はこれで終わりだ。伸ばされた細い手を取って、彼女はもう一度首を縦に振った。
故郷の者たちのことを思うと、沈鬱な気持ちが湧き上がるのは止められなかった。
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