第8話 忍の機転
意を決してクロスボウから放った注射針……口腔内の粘膜に命中させることを目指したそれは、虚しく怪物の頬をかすめただけであった。
「まずいっ!」
とっさに体をひねった結菜は、間一髪、食われずに済んだ。しかしその巨体がかすめたことで、結菜は後方に突き飛ばされてしまった。目の前の獲物を食いそびれたとみるや、怪物はくるりと方向転換して結菜の方を向いた。
まだ薬の入った注射器はある。が、クロスボウへの装填は時間がかかりすぎる。そして、目の前の怪物が、装填の隙を与えてくれるとはとうてい思えない。
――もう、こうするしかないか。
むくりと起き上がった結菜は注射器を固く握り、怪物を待ち受けた。奴に食らいつかれた時、口腔内に注射器を突き立てる……そうした捨て身の戦術を、結菜は取ろうとしていた。
ふと、結菜の脳裏に忍のことが浮かんできた。自分がオトコにしてやった、二人目の相手だ。あのいたいけな少年を弄ぶだけ弄んだ挙句、己は一人死んでゆくのだ。全く悪い女ではないか、と、結菜は自嘲した。
怪物の長い口吻が、真っすぐ結菜の方を向いている。結菜は臆さなかった。昭は自らの命を投げ捨てでても自分を守り、あれを倒そうとしたのだ。だから、自分の命を惜しんでられぬ。
ところが、結菜の予想に反して、怪物はくるりと左の方を向き、そちらに走っていった。少し間をおいてから、結菜は何が起こったのかを理解した。
「忍くん! 何でキミが!」
長めの黒髪に、つぶらな瞳、細い四肢に、どこか少女じみた顔立ち……結菜の視線の先には、なぜか忍の姿があった。少年の前には例のクーラーボックスが転がっており、怪物は散乱したニジマスを必死に食らっている。忍がクーラーボックスを蹴飛ばし、中身のニジマスを地面にぶちまけたのだ。アリゲーターガーの捕食はお世辞にも上手とはいえないため、きっと動き回る結菜よりも手頃な餌である冷凍ニジマスを優先したのであろう。
「なぜここが分かった!?」
「話は後にしましょう。あれを倒すんですよね」
「ああ、そうだ。こいつを口の中にぶち込んで爆破する。だから下がってくれ。」
結菜は返事をしながらクロスボウの弦を引き、注射器を装填した。忍が作ってくれた隙を無駄にはできない。
装填を終えた結菜は、あることに気づいた。
――忍がいない。
「こっちだ! 化け物!」
少年のよく響く声が、川岸に響き渡る。忍は怪物を挑発しながら、ある方向へ一直線に走っていた。怪物もすっかり挑発に乗ってしまったのだろう、四つ足で地面を蹴り、忍を追いかけ出した。
忍の目指す先……そこは、土の露出した崖になっている。忍は崖に行き当たる直前に急カーブをして、右側に走った。怪物は勢いを殺しきれず、そのまま崖に激突してしまった。旋回の苦手なアリゲーターガーの弱点を上手くついたのだ。
――ガーの仲間は体を曲げるのが苦手なんだ。だから、奥行きのある水槽で飼育しないと背骨が曲がったり、鼻が潰れたりしてしまう。
結菜に以前教わったことを、この少年はしっかりと覚えていたのである。
崖に鼻先をぶつけた怪物は、そのまま仰向けに転がって、脚をじたばたさせていた。ガノイン鱗で覆われた重装甲の体は重すぎて、上手く起き上がることができないのだ。
忍はすかさず怪物の顔側面に回り込んだ。そして、ぱたぱたと開閉しているエラ蓋を掴んで、足を踏ん張りながら力の限り開いた。
アリゲーターガーは水中でのエラ呼吸と空気中に口を出しての肺呼吸を使い分けることができるが、二酸化炭素の排出だけは水中でエラを用いて行っている。この怪物は陸上で動きすぎて二酸化炭素が体内に溜まっており、それを放出しようとしてエラ蓋を開いているのだ。当然、水中ではないので二酸化炭素はきちんと排出できていない。
「今です!」
叫ぶ忍に、結菜は無言でうなずいた。エラ蓋の中を狙って撃てということなのだろう。
――今度こそは、外さない!
大きく開いたエラ蓋の中を狙って、結菜はクロスボウの引き金を引いた。射出された注射器は、そのままエラの中に吸い込まれていった。
「離れろ!」
結菜の叫びに応じて、忍は飛びのいた。怪物の硬い鱗が、虹色に輝き出す。それはまるで電飾を埋め込んだかのような、鮮やかな光であった。
そして、この巨体の合成生物は、派手な爆音を立てて爆発した。、鱗や骨、それから肉が細かくなって宙を舞い、辺りに散らばった。地面に伏せた忍の背にもそれらは降り注ぎ、白いTシャツを赤く染めていった。
「全部……終わったんだな……」
クロスボウを取り落とした結菜は、力が抜けたようにその場にへたり込んだ。
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