第32話 ダニエル・スタッフォード

 イギリスとスリランカ。そして日本。三つには共通点がある。海に囲まれた島ということ。

 そしてイギリスとスリランカは、きってもきれない関係だ。スリランカはイギリスの植民地で、元々はセイロンと呼ばれていた。紅茶が有名であり、セイロンティーとも言われたりする。

 一九七二年に独立し、スリランカとなる。シンハラ語、タミル語、英語を話す。

 アーサーの母方が魔女の血を引いていて、イギリスで生まれた彼もまたその血を引く。根絶やしにしたいともいうし、幽閉して薬を作らせる話もある。どれが真実だろうが、今やるべきことはそんなことじゃない。彼を自由にさせることだ。

 迫られた二択は、命の灯火が消えるかどうかの瀬戸際だ。

「どこかに行くの?」

 いつもは勝手に入ってくるのに、異変を感じ取ったのか、聡子はドアの隙間から眺めている。

「入っていいよ」

「ここ、あったかいね」

 暖房の風が当たるところに居座り、スーツケースの中身を見る。

「旅行?」

「そんなとこ。聡子はさ、スリランカとイギリスならどっちに行きたい?」

「イギリスかな。スリランカはよく分かんないし」

 歴史や名物の知名度でいえば、イギリスの勝利だろう。

「美味しいもの食べたいってときはどっち?」

「味付けが違うからなんとも。スリランカはココナッツを使ったり、スパイス系の料理が多いね。カレーは日本でもお店があるし」

「あ、ならスリランカ」

「イギリスはフィッシュアンドチップスが有名」

「スリランカ。ココナッツ最高。まさか、行き先決めてないの?」

「そんなとこ。気温も違うから、たくさん服持っていかなきゃ」

「直前で決めるってやつ? なんかいいね、そういうの。お土産よろしく」

「余裕あったらね」

「ねえ、戻ってくるよね?」

 聡子は膝を抱え、呟いた。

「そんな顔、やめてほしいんだけど」

「変な顔してる?」

「覚悟を決めましたって顔。真面目すぎて怖い。いつもみたいにふわふわしてないし」

「ふわふわ……」

 褒められているのかけなされているのか、分からない言葉だ。

「大事な人に会いに行くんだ」

「それって、バイト先の店長?」

 彼方は声にならない声を上げる。聡子は知っていたとばかりに、肩をすくめた。

「自分でもはっきりしない感情なんだ。目の前から消えて、ずっと心がざわざわしてる。バイト代がすっからかんになっても、何度も会いに行くよ」

「そう」

 フィンリーから話を聞いたときから、さらに心が揺さぶられた。言いたいことがさらに増えた。

 彼は大事なものを消してまで日本を去った。なぜか自身が許せないという感情が起こった。アーサーを何も分かってやれない不甲斐なさにも、ひどく落ち込む。捨ててまで行かなければならなかったのだ。それが賭けの内容であっても、身勝手にも相談してほしかったと八つ当たりまでしてしまう。

「会ってどうするの?」

「……考えられないよ。今は会うことしか。怒るかもしれないし、泣くかもしれない」

 聡子は立ち上がり、無言で部屋を出ていった。

 心配しているのは背中からも伝わってくる。家族の心配は痛いほど伝わるが、心は止まれない。


 いつの間に入れられていたのか、アプリにはフィンリーの連絡先が登録されていた。

──覚悟は決まった?

