第5話 淫夢

「さぁ、忍くん、手を貸してごらん」


 結菜に言われるがまま、忍は己の右手を差し出す。忍の手首を、結菜のひんやりした細い指がそっと掴んだ。忍の心臓の鼓動が、にわかに速まっていく。

 結菜は忍の手首を引っ張り、その掌を自らの胸に触れさせた。

 

「意外と胸あるだろう?」


 忍の頭は、この時すっかり茹だってしまった。焦点の合わない視界で必死に結菜の顔を捉え直すと、彼女は不敵な笑みを浮かべていた。まるでいけない遊びに誘う時のような、そんな表情をしている。

 忍は腕をかすかに震わせながら、服の上から結菜の胸に手を這わせた。柔らかい感触が楽しくて、上から下へ這わせた後、優しく揉んだりしてみた。


「やっぱりキミも男の子なんだね。直に触ってみたいかい?」

「……はい」

「ははっ、思った通りだ。ちょっと待っておくれよ」


 そうして結菜は白衣を取り去り、シャツを脱ぎ捨てて……


 ……残念ながら、そこから先へ行く前に、忍は布団から跳ね起きた。


「ゆ、夢……」


 忍は喉をかきむしらんばかりに、目覚めたことを後悔した。これでは蛇の生殺しだ。悔やんでも悔やみきれない。

 そんなことを考えて意気消沈していると、やたらと股の辺りが湿っぽいことに気づいた。よもや十二にもなって夜尿おねしょか、やってしまった、と焦ったものの、そうであるならもっと盛大にしみが広がっているはずだ。それに、尿であるならこんなに粘つくような感触はない。


「これ……もしかして……」


 自分が出してしまったものの正体について、思い当たるものがないわけではなかった。しかし、結局それは知識として知っていただけで、実体験としては未知のものであったといってよい。まさかこんなタイミングで自分の身に起こるとは、露ほども想像していなかった。

 新しいパンツに履き替えた忍はこっそり風呂の脱衣所に忍び込み、洗濯カゴに汚れたパンツを放り込んだ。そうして何食わぬ顔で脱衣所を後にしたのであった。


 この日も結菜の所に行くことになっていた。いつものように弁当を作り、それを保冷剤とともにリュックサックに入れて家を出た。

 いつもは意気揚々といった風に出かける忍であったが、あのような夢を見た後とあっては、流石に複雑な心持ちである。

  

 ――自分はあのようなことを望んでいたのだ……


 そしてその気まずさは、結菜と顔を合わせるとより強まった。


「こっ、これ……お弁当です」

「毎度ありがとう……ん? 何だかキミ顔が赤くないか?」

「きっ気のせいかと……」

「ふぅん……」


 あれは夢の中の出来事にすぎず、現実の結菜には何も影響を与えていない。それでも忍は自分の歪な妄想で彼女を汚してしまったように感じてしまって、視線を合わせることができなかった。机に座る結菜に弁当を渡す忍の手は小刻みに震えており、緊張ゆえか舌も上手く回らない。

 それと反対に、結菜は背もたれに体重を預けつつ、どこか余裕げに構えながら、棒のように立ち尽くす忍の顔を見上げていた。


「正直に答えてほしいんだが……私に何か隠し事をしていないか?」


 忍の心臓が高鳴った。まさか、自分の歪な欲求を、彼女に察知されてしまったのではないか……


「あっ、その……いや……」

「ははっ、実に分かりやすい。分かりやすいねキミは」

「ど、どういうことですか」

「キミもしかして、初めてアレが出たんじゃないかい?」

「アレって……」

「やだなぁ、キミはレディの口からそれを言わせるつもりかい?」


 間違いない。結菜は今朝のを言っているのだ。なぜ結菜にバレたのかは分からないが、もう隠し立てはできないだろう。


「初めてのことで……僕は何が何だか分からなかったんですけど……起きたらパンツが濡れてて」

「おめでとう。キミが一歩大人に近づいた証だよ」


 祝福の言葉を述べた結菜は、忍の細い手首を掴んだ。そして……


「これは私の推測なのだが……きっとこんな夢を見ていたのではないかな?」


 ぐい、と手を引き寄せた結菜は、忍の掌を自分の胸に触れさせた。驚いたことに、まさに夢で見たのと同じことが起こっている。忍は驚愕のあまり、目を白黒とさせるばかりであった。


