第2話 事の経緯
忍が従姉の
「初めまして、キミが忍くんかな?」
母の実家で初めて会った時、結菜がしゃがんで視線を合わせてくれたことは、七年経った今でも忍の記憶にはっきりと、いささかの擦り切れもなく刻まれている。
彼女は母の姉の子であった。忍が五歳の頃、ちょうど結菜は高校三年生で、卒業を間近に控えていた。
結菜は背が高く、忍の父親と背丈が変わらないほどであった。その上切れ長の双眸と長い鼻梁をした美人であり、しかも有名な進学校の生徒というだけあって知的な雰囲気を存分に帯びている。そんな従姉に、忍はすぐさま憧憬の念を覚えた。
「へぇ、忍くんはお魚が好きなんだね」
「うん、いちばん好きなのはねー、サメかな。エイも好きだよ」
「そっか……じゃあ水族館に連れて行ってあげようか?」
「え、本当に!?」
「そうか、じゃあ行こっか」
出会ったその日に、忍は結菜に手を引かれて、実家の最寄り駅から三駅ほどの所にある、名の知れた大きな水族館へと連れられた。忍の両親はなかなかそういった場所に連れて行ってくれなかったため、忍にとって初めての水族館であった。
初めて足を運んだ水族館――そこはおとぎ話に勝るとも劣らない、幻想の世界であった。狭い世界の中で、海を見たことのなかった少年は、優雅に泳ぐ色とりどりの生き物たちに魅了された。
「この水槽の底にいるサメを見てごらん」
「これのこと?」
「そう。よく見てごらん、胸びれを使って歩いているだろう?」
見ると、水槽の底で、一匹のサメが胸びれを交互に動かして、まるでハイハイをするかのように歩き回っていた。その様子は、不思議でもあり、同時に可愛らしくもある。
「ほんとうだ! サメって歩けるんだ!」
「このマモンツキテンジクザメはね、海のすごく浅い所に住んでいるんだ。潮が引いて陸に取り残されると、歩いて海に戻っていくんだよ」
「すごーい、歩くお魚もいるんだ!」
水族館の素晴らしさにも感激したが、この従姉もまた、幼い忍にとって神秘の宝庫のように感じられた。この時忍は結菜に対して、ほぼ信仰心に近いような、そんな憧れの心を抱いたのであった。
惜しいことに、その日の夜には帰らねばならず、忍は大泣き泣いてぐずり出した。あの憧れの従姉と別れることは、この五歳児にとって耐えがたいことであったのだ。結菜は少し申し訳なさそうな顔をしながら、
「また一緒に水族館に行こう。だからまたね」
と言って、涙と鼻水でみっともない顔をしている忍の頭を優しく撫でた。
だが、その約束は結局、果たされることはなかった。
***
うららかな、美しい思い出を胸に秘めた少年は、やがて汚濁にまみれた苛烈な世界に投げ込まれ、辛苦麻痺して心をへし折られてしまった。
小柄で色白、その上女の子のような顔立ちをしていた忍は、小学校に上がると
低学年の頃は、まだ多少からかわれる程度であったのだが、当時の学級担任がまだ若手で、事をなぁなぁで済ませようという傾向があった。気立ての穏やかな忍も、周囲のからかいを笑ってごまかすことが多かった。そのことは、完全に逆効果であったといってよい。
三年生に上がる頃になると、忍への虐めはエスカレートしていった。そうして、四年生の頃には、もう登校すること自体できなくなった。きっかけは、いじめグループの主犯格に命じられて廃墟の外階段から飛び降りた結果、足を骨折してしまったことである。
「また一緒に水族館に行こう。だからまたね」
辛いことがあった時、忍はきまって結菜と交わしたあの約束を反芻した。こんな悪人ばかりの世の中に、どうしてあのような素敵な人がいるのだろう……忍にとって結菜という人物は、濁世における希望の光であった。
結菜は高校卒業後、遠くの大学に進学してしまった。苛烈な現実に苛まれ、打ちひしがれて心身摩耗していく中にあっても、忍は結菜との再会を心待ちにしていた。しかし、その気持ちを裏切るかのように、彼女はちっとも帰って来なかった。
そんな忍が結菜と再会したのは、小学六年生に上がった年の春のことである。彼女はある日突然、忍の家を訪ねてきた。
数年ぶりに再会した結菜の様子は、まるで変っていた。杖をついて歩く彼女は死んだような虚ろな目をしていて、以前あったような
ずっと遠くにいた従姉に、一体何があったんだろう……忍が怪訝に思ったのも無理はない。
「忍、これから週三回、結菜お姉ちゃんが勉強教えてくれるから」
それを聞いた忍は、結菜の様子を訝ったことなどすっかり忘れてしまい、満面の笑みで狂喜した。あの数年来の憧れであった結菜に勉強を教わることができるのだ。どうして喜ばずにいられよう。忍が彼女に感じた違和感は、すぐに吹き飛んでしまった。
不登校になってしまった忍は、添削式の通信講座を利用しつつ自宅で学習を進めていた。とはいえ自力での学習には不安がある上に、両親は共働きで忍の学習の面倒を満足に見ることができない。塾に通う案もあったが、塾とその行き帰りで同級生に出くわすことを恐れた忍が渋ったため、この案は立ち消えとなった。
そんな中、結菜が突然、左脚に障害を抱えた状態で帰郷してきた。その時に忍の両親と伯母一家の間で何やら話し合いがあったようで、忍の両親は結菜にアルバイト代を払い、息子の学習の面倒を見てもらうことにしたのであった。
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