第64話 最高のパートナー

 シャワールームから出て入れ違いに彼が入った後、彼女のいる職人部屋へ顔を出した。

 小豆を丁寧に洗う姿は彼とよく似ている。

「お孫さんに受け継がれていますね。手付きがまったく同じです」

「ずうっと側で見てきたからねえ。友達と遊ぶこともしないで、学校から帰ってくれば私の手伝いばかりやっていた子だから」

「おばあさまといることがとても楽しいのだと思います。……申し訳ございません」

 電話越しで謝罪をしても、まだまだ足りない。

 地に頭がつくほど下げた。

「あなたが大切にしてきた人を、私は奪おうとしています。どれだけここで幸せに過ごしてきたか、彼を見ればよく分かります。おばあさまを語る彼方さんは、いつも笑顔に満ちていますから」

「どうか、顔を上げて下さい」

 恐々と、アーサーはゆっくり正面を見た。

「何年も前から、なんとなくこうなるんじゃないかと思っていました。いつからか笑顔の減ったあの子がアーサーさんと出会って、毎日楽しそうにしています。そわそわ落ち着かない日は、多分電話を待っているだろうなあとか、こっそり笑っていたんですよ。彼方は自由に生きてほしいと願います」

「こちらこそ、おあずかり致します。彼方さんが帰りたいとおっしゃったら、引き止めるつもりもございません。ご家族と離れて暮らす寂しさは私には分かりますから」

 遠い世界に住む母を思う。住む世界が違うとはよく言ったものだが、足を踏み入れることすら容易ではない芸能の世界。第一線で活躍し続ける彼女は、息子への愛を失っていないと知った。お互いに不器用すぎた。素直になる方法も学んだ。すべて教えてくれたのは彼だ。

「さあ、明日はお出かけするんでしょう? 早くお休みなさい」

「はい」

 子供のように扱ってくれ、もう一度抱きしめた。

 まっすぐな愛情は濁りのないなめらかな水だ。

 透き通っていて自分のような泥水が混じっていいものかと苦しくなる。

 向けられる愛情は大丈夫だと言っていて、甘えはさらに増していく。

 彼の部屋は前より物が少なくなっていた。元々物を置くタイプではないが、よりいっそう寂しくさせた。

「ここにいたんですか」

「先に入らせてもらっています。ここに来ると、子供に返ったみたいでわくわくするのです。とても居心地が良いのでしょうね」

「今日は早めに寝ましょうか。明日はお出かけですから」

「ええ、そうしましょう」

 あのときと同じように、彼方がベッド、アーサーは布団だ。

 畳の上の布団がお気に入りで、日本に来たときはベッドよりも好んで寝る。

 彼方の長い髪が揺れるたび、シャンプーの香りがした。

 本人は切りたいとは言わない。アーサーもこのままでいいと思っている。卒業式に切るという約束は交わしたが、あくまで呪いを断ち切るための行為だ。

「カナ」

 電気を消すと、より相手の息遣いが身近に感じられた。

「もう呪いは解けているでしょう」

 喉が鳴る音が聞こえる。

「あなたはそのままで充分素敵です。無理に髪を切らなくても、とても魅力的に感じます。そのまま伸ばしてみてはいかがでしょうか」

「似合いますか?」

「もちろんです」

 きっぱりと言い切った。

「自分自身でも分かっていたんです。呪いを髪のせいにしてるって。いつの間にか心に蓋をする道具として伸ばしていました。父や母と決着がついてから、徐々に自分が呪われているなんて思わなくなっていたんです。それにアーサーさんとお揃いですし、しばらくこのままでいいのかなあ」

「ふふ……ですね」

 伸ばしたくないのに伸ばしている。伸ばしたくて伸ばしている。

 前者と後者では意味はまったく違う。彼が自らの意思でそのままにしようと決意したのなら、これ以上言えることはない。

「時間が解決してくれることもあるんですね。高校時代の自分では考えられなかったです。一生このまま生きていくんだ。なんのために生まれてきたんだってそればっかりでした」

「生きていてよかったでしょう?」

「ええ、アーサーさんにもまた会えたし。あなたのいない人生なんて考えられない。側にいてほしいです」

 消え入りそうなか細い声。

 もうすでに夢の中で、眠りについて呼びかけても返事がなかった。

 終わりがやってこようとも、幸せに満ちた今ならそれでもいいと思えた。

「最期の瞬間は、こうでありたいですね」

 今だけは幸せの涙を流したい。

 明日になったらまた英国紳士であり続けるから、せめて今は子供のように泣きじゃくりたい。

「大好き、カナ」

 子供の頃に夢見た世界を、今はこうして生きている。

 泥水に浸かり続ける人生だが、甘くて生きるための水を与えてくれる人がいる。

 最高で暖かな人生のパートナーとして、歩んでいきたい。

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