第31話 魔女の血
初めて入ったスイートルームは、異次元空間に呑まれたようだった。
カーテンで仕切られた寝室に、寝ころんでも寝心地がよさそうなソファー、テーブルには英語で書かれた本が数冊。読みかけなので、直前まで読んでいたのだろう。
夜景が一望できる大きな窓からは、無数の光が遠くまで見える。
「カーテン閉めていい? いろいろ心配なんでね」
「はい」
フィンリーは高級スーツの上着を適当にかけると、フロントへ電話を入れる。
コーヒーと二段重ねのホットケーキが届いた。
「とりあえず食べようか。その様子だとろくにご飯も食べてなさそうだから」
「……いただきます」
分厚いホットケーキを切ると、蜂蜜と溶けたバターが中まで染み込んでいく。あふれて皿に残る蜂蜜をたっぷりとつけた。
「美味しい……甘い」
「それはよかった」
蜂蜜も残らないほど平らげた後は、フィンリーはお代わりのコーヒーを注文してくれた。
「アーティーがいなくてがっかりした?」
「いるとは思ってませんでした」
「あ、そう。どこにいるか予想はつく?」
「もしかしたら……イギリスかスリランカ」
「どうしてスリランカ?」
「スリランカはおばあさまの出身国なんですよね。アーサーさんから聞きました」
「僕らは異母兄弟。母親が違うんだ。僕は母親の元で育ったから、ほとんど祖母のことは分からない」
「そうだったんですか。アーサーさんは、家族の話題はあまり触れてほしくなさそうでしたが、おばあさまの話はたまにしてくれました」
「ふふ、まあ僕みたいなお兄ちゃんじゃあ、話したくはないだろうね」
フィンリーは足を組み、前髪を邪魔そうに持ち上げる。
「何が起こっているのか教えて下さい」
「知ってどうしたいの?」
「アーサーさんを取り戻したいです」
「取り戻す? 彼は自分の足で日本を出たんだよ。まるで僕らが攫ったみたいな言い方だ」
「自分たちの足で? そんな、ありえない」
何よりも大切な店を捨ててまで、彼は去った。
「ありえないって言うけどさ、君はアーティーの何を知っているわけ? 特別な関係かと思っていろいろ聞いてみたけど、まるで他人同士じゃないか」
「僕が彼を好き。それじゃあいけませんか?」
「そういう人はごまんといるんだって。前に君は新妻さんという男性と会ったね。彼もその一人だ。わざわざ遠回りしてアーサーがいるかどうか確認して、家に帰った日もある」
「そんなことまで調べているんですか」
「言っただろう? 君たちの回りは埃が舞う数ほど細かく見ている。アーティーが君を心から信頼していた証拠でもない限り、話すことはできないんだよ」
フィンリーは胸元のボタンを緩めた。
何か首から下げている。リングが三つついていて、それぞれに宝石が埋め込まれていた。
ふと彼方は思い出す。あの箱だ。
「証拠になるか分からないんですが……預かっていたものならあります」
「何を?」
「この前、アーサーさんから宅配が届いたんです。中には正方形の箱があって、指輪がありました。内側にはスタッフォードの名字があって、」
「なんだって?」
フィンリーはソファーに座り直し、少し前屈みになる。
「けっこう年季の入った箱でした」
「ほかには?」
「あとはメッセージカードです。預かってほしいって。それだけですけど……」
「……………………」
フィンリーは黙りこくってしまった。
静寂が訪れると、いかにフィンリーが話し好きか分かる。それに話すのが上手い。すでに二時間が経過していた。
「うーん……難しいよ、月森君。まさか……いやあの子が仕組んだのか? そうとしか思えない、うん」
独り言を呟くと、フィンリーは急に立ち上がる。
「シャワー浴びてくる」
それだけを言い残すと、返事も待たずにリビングを出た。
嵐のような人だ。けれど彼と話して分かったこともある。