「だ、駄目ですよ他人にその……そんな所を触らせるなんて」

「そっか、じゃあやめるかい?」

「え、あ……いや」


 忍は答えに詰まってしまった。本音を言えば、やめたくはない。結局のところ、忍は結菜に対してある種の変態的な欲求を抱いていたということは否定できない事実なのである。

 夢で見た通り、結菜は意外と豊満な胸をしていた。身長が高いせいか全体的にすらりとした印象があり、そのためにあまり胸の方が目立たなかったのかも知れない。


「ど、どうして僕のその……それが分かったんですか?」

「ニオイかな。男の子のアレって結構独特だからさ。それより、遠慮する必要はないよ。もっと揉んだりしたいんだろう?」

「えっ……まぁ……はい」


 結菜に言われるまま、忍は真正面から乳房を掴み、優しく揉んでみた。脂肪の柔らかさが心地よくて、


「手つきがいやらしいよ。キミも大概、顔に似合わずスケベ人間なんだねぇ……ふふっ」

「か、顔のことは言うのやめてください。僕だって男の子なのに……こんな顔に好き好んで生まれたわけじゃあ」

「ああ、悪い……そういうつもりじゃなかったんだよ」


 結菜は面食らったような顔をして、少し申し訳なさげに言った。忍にとって、少女めいた自分の顔は、災いを呼ぶものでしかなかった。「オトコオンナ」などと言われていじめられ続けた彼の傷は、時間が経っても癒えきらない。


「私はキミの顔、好きなんだけどな……整っていて綺麗な顔立ちじゃないか。そこら辺の男よりもずっとイイ顔してるよ」

「そう……でしょうか……」

「ああ、そこは自信を持っていい……といっても、それは難しいか」


 自分の好きな人――結菜に顔を褒められたことは、率直に嬉しい。それは嘘偽りのない感情だ。けれども自身に災いを呼び込み続けたこの顔に対しては、やはり複雑な想いが付きまとって、手放しに喜べないのもまた本音である。


「……忍くん、このがしたいかい?」


 そう言って、結菜は杖を使い椅子から立ち上がった。「続き」の意味がよく分からなかったが、今の忍は彼女の誘いに乗らないという選択肢を持たなかった。


「ついてきて。キミをオトコにしてあげるよ」


 結菜に言われるがまま、忍は歩き出した彼女の後ろについた。結菜は例の仏間……ではなく、別の部屋へと忍を導いた。

 そこはどうやら寝室のようであった。布団が一枚、中央に敷かれているが、その周りには科学雑誌やアクアリウム雑誌が散らばっていた。


「汚くて悪いね。ムードも何もあったもんじゃない」


 部屋の散らかり具合など、忍の目には全く入っていない。この先に待っていることを想像した忍の興奮は、最高潮に達していた。


「改めて問いたい。キミは私のことが好きなんだろう?」

「……はい。僕は結菜さんのことが好きです。人生で初めて、女の人を好きになりました」

「そうかい、キミの初めてとはそりゃ嬉しい」


 この時、忍は結菜に夫がいたことを思い出した。自分にとって初めての恋の相手は、間違いなく結菜なのだ。けれども結菜にとって自分は初めての相手ではない……その非対称な関係が、この少年には少し寂しく感じられるとともに、かつて結菜に愛された亡き夫への嫉妬を少しく覚えた。


「私はキミのことを多くは知らない。キミが私のことについてあまり知らないのと同じようにね。だから知りたいんだ。私の好きな人のことを」

「それは……」

「キミと私、両想いだったということだね」


 感動のあまり、忍は声を失った。結菜はにこにこと笑いながら、頬を赤らめる少年の顔をじっと覗き込んでいる。その笑みは優しげでありながら、どこか淫靡な色を含んでいた。


 その日、忍の帰宅はいつもより遅くなった。

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