第63話 別れ道は一本に続いていく
ボルム・レ・ミモザは、人が花を愛し、花も人に寄り添う美しい町だった。
日本も負けていないと彼方は思う。春に咲く花は優雅で儚く、人に寄り添ってくれる。
ポストカードをスーツケースにしまい、慣れないスーツに身を通した。
伸びた髪を一つに束ねて、彼方は自室を出た。
「おばあちゃん」
テーブルに並べられた朝食は、あと何回食べられるだろう。
「卒業式だねえ。彼方も立派になって」
「昨日も聞いたよ」
立派になった、とこの一か月は毎日のように口にしている。
「今日はお寿司でいいかい? ちょっと多めに取ろうか」
「うん。僕も食べるし、四人前は取った方がいいかも」
聡子は和菓子職人の講演会を聴きに行っているため数日間は地方から帰ってこないが、大事なお客さんがやってくる。
「スーツはちょうどいいね」
「あまり着る機会はないかも。日本の企業に勤めるならお世話になるだろうけど」
スーツ一式は母親からプレゼントされたものだ。
すぐに電話をかけ、スーツのお礼と卒業後について話しをした。
母は驚きもしつつ、納得もしていた。
──彼方という名前をつけたのは、性別がどちらでもいいようにと、将来遠くで過ごしてもどこでも生きていけるようにって気持ちを込めたものよ。
良い名前だと、母に感謝した。
家を出ると、三月でも強い日差しが降り注ぐ。
なるべく日の当たるところを歩きながら、もうすぐ咲きそうな桜の木を眺めた。
吉祥寺で咲くのは、四月始めの予定だ。桜に囲まれた卒業式とはいかなかったが、すでに外は春の香りがした。
遠くで同じゼミの生徒が見える。彼女はこちらに気づき、小走りで駆け寄ってきた。
「お互い卒業おめでとう。無事に留年せずに迎えたね」
「おめでとう。塾の先生になるんだっけ?」
「そうそう。知ってたんだ?」
「同じゼミだからね」
彼女は回りを気にする様子を見せる。距離をつめて、耳元に顔を寄せた。
「信じられない話をしてもいい?」
「うん。なに?」
「実はね、月森君のこと……ちょっと気になってた」
吹っ切れた顔は、この先をどうこうなりたいとは言っていなかった。
告白は数年間と決別するための儀式だと。桜のように笑顔が儚い。
「ありがとう。すごく嬉しい」
「よかった。迷惑だって言われたらどうしようかと思った」
「まさか。そういうのとは縁のない世界だと思ってたから」
彼女は手を差し出してきた。
彼方もそれに答え、強く手を握る。
「別れはつらくて寂しいものだけじゃないって知ったよ。すごく綺麗な別れもあるんだね」
「そう思ってもらえると嬉しい。どこにいても、月森君の幸せを願っているからね」
声が微かに震えている。綺麗な別れの中にも、一縷の望みが少しだけあったのだと知る。
卒業式は滞りなく終えた。すすり泣く声が辺りから聞こえる。楽しかった想い出が涙になって溢れているのだ。
講堂から出ると、外がざわついていた。生徒は遠くから距離を空け、ある一点を見つめている。
人が埋もれるほどの花束を抱え、男は誰かを待っている。
癖のあるブロンドヘアーを揺らし、こちらを見た。
無邪気な笑顔を見せれば、回りの女たちはうっとりと視線を送る。
「カナ」
「アーサーさん」
イギリスにいる彼は日本の地を踏んでいる。
彼方の姿を見るや、いつもより大股で駆け寄った。
「嬉しいです。本当に来てくれたんですね」
「約束したでしょう? ちなみにおばあさまとは一週間前から連絡済みです」
アーサーは花束を渡し、片膝をついた。
「卒業おめでとうございます。あなたが生まれ、出会えたことは、私の一生の宝です」
「アーサーさん、ちょっと」
「どうかイギリスについてきてほしい。遠すぎる地であなたを思い続け、心が壊れそうです」
返事はもうとっくにしたはずだが、アーサーの暴走は止まらない。
よほど溜まっていたのか、長々と続いた。
はやし立てる者、目にハンカチを当てる者、拍手をする者。いろいろと誤解が広まっていく。
「あーあの、ほら、家に行きましょう!」
「はい。おばあさまとお茶をできるのがとても楽しみなのです」
風貌の目立つアーサーを隠しながら後ろを歩き、携帯端末を向ける彼らからガードした。