 正月のいの一番のメールは、人生の岐路に立たされた。毎年のあけましておめでとうが、いかに幸せで平和なメールなのか噛みしめる。

──イギリス。

 一言だけメールを送り返すと、既読はついたが返事はなかった。

 午後にまた宅配が届き、今度の送り主はフィンリーだった。

 箱の中身は封筒で、中にはチケットが入っている。

「行き先は……」

 彼方はチケットを握りしめ、祖母の部屋へ向かった。


 日本の冬ほど厳しくないが、それでも空港へ降り立つと、吐く息が白くもやがかかる。

 曇りや雨の日が多い地域で、今も空は濁っている。

「ご飯……食べようかな」

 あまり食欲はなかったが、おおっぴらになっているカフェに入った。

 日本の朝食でよく食べられるような、パンとサラダ、ベーコンに目玉焼き。安心安全の想像できる味。一度口に入れてしまえば食欲がなくても、するすると喉を通る。

「これからどうしよう」

 イギリスに降り立ってから一時間。気持ちだけが先走り、これからどうしたいのか、どうすべきなのか、頭がついていかない。

 彼の知っている情報をまとめてみた。

 アーサー・ドヴィエンヌ・ラナウェーラ・スタッフォード。ラナウェーラはスリランカの祖母の名字、スタッフォードはイギリスの名字。ドヴィエンヌについては聞かなかった。

 ヒントとなるものは、スタッフォードだ。日本でいう佐藤や鈴木のようによくある名字なのか、珍しい名字なのか。手当たり次第に聞き回るのは無理がある。

 店員が手を差し出した。

「チップ」

「あ、はい」

 財布を取り出すが、どのくらい渡せばいいのだろう。

「十ポンド」

「わ、わかりました」

「ストップ」

 渡そうとした瞬間、手首を掴まれ、お金を落としそうになる。

 真っ黒なサングラスをかけた男性で、口元が笑うと白い歯が見える。くせっ毛のブロンドヘアーを後ろにまとめ、カジュアルな英語を並べていく。

「十ポンドってありえないでしょ? このプレートいくらするの? せいぜい一ポンドくらいでしょう。アジア人相手だからって多く取れると思った? それにチップをねだるなんて、英国紳士とは思えないね」

 演劇が始まったかのような演技口調に、彼方は呆気に取られる。

 男性は一ポンドを払い、財布をしまうよう促す。

「ありがとうございました」

「どういたしまして。君はどこに行くのか困っているみたいだね。さあ、行こうか!」

「ええ?」

「分かるよ、うん。初めての土地に足を踏み入れ、愛する人も行方不明となり、路頭に迷っているんだね。大丈夫、僕が導いてあげよう!」

「それは……、」

「ああ、自己紹介はしておかないとね、彼方君。僕はダニエル・スタッフォードと申します」

「スタッフォード?」

「じゃ、車に乗って」

「ま、待って下さい!」

 ほぼ、無理やりといっていいほど押し込められた。

「聞いてないの? 迎えにいくって言ったじゃないか」

「迎え? そんなの初めて聞きました」

「おかしいな……フィンから何も聞いてない?」

「イギリス行きのチケットは頂きましたが、宅配便にはそれしか入っていなかったです」

「それは仕方ない。きっと忘れていたんだね」

「僕は、月森彼方といいます」

「うんうん。あの子の婚約者だろう? 聞いているよ」

「婚約者?」

 話がまるでついていかない。

「アーサーさんの、お父さんですか?」

「はい、ご名答。フィンとアーティーの父です。初めまして」

「初めまして。それで、婚約者というのは……」

「あの子たちふたりから聞いたよ。可愛らしい子だねえ。未成年じゃないよね?」

「成人を迎えています」

 理解し難いが、回りではとんでもないことが起こっていると、それだけは理解できた。

 婚約者だと偽ってでも巻き込まなければならない何かがあり、アーサーは助けを求めている。ならば、全力で答えるだけだ。

「ずっと、アーサーさんは攫われたんだと思ってました」

「まさか。面白くもないジョークだよ。アーティーは自らイギリスへ戻ってきた。クリスマスは二十五歳の運命の日だからね。僕らは自分の家族を救いたい。そのためには、君の助けが必要のようだ」

 ダニエルはサングラスを外した。

 瞳が碧眼で、アーサーによく似ていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る