第62話 隠れた家族の愛

 温かな紅茶を出して、彼女の前に座る。

 レイラの頬には涙の通り道ができていた。

「お母様と喧嘩しちゃったの」

「それはどうして?」

「お母様はね、私じゃなく莫大な遺産にしか興味がなかった。私の話なんてまったく興味がないの。美味しかったスイーツの話とか、映画の話とかするだけで楽しいのに。会合はどうだったって、そればっかり。いっそ放棄してお母様の顔色を見てみたいわ」

「簡単に決めちゃったらだめだよ。絶対に後悔する」

「ねえ、あなたは親の愛情とお金だったらどっちをとる?」

「ものすごいところに飛んだね」

 レイラは真剣そのものだ。

「じゃあ、アーサーお兄様の愛とお金なら?」

「アーサーさんを取るよ」

 彼方は笑った。作り笑いではなく、心から出た笑顔だった。

「お金はとても大事。でも、たくさんのお金より自分たちで稼いだお金でやりくりできれば、別にいいかな。僕は親の愛情はよく分からないけれど、お金で愛情も買えるしお金で愛情を失う場合もある」

「よく分からないわ。放棄しろってこと?」

「レイラ、難しい話はその辺にしなさい」

 電話を終えたアーサーがやってきた。

 いつからいたのだろうか。紅茶が冷めてしまったが、アーサーは温いカップを手に取った。

「第三者の代理人を立てなさい。今のレイラは親の操り人形状態です。レイラが一人で抱えていい問題ではありません。あなたにできることはそれだけです」

「アーサーお兄様がそうおっしゃるのなら……」

「それと、親の愛情というのはなかなか感じにくいものです。見えにくい愛情は、なかなか伝わらないのも分かります。いっそ私のように分かりやすいほど愛に生きる人で溢れたのなら、苦労も悩みもしないのにと思うこともしばしばです。電話で話したと言っていましたが、気持ちを全部吐き出したわけではないのでしょう?」

 レイラは小さく頷いた。

「それも母親に言うのです。本当に愛しているのかと。解決には繋がらないかもしれませんが、一歩前に進むことはできます」

 アーサーは自分に言い聞かせるように、言葉を丁寧に選んだ。

「さあ、もうこの辺にしましょう。あと少しで迎えがきます」

「えーっ。せっかく来たのに」

「従者もつけず、大冒険でしたね」

「たった数十分よ。一人で歩けるわ」

 レイラは得意げに言う。

「ほら、ちょうど迎えがきましたよ」

 現れたのはフィンリーだった。

「やあやあ、まさか僕をこき使うとはねっ」

「弟として、兄を頼りにしているのですよ」

「また上手いこと言っちゃって……」

 フィンリーは嬉しそうだ。

 嫌々帰っていくレイラに別れを告げ、彼方はお茶を入れ直した。

 ストレートの次はミルクをたっぷりと入れる。

「明日、レイラは帰ってしまうのです」

「最後にアーサーさんとお話ししたかったのかもしれませんね。イギリスにいたっていつも会えるとは限らないんでしょう?」

「親戚同士の集まりは極力参加しませんので。まさか一人でやってくるとは思いもしませんでした。……あなたももうすぐいなくなるのですね」

「でも今生の別れってわけじゃないんですから」

「本当に?」

 今までアーサーとは何度も別れを繰り返してきたのに、寂しさが顔に表れるのは珍しい。

「あなたはいつも平気そうですから、私がわがままを言いそうになります」

「最後なわけがないって思っているから、わがままを言わないだけですよ」

「それでも、やはり寂しい。ふたりだけの想い出も、たくさん作りたいです」

「何げない日常が想い出に繋がったりしますよね。明日の朝食は、一緒に作ってみます?」

 彼方の提案に、アーサーはカップを持ったまま引きつった笑みを浮かべた。

 居心地の悪い無言の空気が流れる。

「まさかアーサーさん……」

「カナ、言えなかったとは違うのです。言うタイミングがなかっただけです」

「嘘ですよね? あんなにお菓子作りが上手なのに」

「……私は、料理が壊滅的なのです」

「スイーツを作るのとは違うんですか?」

「全然違います。私の作ったスイーツと料理では、わき水と泥水くらい違います。口にできたものではありません」

「料理が苦手な人って、いろんなタイプがいますよね。味覚の問題で味見をしてもうまくできない人、そもそも道具をうまく扱えない人。包丁の使い方もとっても上手ですし後者は当てはまらないとなると、味覚の問題ですか?」

「お察しの通り、イギリスの料理は世界的に見てもトップレベルの味ではありません。慣れてしまえば、それが料理だと思ってしまう。私の味覚に合わせて作ったものは、あなたの口に合いません。ついでに私の口にも合いません。それと道具もそれほど扱えるわけではありませんよ。」

「なら明日一緒に作りましょうよ」

「そうですね。簡単なものでも作れるようにはならないと」

「僕がいればずっと作ってあげられますけど、今はそういうわけにはいかないですからね」

「カナ、もう一度言って下さい」

「ん? ホットケーキならお菓子にもなりますし、アーサーさんは得意そうですね。それとも日本食にします?」

「ぜひ日本食で」

 翌日はふたりで朝食を作ったが、アーサーの言う『壊滅的』は嘘ではなかった。

 何度も謝罪を口にするアーサーだが、彼方はすべて平らげた。

 アーサーの作るものは、何であっても美味しいのは変わらない。

 彼は最後の集まりがあると、家を出ていった。

 レイラは何らかの決断をするだろう。アーサーは後押しするとも言っていた。

 人の成長は喜びに満ちている。誕生日がくるたび、大きな決断をするとき、祖母は幸せそうに笑っていた。

 鏡に映る自分を見て、彼方は伸びた髪の毛を強く掴む。

 大学まで行けたのは、何かしら成長をした証だ。

 たが根っこが変わらないものもある。

 ハサミを持ち、伸びた髪に刃を当てた。

 ばっさりいけたのならどんなにいいか。

 彼は卒業式の日に来てくれると言った。だが本当は自分で決断しなければならないのだ。

 あと少しで帰国だ。帰ればまたいつも通りの生活が待っている。


 メイドが何人かやってきて、この前のように外でお茶の準備が始まる。

 遅れてアーサーが戻ってきた。

「前髪切りました?」

「数ミリですけど、よく分かりましたね」

 なぜ分かるのか永遠の疑問だ。アーサーはとても目ざとい。

「気づかない人は気づきませんよ。ちなみにフィンが髪を切っても私はスルーします」

「あははっ」

「さて……お茶の準備でもしましょうか」

 朝食作りとは違い、お菓子作りとなるとアーサーの手際がよくなる。

「お菓子を作るときは味見ってしませんよね? やっぱり手の感覚や色ですか?」

「そうですね。室温、香り、色、手に残る感触でしょうか。この辺りは和菓子と変わらないかもしれません。今度、求肥を使ったお菓子を作って下さい。食感が大好きなんです」

「美味しいですよね。バニラアイスを求肥でくるんだアイスクリームもあるんですけど、ぜひ日本に来たときに食べましょう」

「ぜひ」

 ほどなくして、ナタリーもやってきた。

 甘い匂いは焼きたてのクッキーの香りだ。

 彼女はアーサーとパウンドケーキを見る。

 彼方は日本の空港で会ったときのことを思い出していた。

 ナタリーは母の顔をしていた。

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