第36話 「カナ」

 初めて飲んだトニックウォーターに舌が奪われ、本日三杯目だ。

「お気に召して頂けて何よりです。日本でも売っていますから、ぜひ」

「戻ってからも飲みます。それで……ちょっと聞きたいことがあるんですが」

「はい、なんなりと」

「アーサーさん……あのとき……、キス、しませんでした?」

「しました」

 いたって真面目に、しれっと答える彼。

「……ですよね」

「私の後をとてとてついて歩く姿は、本当に可愛らしかったんですよ。庇護欲をかき立てられたといいますか、とにかく守ってあげたかった。結婚してほしいと伝えたところ、あなたは頷きました。言葉は分からなくても、伝わる想いはあるのだと知り、キスしました」

「僕のファーストキスが……」

「私もです」

「嫌じゃなかったんですか?」

「なぜ? 結婚の約束もしたのに?」

 冗談か本気か分かりにくい。アーサーは楽しそうだ。

 デザートのアップルパイが来た。イギリスのアップルパイは、リンゴだけではなくベリーも一緒に入っている。昨日食べたものも同じで、入れるのが主流のようだ。

 昨日と比べ、アーサーはよく食べている。

「昔の話なのに、昨日のことのように記憶が蘇ります。たった数時間なのに、幸せだった。たまに行く学校でも友達ができず、いつも黒服の男性に見張られ、生まれてきた理由が分からなかった。あなたと過ごした時間は、窮屈な時間を忘れさせてくれました。そして大人になって再び出会い、絶望から解放してくれた。感謝してもしたりません。どうしたら、私の思いは伝わりますか?」

「充分すぎるほどです」

「何か望みはありますか?」

「日本に来てほしいくらいしか」

「それは私の希望ですよ」

 さあどうぞ、とかしこまったように胸に手を当てる。

 彼は演技経験はあるのだろうか。経験がゼロならば、才能は彼が圧倒的に上だ。

「もう一度、またご飯を食べたり、遊びに行ったりしたいです。アーサーさんがいなくなってから、ずっと溺れたみたいに息苦しくて、僕の回りから酸素がなくなってしまって、どうやって生きてきたのか分からないくらい。ずっと地上に上がれないでいるんです」