彼方はまぶたをゆっくりと開けた。いつの間にか眠っていたらしい。柔らかなソファーの上で横たわり、毛布がいくつもかけられている。不思議な優しさを兼ね備えた人だ。
彼方はシャワーを借りて、ミネラルウォーターを冷蔵庫から出した。
彼はアーサーの異母兄弟で、アーサーから離れろと何度も警告をした人。話せば話すほど、解決どころかもやもやしたものが溜まっていく。
「起きた?」
フィンリーは携帯端末をテーブルに置いて、彼もミネラルウォーターを取り出す。
「仕事の電話は待ってくれないんだよ」
「毛布、ありがとうございます」
「どういたしまして。起きたついでにちょっと話でもする? 今なら質問を受けつけるよ」
「黒いスーツの男性は、何者ですか? どうしてアーサーさんを追っているんですか?」
「アーサーねえ……。目的がふたつに増えた。君も対象なんだよ。巻き込まれる前に身を引けと忠告した理由だ。弟はとある血を引いている」
「魔女の血ですか」
「聞いてたの? 根絶やしにしたい連中さ。僕らの祖母がそういう血を引いている。祖母と一番仲のよかったアーティーは、祖母から何かを受け継いでいる。これは僕の予想だかどね。だからこそ白羽の矢は弟に立つんだ。連中は僕らに対し、アーティーを引き渡せと幼い頃から何度も忠告してきている。僕から言わせたら、魔女の血なんて馬鹿げたものだけどね。本来の目的は別にある」
「本来の目的?」
「ドラッグだよ。スリランカのご先祖様は、薬を作っていたんだ。その中にも今は違法な薬が含まれている。とある宗教の資金源になっていて、アーティーはそれに利用されようとしているんだ」
「でもアーサーさんは、作り方を知らないんですよね?」
「多分ね。そこら辺は秘密主義だし、僕らの知らないことも抱えている可能性は捨て切れないけど。ちなみに僕は本当に知らないよ。祖母とはほとんど一緒に過ごさなかったし、顔も思い出せないくらいだ。占星術や様々な知識を教えてもらったアーティーだから、魔女だと思い込んでいるんだろう。彼らはアーティーが作り方を知らなくても、利用して作らせようとしている。幽閉してお薬製造マシーンってやつ」
「なに……それ……」
「君がショックを受けるなんておかしな話だ。だから関わるなと何度も言った。けれど君は聞かなかった」
フィンリーは早口で言い切ると、ペットボトルを空にした。
「分かれ目は二十五歳の誕生日。クリスマスだ。奴らとアーティーはとある賭けをした。アーティーの願いは初恋の人を見つけ、もう一度会うこと。それなら、二十五歳までに見つけられなかったら幽閉確定、見つかったらアーティーは自由の身」
言葉が出てこなかった。とんでもない話だ。人権なんて、初めからなかった。きっと生まれたときから、自由とは無縁の生活を強いられてきた。
「その涙をアーティーが見たら、なんて言うだろうね」
拭いても拭いても、溢れるものが止まらない。乾いたバスタオルはまた乾かさないといけない。
「地球に何十億人いる中で、初恋の人を見つけるなんて無理だと踏んだんだろうね。アーティーは諦めずに海を越えた。そして見つけた」
「それは、僕も聞きました。でも、誰かは分からないんです。結局教えてくれないし……何も言わずにいなくなった。僕だけが好きで、アーサーさんは、僕を何とも……」
「それはもし会えたら、聞いたらいい。悪いが、簡単には居場所を教えられない。そうだな……二択にしよう。君が思う、スリランカかイギリス。どちらかを選ぶんだ。元旦までにチケットを用意する。もし当てたら、アーティーにたどり着ける可能性はある。もちろん、会いたくないのならこのままフェードアウトしてもらってもいい。賭けに乗るか、乗らないか」
答えは一つしかなかった。大粒の涙を拭い、腹筋に力を込める。
「愛で国境を乗り越えてみせてよ」
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