エピローグ─事件の始まり─

 夕食を食べ終えてリビングでテレビを観ていると、やけに外が騒がしくなった。

 田舎町であるグラストンベリーは、日が沈む頃にはほとんど人は出歩かない。

 荒々しい扉を叩く音に、ジルは重い腰を上げた。

「誰だろうね」

 扉を開けたとたん、一人の女性が一歩踏み入れてきた。

「あなたがジルね? 中へ入れなさい」

「は? へ?」

「入るわよ」

 癖のある英語を使い、家主を完全に無視をしつつ勝手に入ってきた。

「なんだ、お客さんがいたの」

「お客さんというか、同居人というか……ところで誰?」

「知らない方を中へ入れたのですか」

 アーサーは呆れながらソファーを立つ。

 女性はアーサーをまじまじと見ては唇を結んだ。意思の強そうな目元だが、赤い唇が余計に気の強さを際立たせた。

 女性はリンダと名乗った。

「僕の名前知ってたし」

「ナディアという女性に記憶がある?」

「ナディア? 女性ならたくさん知り合いがいるけど、その人はどんな関係?」

 怒りを抑える女性に、へらっと答えるジル。火山が爆発寸前だ。

 アーサーは彼方の袖を掴み、後ろへ引いた。

「妊娠したのよ、ナディア」

「そうなの? おめでとう」

「おめでとう、じゃないわよ。アンタの子かもしれないのに」

 空気に亀裂が入り、隙間から雷雨がなだれ込んできた。

「えーと……? どういうことかな?」

「ナディアよ。数か月前にアンタとベッドを共にした、私の親友よ!」

「ちょっと待って下さい」

 亀裂を塞ごうと、間にアーサーが入る。

「ナディアさんという女性をご存じなのですか?」

「それがねえ、数か月前でしょ? いろんな女性がいたからね。ハハ……」

「………………ジル」

「ごめんなさい」

「説教は後です。なぜお友達のあなたがいらっしゃったのですか? ここは本人と話をつけねばならないと思うのですが」

「倒れて病院に運ばれたのよ。どっちの子か分からないってね」

「どっちの子? まさか僕の他にもいたってこと?」

「ええ」

 女性は目を逸らした。

「ならば、ジルの子であるという保証はないわけですね。ただ関わった人として放ってはおけないでしょう。ジル、あなたはナディアさんと話をつけるべきです」

「絶対に、いや、多分僕の子じゃないよ!」

「多分?」

「だって、ちゃんと避妊……」

「ジル」

「ごめんなさい」

 しどろもどろになるジルはまるで子供同然で、子供よりたちが悪い。

 アーサーは近くのホテルに女性を送るため、家を出ていった。

「ナディアさんって、記憶にないんですか?」

「数週間前だって怪しいのに、数か月前だとねえ……」

「呆れます。お付き合いしているわけでもないのに……」

「キミってちょっと潔癖? 女性がいるから仕事だって頑張れるんだよ。本当に、女性が好きだから」

 ジルは天井を仰ぎ、言葉を区切って呟いた。

 アーサーはすぐに帰ってきた。疲れ果てた顔を見るに、愚痴でも聞いていたのだと察する。

「ジルは?」

「電話がかかってきて、部屋に戻りました。コーヒーと紅茶はどちらがいいですか?」

「紅茶にします」

 新しい缶を開けると、花の瑞々しい香りがする。春に採れたダージリン特有の香りだ。

 彼方はこれが特に好きで、好んでよく購入している。

「お疲れさまです。せっかく来てくれたのに、大変なことになりましたね」

「ジルといるといつもこうです。尻拭いさせられるのは私ですから」

 アーサーの目が泳ぐ。冷蔵庫に向けられる視線に気づき、中からプディングを出した。

 イギリスのプディングは日本のものとは違い、いろいろな形状がある。昨日作ったのは、サマープディングだ。真っ赤なベリーが甘酸っぱい。

「本当は日本のプディングが良かったでしょう? 今度作りますね。サマープディングにしたのは、この前ジルに教えてもらったんです。うまくできているか、食べてもらいたくて」

「とても美味しくできていますよ。イギリスに住んでいても食べる機会がないので、新鮮な気持ちです。本当に上手になりましたね」

「アーサーさんのお店でまた働けるでしょうか」

「もちろんです。どこで店を開くか一緒に考えましょう。イギリスか日本、または他の国でもいいですね」

「まだまだお店に出せるレベルじゃないですけど、がんばります。ジルは食べるかな……?」

 小さめに作ったプディングは、残りひと切れだ。

「あの様子だと食べません。ふたりで頂きましょうか」

 ひと切れをふたりで半分にし、紅茶と一緒に食べた。

「あの女性、大丈夫でしょうか」

「話したら落ち着いたようで、最後はおとなしくホテルへ帰って行きました」

「親友が心配なのは分かりますけど、怒り方が尋常じゃなかったような……。わざわざ家に来ます?」

「彼女の気持ちを受け入れてしまっては、あなたが参ってしまいます。とはいえ、巻き込まれてしまったからにはそうもいかないでしょうが」

 アーサーの言い方から、何か事情を察している気がした。

 もやもやしたまま眠りについて、動きがあったのは翌日早朝だった。

 朝食後にまたもやインターホンが鳴る。現れたのは昨日とは違う女性で、怒り狂ったリンダとは対照的に表情が暗い。

「あっ」

 ジルは思い出したようだった。

「どうぞ中へ。お茶を入れます」

「ありがとうございます。あの、私カフェインは……」

「入っていないものがございますので、ご心配なく」

 店で何度も見たアーサーだ。懐かしさで目元が熱くなる。

「ありがとう」

 と言い、女性はお腹をさする。

「やあ、ナディア」

「お元気そうですね。昨日はリンダがごめんなさい。まさか突撃するなんて思わなくて」

「気にしなくていい。大事な人なら誰だって心配する。それで、病院では……」

「妊娠はしていませんでした」

「そ、そうか」

 ほっと胸を撫で下ろすジルに、沸々と感情が煮えたぎっていく。

「あれ? でもさっきカフェインはだめって」

「カフェインアレルギーなんです」

「ああ、そうだったのか。ホテルでも飲まなかったね」

 アーサーはテーブルにお茶を置く。カフェインレスのコーヒーだ。

「今回の件、ジルだけが悪いとは思っていません。恋人がいながら誘いに乗った私も悪いのですから。ロジェにも誠心誠意、謝ります」

「なんだって?」

 ジルは身を乗り出した。

「言ってませんでしたね。私、フランス人の恋人がいるんです。最近上の空で、ずっと寂しくてあなたと一晩共にしました。だから、私も悪いんです」

「キミ……違うそうじゃない。そうか、……どんな人なんだい?」

 目が泳ぎだしてジルは落ち着かなくなった。

 質問をしていくが、重ねていくうちに言葉がうまく出てこなくなった。

 アーサーもそんなジルの様子に気づいているが、黙って耳を傾けていた。

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