第4話 結菜の秘密と、ブラックバス密放流者の末路

 それから二日後のことである。忍はいつものように結菜の元を訪ねた。いつものように水槽の管理作業(この日は購入者へ魚を配送するためのパック詰めや、病気になった金魚の塩浴などであった)を行い、その後に勉強を教わった。


「そういや最近ベタ売れますよね。今日も発送しましたし」

「ああ、テレビで取り上げられたからだろうね。綺麗だし小さい水槽で飼えるから欲しい人が多いんだろう」


 ベタというのは東南アジア原産の淡水魚で、同種同士で激しく争う気性の荒さから「闘魚」と渾名あだなされている。一方で美しい色彩の改良品種がたくさん創出されており、加えて丈夫で人によく慣れる性質を持つことから、近年人気が上昇してきている。体がそれほど大きくないため小さな水槽で飼育できるところも、日本の住宅事情によく適合しており人気を後押ししている。


「確かにすごく綺麗ですよね。僕も一匹家で飼いたくなってきました」

「おお、その気になったか。いつも頑張って協力してくれてるから、好きなのを選ばせてあげよう」

「えっ、本当に!?」

「ああ、水槽の立ち上げをしっかりしておきたまえ。さて、次は算数をやろうか」


 そうして、結菜はペットボトルの麦茶を一口飲むと、忍が持ってきた算数のテキストを広げた。


 その日の授業が終わり、今日も結菜と過ごす時間は終わってしまった。リュックサックを背負った忍は、玄関口で靴を履き外に出ようとした。ところが、である。


「あっ……渡すの忘れてた!」


 忍はきびすを返し、大急ぎで水槽部屋へと戻った。彼は父の実家から送られてきたサクランボを持たされて、それをおすそ分けとして渡すように言われていた。そのことをすっかり忘れていたのだ。

 水槽部屋の扉を開けたものの、結菜はすでにいなかった。きっと別の部屋に引っ込んでしまったのだ。

 別の部屋に通じる扉がないか探していた忍は、半開きになっている青い扉を発見した。その扉の向こうへ、忍は一度も足を踏み入れたことがない。 


「あのう、すみません。これうちの親が渡しておけって……」


 サクランボの入ったビニール袋を片手に、おそるおそる扉を少し開ける忍……その視線の先には、優しげな顔をした若い男の遺影が立てられた仏壇と、遺影に手を合わせる結菜の姿があった。


「あれ、帰ってなかったのか」


 振り向いた結菜と視線が合い、忍はどきりとした。見てはいけないものを見てしまったような気がして、そのことを咎められるのではないかと、忍は気が気でなかった。


「あのう……これ……お父さんの実家のサクランボです……」

「ありがとう。わざわざ悪いね」

「あの……遺影の男の人は一体……」

「キミに見られてしまったか……隠しても仕方ない。私の夫だよ」

「え、結婚していたんですか!?」


 思わず素っ頓狂な声が漏れてしまった。それほどまでに、結菜の一言は忍にとって衝撃的だったのである。


「過去のことだがね……」


 遺影を立てられているということは、もうすでに夫というのはこの世の人ではないのだろう。それは人生経験に乏しい忍にだって理解できる。


「あ、あの……サクランボ、おいしかったので食べてください。それではお邪魔しました!」


 そう言って、忍は足早にその場を去った。二人の間を流れていた何ともいえない微妙な空気に、忍は耐えきれなくなってしまったのである。

 憧れの結菜さんが結婚していた。その上、すでに相手は死んでしまっている……忍の胸の内には、何とも形容しがたい、もやもやした不定形の感情が湧き起こった。それは決して愉快なものではなかったが、強い嫌悪感を催す類のものでもない。どうにも形容しがたい、奇怪な感情であった。

 赤い夕陽が、矮小な人間を嘲るかのように照りつけている。名前のつけられない感情を抱えながら、忍は駅に続く大通りをいつもより早歩きで歩いていた。


***


 釣竿ケースを肩にかけ、魚籠びくを抱えた中肉中背の中年男が一人、人目をはばかるようにきょろきょろと視線を左右させながら、川の方へと小走りに走っていた。

 川の水面は、夕陽を受けて赤く輝いている。川岸に立った男は、魚籠の蓋を砂利の地面の上にそっと下ろして蓋を開けた。

 魚籠の中には、コクチバスが三匹、一匹ずつ小分けにされてビニール袋に詰められていた。


 オオクチバスやコクチバスなどの所謂ブラックバスと呼ばれる外来魚は、移入先の生態系を破壊しかねない厄介な外来魚として知られ、全国で駆除活動が続けられている。そんな厄介者として知られるこの魚は、これまで分布が確認されていなかった場所で急に姿を現すことがある。その原因の一つとされているのが密放流だ。

 ブラックバスを生きたまま移動させて川や湖などに放して新たなバス釣り場を作るという行為が、バスフィッシングを愛好する一部の釣り人や、バス釣りによって利潤を得ている釣り具業界の人間によって平然と行われているのが現実である。オオクチバス、コクチバス、フロリダバスの三種は特定外来生物に指定されており、生きたまま移動させることは違法だ。違法を承知で放流を行うのだから、彼らの執念たるや察するに余りあるものがあろう。


 この男は、そうした密放流を行う常習犯であった。コクチバスが酸欠に弱いことをこの男は知っており、そのためわざわざしきりに水をかき混ぜて、水中の溶存酸素を確保しながら運んできたのである。

 男はビニール袋の口を開けて持ち上げ、中の水ごと川にコクチバスを放とうとした。


 その時であった。目の前の水面が、ゆらりと波打った。川の底から、何かが突き上げてくる――


「う、うわああああ!」


 盛り上がった川の水を、巨大な背がかき分ける。現れたは大きな口を開け、コクチバスの入ったビニール袋ごと、男を咥えて呑み込んでしまった。

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