「一度でいいのですか? それはとても寂しいですね。あなたの近くにいて、大学を卒業したらどのような道を歩むのか、楽しみでもあるのに」

「……泣きそう。なんか、頭がガンガンする……これって夢かな……ずっとそうなれたらいいって、幸せな時間が続いたら嬉しいって思ってた」

「彼方さん?」

 アーサーの手が伸び、額に触れる。

 安定の位置なのか、妙に馴染んだ。

「帰りましょう。顔が熱い。いつから調子が悪かったのです?」

「車に乗ってるとき……酔ったなあとは感じてました」

 アーサーは店員を呼び、普段よりも崩した英語を並べた。

 彼方はアップルパイが食べたいと思いながら、意識を手放した。


 息苦しさでゆっくりと瞼をを開けた。

 誰かが目の前にいる。ブロンドヘアーなのはかろうじて分かったが、かすんでいる。すぐに意識を手放した。


「彼方さん」

 名前を呼ばれた目を開いた。

 相手は含み笑いをし、グラスに水を注ぐ。

「ちょっと似てた?」

「……フィンリーさん?」

「そう、僕。呼びかけても起きないから、弟のマネをしてみました」

「だるい……」

「そりゃあ二日も寝ていれば、起きられなくなるでしょ」

 フィンリーはベルを鳴らし、ミネラルウォーターを軽食を注文する。

「二日? そんなに?」

「疲労と熱だそうです。下がってもしばらくは安静だね。君のご家族にはアーティーが連絡したから心配しないでいいよ」

「おばあちゃんは何か言ってましたか?」

「よろしくお願いしますだって。僕の弟はよほど信頼されてるんだね」

 ベッドから起きると、固い何かに叩かれたように頭が痛い。

 端末から聡子宛にメールを送った。時差があるので、気長に待つしかない。

「さっきまで、アーサーさんがいませんでした?」

「ついに幻覚でも見た? 昨日は弟が世話してたんだけどね。今日は野暮用で出てるよ。それより少し食べた方がいい。あとは水も」

 チキンとキュウリを挟んだサンドイッチだ。なかなか飲み込めず、水で喉を潤した。

「目が覚めなかったらどうしようかと思ったよ。死に際の最期が『アップルパイが食べたい』だなんて、君のおばあさまが悲しむ」

「あのときは本当に食べたかったんです。食べられず、もったいないことをしました」

「君が良くなったら、ぜひ用意しよう。もう一度、布団に入るかい?」

「もう寝たくないです。少し、お話ししませんか?」

「いいとも。君が倒れてからのことは覚えてる?」

「アーサーさんの声はいろいろと聞こえてましたが、ほとんど曖昧です」

「あんなに慌てるアーティーは初めてだよ。面白くて写真に収めておけば良かったって思うくらい」

 フィンリーは笑うが、力のない笑みだ。足を何度も組み直し、視線も定まらない。

「ありがとう。あの子を助けてくれて。弟のことは憎いほど大好きだが、彼を救う手だてはなかった。やっていることは不法でも、下手に身動きが取れなかったんだ。異常に複雑でね、身内ほどしがらみにあって、時間は待ってくれず、ついに二十五歳の誕生日が来てしまった。外から壊してくれる、スーパーヒーローみたいな人がいてくれたらいいのにって何度も願ったさ。報酬は何がいい?」

「報酬目的でイギリスまで来たわけじゃないです」

「日本人が不思議なのか、君がクレイジーなのか。大抵は喜んで飛びつくけどね。けどそれじゃあ、僕らの気が収まらない」

「……アップルパイ」

「それはただのもてなしだよ。まあ、君が喜んでくれるならいいけど」

「いろいろ、聞きたいことがあります。アーサーさんは、僕が間違いなく初恋の人だって言っていました」

「そうだね」

「本当なんですか?」

「疑う理由があるの?」

「なんだか信じられなくて。初恋の人になりきるとは言いましたが、まさかの結末でした。会場に集まっていた人たちは、それで納得できたんでしょうか」

「納得も何も、バカバカしい賭けはそういうことだから。事実を突きつけられた以上、何も言えないでしょ」

「僕、記憶がほとんどないんです。旅行で出会ったことも、言われてみればっていう程度しか」

「君は小さかったから仕方ない。アーティーも、君の前のファミリーネームはあやふやだったくらいだし。七海だと聞いて記憶が鮮明になった部分もあるみたいだ」

 喉が渇いた、と漏らし、紅茶を届けてほしいとベルを鳴らす。

「ぜーんぶ、アーティーの手の上でころころされちゃってたねえ。僕も君も。君に形見を預けておけば、少なくとも君を軽んじて扱えない。君にチケットを渡すしかなくなるし。嫌な占い師だよ」

「よく当たりますね」

「昔から不思議なことは起こっていた。隣の人がお空に行ったとか、なんて不気味なことを言うんだろうって思うと、実際に亡くなっていたりとか。奇妙なほどに変な子だったね」

 それは初めて聞いた話だ。アーサーは何も言わなかった。もしかしたら目に見えない何かを感じ取れる人なのかもしれない。

 メイドはフィンリーだけの分ではなく、二人分の紅茶を持ってきた。湯気が立ち、部屋には花の香りが広がる。

「あの子は占い師になるのは天命だったのかもね。そういう星の下で生まれて、なるべくしてなった。アーティーが祖母から何を教わったのか知らないけど、これ以上犯罪に巻き込まれないで、平穏に幸せになることを願うよ」

「アーサーさんは、日本でとても楽しそうに仕事をしていました。お茶を入れるのも、人の話を聞くのも、ケーキを作るのも。僕の学校での話もしましたし、友達の家に遊びに行ったりもしました。おばあちゃんのよく作る料理も聞きたがったし、日本食にも興味があるみたいです」

