第3話 忍の想い

「ふぅ……終わった……」


 水槽の水換えを全て終えた忍は、結菜の座る白い机の方へと戻っていった。あまり切りにいかないために伸びっぱなしになっている髪が、汗で湿り気を帯びている。


「今終わりました」

「ああ、毎度ありがとう。疲れただろう? はいお茶」

「ありがとうございます」


 結菜に手渡されたペットボトルの麦茶を受け取った忍は、そのままキャップを開けてぐびぐび飲み始めた。水分補給を忘れて作業していたため、体が知らずのうちに渇いていたようだ。

 

 忍はあくまで結菜に勉強を教えてもらうために通っている。だが、最初にここを訪れた時、結菜は忍にある提案をしてきた。


「私の水槽の管理を手伝ってくれたらお小遣いをあげよう」


 結菜は伯母夫婦が所有する古い家屋をリフォームして、そこに居を構えている。この住まいにはまるで熱帯魚屋のような水槽部屋が備わっており、彼女は大小さまざまな水槽を置いて管理していた。

 これは忍が結菜に直接聞いた話だが、どうやらただの趣味というわけではなく、熱帯魚を繁殖させ、それを売買してお金を稼いでいるらしい。事実、忍は集荷に来た配送業者を何度か見ている。

 結菜は稼いだお金を使って、魚の繁殖促進や色揚げなどに用いる薬品の実験をしているらしいのだが、忍はその実験の正体を知らない。エナジードリンクが机に転がっていることから、寝る間も惜しんで研究を続けているのだろう。さっき破裂したレインボーシャークは、憐れにも彼女の実験の犠牲となってしまったというわけだ。


「さて、そろそろ授業を始めようか」

「お願いします」


 言われるままに、忍はリュックサックから国語の教科書とノート、それから筆箱を取り出して机の上に並べた。結菜が勉強を教えてくれるのは、いつも水槽のメンテナンスが終わった後だ。

 本来であれば、忍は勉強を教えてもらうためにここに通っている。しかし今となっては水槽のメンテナンスを含めて、結菜の身の回りの世話をしている時間の方が長くなってしまった。結菜の食生活を心配した忍は母から料理を教わり、弁当を作って持って行ったりもしているのだから、世話焼きここに極まれりである。

 本来それでは本末転倒なのだが、忍にとってはそれでも構わなかった。見返りにもらえるバイト代のお陰で懐具合が豊かになったから、というのもあるが、理由はそれだけではない。


「ここは理由を聞かれているから、何々だから、と書いて終えるべきところだ」


 向かい合った結菜に勉強を教わっていると、どうしても顔が近くなる。憧れの結菜の尊顔を間近に見てしまうと、忍は胸がどきどきして、そわそわと落ち着かない気分になってしまう。白く艷やかな頬は上気して、ほんのり朱色に染まっていた。

 こんなに気もそぞろでは勉強にならないのではないか、と思いきや、実態は真逆である。憧れの相手に勉強を教わっていることによって、学習に向ける意欲は以前と比べ物にならないほどに強くなったのだ。

 その上、結菜の教え方自体も、忍にとても合っていた。結菜は色々とだらしがなさそうであるが、忍に対する指導だけは案外しっかり取り組んでいた。その気力を少しでも他のことに振り向ければいいのに……と、忍は時々思ってしまう。


 そろそろ、日が傾きかける時間になっていた。今日の授業もここまでである。


「今日もありがとうございました」

「礼を言うのはこっちだよ。毎度ありがとう。これはいつものお小遣いだ、受け取ってくれたまえ」


 そう言って、結菜は千円札を三枚折りたたんで、忍のポケットに直接ねじ込んだ。忍はアルバイト代の相場に詳しいわけではないが、お弁当代と水槽のメンテナンス作業の時給と考えれば、決して悪くはない見返りであろう。特に今日は水換えという時間と体力を使う作業であったから、いつもより金額が少し多めであった。


「それじゃあまた明後日お願いします」

「ああ、こちらこそ」


 忍は名残惜しげに何度も後ろを振り返りながら、結菜の住まいを後にした。


 帰りの道中、忍は赤い夕陽を浴びながら駅まで歩いていた。結菜の住まいは忍の家からは電車で二駅ほどの距離の場所にあり、遠すぎて通うのに不便ということもなければ、近すぎて同級生に出くわすリスクが高いということもない、理想的な距離である。

 忍はお札をねじ込まれたポケットをしきりに撫でさすりながら、結菜のことを想った。

 

 ――自分はきっと、彼女のことが好きなのだ。


 あの従姉は、忍にとって暗がりに差した陽光のようであった。幼年期に出会った彼女からは随分と変わってしまって、随分と自堕落になってしまったが、それでも忍にとっては仰ぎ見るような存在であることに変わりはない。彼女の気だるげな声が、しなやかな細い指が、まるで藤の蔓のように忍の心に絡みついてくる。

 はぁ、と、忍は無意識の内に溜息を一つついた。このいたいけな少年の心は、甘い感傷にとろけていた。


***


 魚たちに餌をやり終えた結菜は、水槽部屋の奥の扉、その向こうにある六畳一間の部屋に引っ込んだ。

 私室の奥には、優しげに微笑む青年の遺影が立てられた仏壇がある。部屋のスペースの大半は物置になっていたが、仏壇と扉の間だけは不自然なほど小綺麗に整えられていた。

 結菜は日本酒の小瓶を開け、一口飲んだ後にそれを供えた。そうして手を合わせた後、しばらく立膝をつきながら、仏壇の遺影を眺めていた。


「あの子、キミに似てるようであんまり似てないように思えてきたよ」


 アルコールが回ったからか、結菜の蒼白な頬に、ほんのりと朱色が乗っている。煌々こうこうと照る電灯の下、結菜は窓の外の夕焼け空に視線を移した。


「アキラ……私が決着をつけるさ」

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