エピローグ
生活が一変して、いちばん変わったことは体調だ。
高熱を出し、心配そうに見つめる顔を今でも覚えている。
おかげで同居人には身体が弱い認定をされ、笑われてしまった。
まず、環境と食事が受けつけなかった。決してイギリス料理だからというわけではない。旅行にくれば問題なく食べられていたものでも、喉が通らず腹痛まで起こった。
アドバイスをもらったが「日本での生活をできる限り移住地でもする」というもの。朝起きたらまずはキッチンへ行き、ミネラルウォーターを沸騰させ、白湯を作る。これの効果か分からないが、体調を徐々に壊さなくなった。
次は、アジア人向けのスーパーへ行くこと。何もイギリスに合わせる必要はない。醤油やワサビ、出汁など日本でおなじみの調味料、それに日本米も買った。
病気は気からより、病気は食事がきくと知った。米を食べるとみるみるうちに元気になり、寝る前に簡単な筋トレも始めた。いかに健康が大事なことか。
一年ほど過ごせば、ある程度のルーティーンができてくる。
朝食を作り、準備ができしだいちょっと変わった同居人をたたき起こす。起こすのではなく、たたき起こす。
部屋のドアを何度かノックするか、いつものように反応がない。想定内だ。
部屋の主は、下着一枚で大の字になって眠っている。
アルコールと香水の臭いが混じり、彼方は顔をしかめた。
これでもまだましだ。昨日は女性と全裸で眠っていたのだから、あやうくこちらが犯罪者になるところだった。
「起きて下さい」
返事をしても当然ない。無理やり枕を抜くが、それでも効果がない。
「お、き、て!」
大声を出すと、ようやく目が開いた。が、まだ眠いとフランス語で呟いた同居人は、再び目を閉じてしまう。
「ご飯食べてますからね。今日はお休みだし、勝手にして下さい」
この個人宅に居候中だが、家賃はタダだ。正確に言うと、タダにする代わりに家事全般を行うこと。
最初はご飯はあれを作れだの掃除はこうしてほしいだのこだわりが強すぎて精神的に参ってしまった。来てすぐに高熱を出し、病院にかかりっきりになったあとで過保護な保護者にばれ、静かな激怒を初めて目にした。
ルールを変更し、朝食のみ同居人の指定したもの、昼はそれぞれ、夜は作った本人のルールに従うこと。掃除も行った本人がやりかたを尊重する。
夕食は日本食ばかりだが、同居人は気に入ったようで、特にすき焼きやうどんを好んだ。
朝食はパンを好む同居人のために、もっぱら洋食だ。
スクランブルエッグとベーコンを焼いて、冷凍しておいたパンを焼く。
食べ終わった後は、冷蔵庫に貼ってあるホワイトボードのペンを持つ。
──出かけてきます。夕食は三人で。
昨日も話したが、念のために予定を書いた。
イギリスのグラストンベリーは、ロンドンから二時間かからない、都会から離れた町だ。魔法やスピリチュアルの町と言われ、枯れない井戸、聖杯の伝説などがある。かの有名なアーサー王が眠っているところだ。
彼方はここで洋菓子とカフェ経営について学んでいる。アーサーの師匠でもあったフランス人のジルという男性の元で、彼と入れ違いにやってきた。
月曜日から金曜日まではみっちり修行、土日は休み。今日は土曜日で、大切な人が泊まりにくる日だ。
同じイギリスに住んでいても、場所が離れていれば早々会えるわけではない。毎日かかさずしている電話やメールでも、直接会う感動にはかなわない。
待ち合わせ時間の五分前に、リムジンが到着した。珍しい車に視線が釘付けとなるが、中から出てきた人物にさらに注目を浴びた。
「お久しぶりですね。ちゃんとご飯は食べていますか?」
「はい、大丈夫です。こっちに来てから三キロも太りました」
「それは戻ったというのですよ」
環境が変わりすぎたせいで、げっそりと痩せてしまったのだ。
今は前と変わらず体重は戻り、体調もすこぶる良い。
「髪、少し切りました?」
「アーサーさんってほんっとによく気づきますね。前髪と横を少し」
「とてもお似合いですよ」
ほぼ変わっていないのだが、アーサーは褒めることを忘れない。
イギリスへ来て、彼方は髪をばっさり切った。
理由は単純で、邪魔だったから。
呪いとか関係なく、毎朝結っていた髪を邪魔だと思えたのだから、成長したと自信が持てた。切ってしまえば、案外簡単にできるものだなと拍子抜けだった。
切ってくれたのはもちろんアーサーで、数年ぶりの約束を果たせた。大学の卒業式に日本へ切りにいくと話して、そのまま約束流れてしまったのだ。
「逆にアーサーさんは伸びましたね。英国紳士って感じ」
「嬉しいことを言ってくれますね。紳士の名に相応しい男性にならにいと。ジルは何をしています?」
「寝ています。今日は女の人を部屋に連れ込んでいなかったので、まだよかったです」
「ジルの元にあなたを送ったのをいまだに後悔するときがあります。とにかくお酒と女癖が悪くて、カナに悪影響がないか不安です」
「僕はどちらも遠慮しておくので……。でもパティシエとしての才能があるっていうのはほんとですね。教え方もすごく丁寧で、説明が感情的ではなく理論で語るタイプ。だから分かりやすいです」
「無謀な食事のリクエストなどはされていませんか?」
「大丈夫ですよ。朝食はパンがいいとしか言いませんし。あとはベーコンかソーセージ焼いてくらいですね」
昼食はオープンテラスにあるカフェへ入った。
ハムとチーズのサンドイッチと野菜スープだ。
「夕食は親子丼でも作ろうかなあって思ってます」
「日本人のネーミングセンスは抜群ですね。ブラックジョークを交えつつ、しかも味は最高に美味しい」
「……言われてみれば確かにすごい名前かも。鮭といくらの丼もあったりするし、贅沢なことをしていますね」
パサパサのパンを言葉少なめに食べ、ほとんど味のしないスープも平らげた。アーサーは「あなたの料理が恋しい」と一言。
食後のコーヒーを飲みながら、お互いに近状を話した。
カスタードクリームの失敗談は兄弟子同じ経験をして呆れられたと話すと、アーサーはなぜか嬉しそうに笑う。
「シュークリームの有り難みを知りました。コンビニで数百円で買えるなんてお手軽すぎる」
帰りはスーパーマーケットで必要なものを購入して、家に戻った。
「ワァオ、本当に来たのね」
「おはようございます、ジル。髪くらい整えたらどうです?」
「いいじゃないの。僕の家なんだし。君さ、泊まるって言ってももう部屋はないよ? 彼方が使ってるし」
「彼の部屋で寝ますのでご心配なく。それとお酒の飲みすぎには注意ですよ」
「はいはーい」
手をぶらぶらさせて適当な返事をし、ジルはソファーに沈んでいく。
こんなだらしない姿だが、衣装を身につけキッチンに立てば、まるで別人に変わる。分からないものだ。
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