角を曲がる直前、二人の女性が立っていた。
アーサーを見ていると思ったが、目が合った。
「月森君……ちょっといいかな」
「はい」
顔も知らない女性だった。二人はアーサーを気にしている。
「そちらの公園でお話しをされては?」
錆び果てた公園だ。桜の木が一本立っていて、公園に春をもたらしている。
公園に移動するが、アーサーはついて来なかった。
「最後にお話ししたくて……」
女性は小声で呟いた。
「ありがとう。もしかして後輩?」
「はい、そうです。講義中、いつも真面目に取り組んでいて、ずっと目で追っていました。その……憧れていました」
こんな僕を、とは喉まで出たが、すんでのところで止めた。
「同じくらい、フランス語がうまく話せるようになりたいです。どうしたら短期間でうまくなれるんですか?」
「フランス語を話せる友人や好きな人を作ることかと思う。アウトプットの方が、記憶に残りやすいから」
「ありがとうございます。ずっと応援しています」
女性はアーサーに向かって軽く頭を下げ、公園を後にした。
「少し、なんていうか……妬いてしまいました。成長をしてますます魅力的になったカナを、海を越えなければ会えない私より身近で見ていた人がいるのだなあと」
「応援していますって言われただけです。妬くもなにもないですよ」
ときどき、アーサーはおかしなことを言う。
「僕の心は、いつもアーサーさんと一緒ですよ。会えないといつもアーサーさんのことばかり考えていますし」
「……カナ」
アーサーが立ち止まったので、彼方も足を止めた。
桜の花びらが風に乗って頬をかすめた。
アーサーは何か言うが、風の音に消されて聞こえなかった。
「すみません、もう一度お願いします」
「……機会があったらまた。とてもデリケートな話ですので」
アーサーは笑い、なんでもないと頭を振った。
「井の頭公園へ行きませんか?」
アーサーの誘いに乗った。
何年経っても変わらない、優しい想い出がつまった場所だ。
祖母と散歩をし、アーサーと出会った場所。
「懐かしいですね。ここであなたと二度目の出会いをしました」
「僕も同じことを考えていました。ハンサムな人がいるってドキドキしていたのを思い出します」
「大事な卒業アルバムを切り取ったときは、なんて子だろうと思いました。優しさと自己犠牲は常に一緒なのだと、悲しい気持ちにもなりました」
「高校三年間も、つまらない人生でしたから。むしろ受け取ってもらえて、僕のいらない人生をもらってくれる人がいるって、少し気持ちが楽になったんです。僕の人生のピークは、子供の頃にフランスへ旅行して出会いがあったときかも」
「なら今はピークを越えたということですね」
アーサーは彼方の髪についた花びらを取った。
「あなたに出会えてよかった。どん底にいた私を救ってくれました。カナと出会えなかった人生を考えると恐ろしいです」
「それは僕もです。遠くにいてやっぱり寂しいですが、アーサーさんも頑張ってると思うと、僕も勉強を頑張れました」
自信満々で見せた成績表を、アーサーはおおいに喜んでくれた。
前に比べたら外国語は成長を感じる。その証拠に、アーサーの丁寧で早口なフランス語にも対応できるようになっていた。
「学校の授業も大事でしたけど、人と話すのがなにより成長できるって実感しています」
「外国人の恋人を持つのがいいと、よく言ったものですね。実は日本語の習得がはかどっているのですよ。それはフィンリーも同じでカナは丁寧に話すので、勉強になると言っていました。……まさか私の知らない間にそんなに話しているとは思ってもいませんでしたが」
「そう言ってもらえると嬉しいです。さあ、そろそろ戻りましょうか。春でも今日は風が冷たいです」
家へ戻ると、祖母はアーサーを見てもあまり驚いていなかった。もうすでに会っていたのだろう。荷物がリビングに置いてあった。
アーサーは小さな祖母を抱きとめる。
小さな背中を見ていると泣きたくなった。
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