第30話 フィンリー スタッフォード

──こちらの世界に関わるな。

 クリスマスに差しかかろうとした時期、またもや正体不明の人物からメールが届いた。

 この前のメールアドレスとは違うが、アルファベットと数字を混ぜた特徴から、同一人物に違いない。

 身が震えるのは、こちらの事情は筒抜けであること。

 最初はストーカーかと身を固くしていたが、無言電話や待ち伏せなとは一切なく、彼方からのアクションも起こせない状態でいる。

「彼方、いるかい?」

 珍しく祖母が部屋をノックしてきた。

「どうしたの?」

「彼方宛に宅配が届いてるんよ。相手は……」

 受け取って送り先を見ると、アーサーからだった。

「アーサーさん」

 白い紙袋に一本の白いバラが大きく描かれ、香水をかけたのか瑞々しい花の香りがする。封を開けると、さらに香りが増した。

「これ……」

 小さな箱が入っている。それとメッセージカード。

──どうかこちらを預かっていて下さい。

 正方形の、厚みがある箱だ。アンティークもので軽く押すと軋んだ音が鳴るが、手直しされた跡がある。よほど大事なものなのだろう。

「……縁のないものだと思っていたのに」

 アーサーはどんなつもりで渡したのだろうか。正確に言えば、預かってほしい、だ。

 シンプルな銀の指輪はおそらく想像通りのもので、見えづらいが内側には『スタッフォード』と彼の名字が彫られている。

 疑問より、不安が頭をよぎる。週に数回、アルバイト先で会えるのに、なぜわざわざ送ってきたのだろうか。

 震える指先で彼の電話番号をタップする。だが虚しいコール音だけが鳴り響き、甘く優しい声が聞こえてこなかった。

 家を飛び出し、彼方はアスファルトを蹴った。普段汗の出ないようなところからも、どっと吹き出している。

 シンプルに、頭が真っ白になった。

 カーテンもドアプレートも何もかもがない。

 ガラスの向こう側は、イス一つすらなくなっている。テーブルも、カウンターも、ソファーも、何もかも。

 おかえりなさい、こんにちは、彼方さん。

 微笑む顔もない。無だ。店も店主も、存在が消されている。記憶がおかしいと錯覚するほどに、なにも残されていなかった。

 街はクリスマスの世界で、彼方のいる世界は空白で。全身の力が抜け、膝をついた。

 アスファルトの冷たさが布越しに伝わり、身体の熱を奪っていく。何も考えられなかった。

 数時間経ち、ネオンが光ると、彼方はようやく自我を取り戻した。

「帰らなきゃ……」

 家には待ってくれている人がいる。せめて大切な人の笑顔を守りたい。きっとそれは、自分自身が必要とされたいからだ。

 イチゴたっぷりのショートケーキを買って帰ると、祖母はしわくちゃにして笑ってくれた。テレビで観て、ちょうど食べたいと思っていたらしい。祖母の笑顔が印象のクリスマスになった。

 彼方は部屋にこもり、ずっと窓の向こうを眺めた。深夜になっても、朝になっても。

 今、彼はどこで何をしているのか。どうしていきなり消えたのか。楽しかった記憶は、すべて偽物ではないのか。

 預かりものの指輪を見ると、ようやく涙が溢れてきた。これが現実だ。アーサーは存在していて、今まで過ごした時間は嘘ではない。それに、黙っていなくなったのも現実。

「アーサーさん……」

 どんな小声で呼ぼうとも、彼は聞き漏らさなかった。聖徳太子ではないか、と冗談を交えると、それは何かと興味津々になった。

 クリスマスを終えた街は、次の行事で盛り上がっている。

 街はこんなにも切り替えが早いのに、ひとり取り残された気分だった。

 夢でも白昼夢でもなく、現実だ。店は跡形もない。ここがいかに大切な場所であったか、突きつけられた。

 来る日も来る日も、彼方は店に来た。ドアの前でしゃがみ、涙を流し、アーサーの名前を呼び続けた。

「あーあ、だから言ったのに」

 迫る足音に、顔を上げた。

「そんなに顔を真っ赤に腫らして。言わなかった? 手を引けって。関わるなって」

 彼と同じブロンドヘアーの男性だった。前に一度会ったことがある。今年中にアーサーから離れろと忠告をしてきた人だ。

 男性は彼方の腕を掴んで無理やり立たせると、小走りで走った。

 駐車場に駐めてある車に押し込めると、男性は急にアクセルを踏んだ。

「さあ、逃げるよ!」

 男性は楽しそうにハンドルを回した。

 ビルの間から黒スーツの男性が顔を覗かせ、彼方は反射的に顔を引っ込めた。

「賢明な判断だね。そのまま身体を縮めて隠して。君は思っている以上に余計なことをする。そのせいで目立つからね」

「あなたがメールの送り主ですね」

 手を引け、関わるな、はメールの内容そのままだ。

「ご名答。ついでに自己紹介をさせてもらうと、アーサーの兄です。フィンリー・スタッフォードと申します」

「日本語話せたんですね」

「正確に言うと、覚えました。仕事の取引に覚えていても損はないもんでね。アジアの言語は実に面白い」

「月森彼方といいます」

「知っているよ。アーティーとどこで何をしたのか、いつふたりで出かけたのか、何もかも」

 フィンリーと名乗る男性は、軽やかに恐ろしいことを述べる。

「本当にアーサーさんのお兄さん? アーサーさんはどこにいるんですか? お店もなくなってしまってたんです。これからどこに向かっているんですか?」

「ワーオ、質問の答えは順番にね。店がなくなって君が毎日あそこでめそめそしていたのも知っている。今から向かう先はホテル」

「そこにアーサーさんも?」

「……君の頭の中はそれしかないのかい? だから言っただろう? 早めに離れろって。あの子は魅惑のフェロモンを無意識に振りまく。回りにいる人は当てられ、おかしくなるんだ。君もそのひとり」

「そんなんじゃないです」

「みんなそうい反応をする」

「もう、そういうことでいいです。アーサーさんはどこにいるんですか」

「ところで、アーティーとはしたのかい?」

「したってなにを?」

「セックス」

 座席に頭をぶつけた。信号がちょうど赤になり、エンジン音が静かになる。

「日本人はウブだ。けれど君の反応を見るに、まだそういう関係じゃないってこと?」

「僕とアーサーさんは、そういう関係じゃないです」

「じゃあ、なぜ彼を捜している? 捜してどうするつもり?」

「それは……」

 言葉がつまる。いざ口に出されると、答えが出てこない。

 関係性を問われると、難しい。雇用主とアルバイトの関係から始まり、たまに食事をしに行くようになった。悩みを相談すると親身になって答え、仕事関係の間柄という枠は越えている。

「ホテルで答えを聞こうか」

 青信号になると、フィンリーは再びアクセルを踏んだ。

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