「それはなによりだ。アーティーの母親は料理がてんで駄目だから、……今のは聞かなかったことに」

「あまり、お母さんの話はしたくないんですか?」

「うーん……僕の母親の話はいくらでもできるけど、アーティーの母は特殊でね。苦手と言うべきかもしれない」

「苦手……分かる気がします。うまく話せないってことですかね」

「まあ、そんなとこ。気になるなら彼に直接聞いてごらん」

 フィンリーは一気に紅茶を飲み干した。

「これからの生活については彼と相談するけど、多分また日本で生活したいとか言って聞かないんだろうね。意固地で頑固者だから、身の危険があってもお構いなしだ。君にもしばらくは見張りをつけさせてもらうよ」

「ええ?」

「君を巻き込んでしまったんだ。こちらも黙って日本へ返すわけにはいかないんでね。普通に生活を送ってくれて構わないよ」

 まだまだ聞きたいことは山ほどある。

 スリランカのこと、これからの生活のこと、アーサーのこと。

 けれど、それは本人と話さなくてはならない問題だ。

 「君が日本に帰ったら、アーティーは布団に潜って芋虫みたいになっちゃったんだよ。泣いてるのに泣き顔は見られたくなくて、ずっと部屋から出てこなかった。体調がよくなったら君は日本に帰るけど、空港で泣くかもね」

「泣きませんよ。アーサーさんは大人ですから」

「ふふ、これは賭けでもしてみたいね」

「賭けの対象になる側はたまったもんじゃないですし、賭けもしません」

 フィンリーと話すたび、疑問は解決するが問題点が増えていき、結局はもやもやが残る羽目になった。




 人でごった返した空港は、揚げたてのフライの香りがしている。

 空港は国によって香りの特色があるという。日本は醤油、フランスは香水、インドはスパイスなど、見えないものでも独自の文化を味わえる。

「彼方さん」

「え? ええ? どうして……」

 来られないと聞いていた。

 息を切らしたアーサーは、普段よりも子供っぽい笑顔で片手を上げた。マフラーに顔を埋める姿は、小学生だった自身と被るところがある。

「しばらくは会えませんから、いても立ってもいられなくて」

「そうだ、あの指輪……」

「あれは彼方さんが持っていて下さい。ぜひとも預かっていてほしいです」

「でも、とても大切なものなんですよね?」

「ええ、ですから。あなたに持っていてほしいのです」

「……分かりました。僕も会いたかったです」

「いろいろと、本当に感謝しています。なんと申したらいいのか……とても難しい。日本語をもっと勉強しなければなりませんね」

 アーサーははにかみ、彼方の肩に手を置いた。

 横を通りすぎる人が、口笛を吹く。その様子を、彼方は目で追った。

 背中が押され、彼方は目の前にいるアーサーの胸に顔を埋めた。

 彼方も彼の背中に手を回す。

 再び、別の誰かの口笛が聞こえた。

「……ありがとう。カナ」

 もし、フィンリーと賭けをしていたら。

 賭けは彼方の負けだった。

 暖かな風がふたりを包み、覆われた記憶が徐々に鮮明になっていく。

──カナ、ばいばい。

 あのときも泣くまいと必死に大人の腕に寄りかかり、不器用な笑顔で手を振っていた。あれからベッドに潜って出てこなかった。

 愛しさが増していく。 

 震える背中を強く抱けば、言葉はいらなかった。

 飛行機出発を知らせる放送が聞こえ、何度も振り向きながら手を振る。

 子供のときも、お互いに手を振り、別れを惜しんでいた。

 母に強く腕を引かれ、日本に帰りたくないと漏らしたら、母はなんと言っていたか。

 思い出したくないと蓋をして、最後まで手を降り続ける彼に、どうか蓋を閉じていてとすがった。

 彼は答えるように、それが自然だと、そのままでいいと暖かな風を吹かせた。

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