第33話 初恋の気持ち
ロンドンから車でおよそ一時間半ほど揺られ、目的の場所へ着いた。
「つまらないかい?」
「そんなことないです。有名な建物ばっかりで、興奮してます。バスが赤いですし」
「ははっ。バスの色で感動してくれるのは君くらいだよ。ここから見える大学は、有名映画のロケ地にもなっているんだ」
「世界でもトップレベルの大学ですね」
「アーティーもそこの出身で、彼は心理学を専攻した。占星術師として必要な要素だといって譲らなかった。幼いときから日本語の勉強も必死で、当時はハラハラしていたよ。まさか本気で日本に行くつもりなのかってね」
「親としては、違う学科に入ってほしかったんですか?」
「あの子の人生はあの子のものだ。けれど経済を学んでほしかった。不動産業を継いでほしいというのは、親の押しつけだね。さあ、ここだ」
「…………お城?」
彼方の知っている家とは違う。映画に登場する城だ。
「古きよき建築というか、バロック建築が好きでね。イタリア生まれで、ローマのトレヴィの泉と同じ建築なんだ。彫刻や泉で派手に見えるが、中はわりとシンプルだよ」
「アーサーさんもここに?」
「ああ、お待ちかねだ」
ダニエルは不敵に笑う。
駐車スペースにはいくつも高級車が並んでいる。ダニエルは、最近は日本車がお気に入りだと話した。
扉が開くと、数人のメイドが出迎えた。
シンプルだというダニエルの言葉は信用してはいけない。廊下には絵画が掛けられていて、花が飾られている。花びらにまだ水滴が残り、光が反射してしっかりと天井を向いていた。
「一階は食堂、仕事部屋が主で、二階より上はプライベートルームだ。アーティーの部屋も二階にある。彼を客室に案内してくれ」
「かしこまりました」
メイドに軽く会釈をし、後ろをついていく。
今にも動き出しそうな甲冑が並び、赤いカーペットが長い廊下に敷かれている。
「こちらでございます」
「ありがとうございます」
「入用でしたら、ベルをお鳴らし下さい」
電話ではなく、ベルが壁に設置されていて、中世時代にタイムトラベルしたようだった。
客室といっても、日本で泊まったスイートルーム以上に広い。ソファーにテーブル、カーテンで仕切られたシャワールームに、隣の個室はトイレとなる。奥に通じる部屋は、ベッドルームだ。
ちょうど探検が終わった頃、ドアノッカーが数回叩かれた。
「お飲み物でございます。こちらはフィンリー様からです」
「フィンリーさんから?」
二人分の紅茶と、軽くつまめそうなクッキー。小ぶりで、バターの香りが強い。
離れろと言ったり、チケットをくれたりと、謎多き人だ。
入れ違いにフィンリーがやってきた。スーツにしっかりと髪をまとめている。
「やあやあ。さっきまで仕事をしていてね。我が城へようこそ。さっそくお茶会といこうか」
「お久しぶりです。チケットありがとうございます。お茶をするならアーサーさんも一緒が……」
「残念。アーティーはここにはいない。さあ、飲んでくれたまえ!」
アーサーよりお茶だ、とカップをすすめられる。
「ディンブラですね。ミルクとも相性はばっちりで、スリランカの茶葉です」
「ご名答。あの子の元で勉強しただけはある」
「アーサーさんに会いたいです」
「まずは僕とお茶をしよう」
「飲んだら会わせてくれますか?」
「君は英国紳士に恥をかかせるのかい? 遠い国からのお客様も満足させてあげられないような男は、紳士失格だよ」
「じゃあ飲みます。……ダニエルさんから、ここにアーサーさんがいるって聞きました」
「そんな恨めしい声で言わないでくれ。嘘はついていない。君とすれ違いに出ていったんだ。後でどうせ会うことになる。クッキーも食べてくれ。パティシエが悲しむからね」
香りだけではなく、
「美味しいです」
「そのままをパティシエに伝えるとしよう。アーティーだが、これから婚約パーティーの打ち合わせに出向いてしまってね」
「婚約パーティー? 誰のですか?」
「アーティーと、スリランカのお嬢様と」
空気が張りつめ、互いの息が耳に届く。
フィンリーの声は低く、事実を伝えようとしただけではない。委ねているのだと悟った。
「どういうことですか?」
「目が血走ってるよ。落ち着いて。スリランカのお嬢様といずれ結婚予定だ。相手の女性の気持ちはは問題ないだろう。すぐにあの子の虜になる」
「アーサーさんはそれでいいんですか?」
「さあ? 君はいいと思う? 大切な形見を君に預けて、何も言わずに君の前から去ったあの子の気持ちはどう思う?」
「もし、アーサーさんが結婚したら……」
「スリランカで二人仲良くスウィートな生活を送るんだろうね。幽閉されて」
「……………………」
「初恋の人を見つけるって賭けは、アーティーの負けかなあ? 本当にバカバカしい賭けだよね。その賭けに本気になって、アーティーは日本に行っちゃうんだから。あの子もバカだ」
「なら、僕もバカでいいです」
「本当に?」
「アーサーさんの初恋の人になりきります。それでアーサーさんが自由になれるのなら、僕はなんだってします」
「なんでもするって簡単に言っちゃいけないよ。今は頼もしい言葉だけどね」
差し出された大きな手に、彼方はしっかりと握手を交わした。
彼は、怒っているだろうか。
悲しんでいるだろうか。
それとも、笑っているだろうか。
願いは後者だけだが、優しさの固まりである彼のことだ。きっと泣いているに違いない。
日本では、小さな幸せをいくつも見つけた。
幸せはひとりで味わうことはできなくて、いつも隣で笑っている人がいたからこそ、幸福を噛みしめることができる。
生き物が酸素を欲するように、魚が水を必要とするように、人も必要とする人がいる。
──逃げてもいい。ただ、諦めてはいけないよ。
祖母の言葉はいつまでも忘れないし、支えになっていた。
だが誕生日が訪れるたび、このままでいいのではないかという気持ちも芽生えてきた。
一生分の幸せをもらい、これ以上望むのは過剰な欲でしかないのではないか。
二十五歳の誕生日を迎え、覚悟を決めたはずなのに、希望はまだ捨てきれない。
隣で微笑む女性は何度も時計を見て、落ち着きのない様子でいる。
息苦しいホール内は、父の姿があった。
様子がおかしい。目か合うと、なぜかウィンクをして余裕綽々だ。
いくら息子への愛が歪すぎる人でも、この状況でそれはないのではないか。
ホールの外が騒がしくなった。兄の声がする。とうとう幻聴まで聞こえたのか、と頭を抱えた。
「やあ、僕が来たよ!」
できれば会いたくなかった。
けれど。
「………………なぜ、あなたが……」
驚愕し、呆然と立ち尽くすしかなかった。
「こ、こんにちは……アーサーさん」
目の前に、初恋の人がいた。
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