第35話 包まれた恋
──夕食は一緒に食べませんか?
部屋でまったりと過ごしていると、端末を鳴らした一通のメール。
口調もいつもと変わらない。会えなかった日々を感じさせない、穏やかな内容だった。
──ぜひ。お仕事ですか? ちゃんとご飯食べてますか?
──はい、もちろんです。後で迎えに行きます。
まただ。胸が苦しい。瞼の裏が熱くなる。
泣きたくなる感情に、名前はつけられない。
顔を見れば、涙は引っ込むだろうか。
十九時を回った頃、メイドが迎えにきて、階段を下りるとアーサーは電話をしていた。
彼方に気づくと軽く手を上げ、電話を切る。
「かけていても大丈夫ですよ」
「いえ、父に彼方さんと外食すると伝えただけです。行きましょうか」
吉祥寺で一緒に食事をするときと同じノリで、拍子抜けしてしまう。
あのときと違うのは、目の前にリムジンが用意されていること。
息が聞こえるくらいの距離感で、アーサーはワイングラスを用意する。
「トニックウォーターでもいかがです? アルコールもありますが」
「炭酸水のことですか?」
「トニックウォーターは、柑橘類や香草などを加えたものです」
アーサーも同じものを注ぎ、乾杯した。
「リムジンなんて初めてです」
「私も数えるくらいしか乗ったことはありません」
「どこに行くんですか?」
「昨日、ラム肉を食べ損ねてしまいましたから、美味しいお店でもと思って」
「パイ包み食べてませんでしたよね? 美味しかったのにもったいない」
「……油の多い、重いものは食べたい気分ではありませんでした。夢見心地で、初めて自由を手に入れて……」
アーサーは黙ってしまった。ワイングラスに目を落とし、一口飲む。細かな泡でほのかな苦みがあり、後味がすっきりしている。
「……ずっと、あなたに何を言おうか考えていました。謝罪の言葉で済まないことを、私はしてしまった。信用を寄せて下さっている方を裏切り、私は消えた」
「日本でずっと、なんでどうしてって、繰り返していました。ただ、そうしなければならない何かが身の回りで起こっているんだとも思いました。フィンリーさんから事情を聞いて、絶対にもう一度会って話したかった。それでもアーサーさんが、幽閉の道を選ぶなら、僕は……」
「僕は?」
アーサーは優しく問いかける。
「無理やり建物を破壊して、日本に連れて帰ろうかと」
「ふふ……そんな破壊魔の一面もあるのですね」
「僕のわがままです。アーサーさんがいてくれないと、やだ」
言い方が子供じみていて、恥ずかしくなった。
「ああもう。何を話したらいいんだろ。うまく言えないです」
「海を越えてきてくれた。それだけで伝わりました。私を追ってくる人なんて、スリランカからの使者くらいですから。さあ、着いたようですね」
カジュアルに入れる店ではない。ドアマンはふたりを見て微笑み、スタッフォード様ですか、と口にした。
「父が仕事で利用するレストランです。ここで秘密の話をしても漏れません」
広いフロアの横を通り過ぎ、個室へ通された。
「いかにもビジネス用の部屋って感じですね」
「ええ。夜景も見えないですし、あえてこういう作りです。食べたいものがあれば、追加で注文します」
「アップパイが食べたいです」
「それならコースに入ってますね」
席についてから十分ほどで、次々と料理が運ばれてきた。
アーサーが食べたいと漏らしたラム肉のパイ包みもある。
「昼食は半分ほどしか食べなかったと聞きましたので、心配していました。お口に合わなかったでしょう?」
「ええと……そんなことは……」
「あなたは詐欺師になれませんね」
アーサーは笑い、もう一度乾杯をした。
「最後の晩餐じゃないですよね?」
「泣きそうな顔をさせているのは、私ですね。質問に何でもお答えします」
「また会えますか?」
今、一番聞きたいのがこれだ。日本には彼がいた跡は何もないのだ。
「そうですね……私も片づけなければならない問題が山積みですので、すぐに日本に戻ることはできません」
戻るという表現をしてくれたことは、嬉しい。
「じゃあ、また日本に?」
「初恋の人に会えましたから」
「あの……その件なんですが……」
彼方は視線を下げ、重い口を開かなければならなかった。
あくまで演技だ。フィンリーと念入りな計画をし、幼稚園の学芸会レベルまでできるように稽古をした。本気にされては、彼に申し訳がない。
「とても素晴らしい演技でした。ですが、演じる必要はありません。正真正銘、あなたは私の初恋の人です」
「嘘でしょう?」
「初めて井の頭公園で出会ったとき、初めての気がしませんでした。私はあなたから本名を聞き、初恋の人ではないとも思いました。曖昧でしたが、記憶にあるファミリーネームと違ったからです。ですが父方の名字を聞いた瞬間、断片的にあった記憶が一つに繋がったのです。あなたのおばあさまから過去の写真を見せてもらい、昔話も聞きました。よくワンピースを着ていたこと、髪を伸ばしていたこと。私の初恋の人そのままでした。お母さまに連れられて、海外へ行ったのでしたね」
「そうです」
「大きなチョコレート菓子を食べた、とも言っていました。それはおそらく、カヌレです。あなたはフランスへ行き、私と出会っています」
「フランス? カヌレならそんなに大きくないと……」
「子供からすれば、カヌレほどのサイズでも大きく感じるものです。大きなお菓子を食べた、が記憶に植え付けられ、実際の大きさが分からなくなっているんです」
「言われてみれば……確かに。でもフランスかどうかは分かりません。連れていってくれた母とも連絡が取れないし、確かめる術はないんです。アーサーさんも、フランスにいたんですか?」
「私は母に会いに行っていました。この写真に、記憶はありませんか?」
真ん中にいるのは、幼少時のアーサーだ。幼いが、賢そうな顔に面影がある。隣にはワンピースを着た少女がアーサーに抱きつき、顔を隠している。
「……………………」
みるみる顔色が変わる彼方に、アーサーは指を公差させ、返答を待つ。
「……僕です。間違いなく」
「そうであってほしいと願いました。決め手は?」
「ワンピースです。子供のときに着ていた服は、おばあちゃんがとっておいてるんです。見覚えがある……」
「知っていることといえば、名前と写真だけが頼りでしたから。私の狭い視野を壊してくれたのもあなたです。新しい世界を見せてくれた。写真の通りに信じていれば、女性に限定して捜していたでしょう」
「本当に……本当に……僕が……」
ずっと捜していた初恋の人に、まさか当てはまるとは。
彼方はうなだれ、何度も頭を振る。
「アーサーさんの人生を支えるほど、すごい人間でもないです。僕には何の力もない」
「定められた運命をねじ曲げてくれたのは、間違いなく彼方さんです。違う言葉を話す人、会ったことのないアジア人、柔らかく微笑む姿は、すぐに虜となりました。一緒に遊んで、楽しいという感情を取り戻してくれた人です」
「フランスで、僕らはどんな出会い方をしたんですか?」
「私の母が大事なものを落として、あなた方が拾って下さったんです。大きな宝石がついていて、二度と返ってこないと母は諦めていました。落とし物は盗まず、持ち主に返還するという、海外だと詐欺か何かだと疑われるほど心のこもった優しさです」
聞けば聞くほど、途切れた記憶は一つに繋がれていく。
少し癖のある髪を揺らし、手を繋いで引っ張っていく彼。
夕日に照らされ、涙する姿。
別れ際、彼に……。
「どうかしましたか?」
頭を抱える彼方は、言おうか言うまいか迷っていた。
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