終章『アイカ』
終章 『アイカ』
夢だった。
目が覚めて、隣にリナがいなくて。慌てて布団を蹴飛ばして周囲を見渡すと。
異臭が鼻腔を刺激する、物置きよりも酷い有様の光景があるだけだった。
何日間脱ぎっぱなしにしていたかわからない衣類、下着。積み重なって崩れている漫画本たち。ゲームソフト。
机の上に置かれたパソコンは電源が入ったままなのか、ぶーん、と低い稼働音を放っている。
……夢、だったんだ。
あたし、居場所を見つけたと思ったのに。
ここ、誰もいないよ。
シャルロッテ。ミズキ。ヒメちゃん。ティア。みゃ子ちゃん。アキホさん。ナナにアメリア。それから、モモカねーちゃん。ギルドのみんな。シャルの家の女の子たち。
――最愛の人、リナリーすらも、いない。
心に巨大な杭で穴を
どうやって部屋に戻ったのかもあやふやで、脳がぐわんぐわんと揺れた。
涙が溢れてくる。
あたし、独りぼっちだ。
どうしようもなく死にたくなった。
死のうと思った。
あたしが最高の幸せを感じ取っていたことは、夢だったんだから。
鬼のアイカなんて、存在しなかったんだから。
虚無だけが、あたしの心を支配していた。
あたしはふらつく足取りで自室の扉を開ける。
深夜二時を過ぎた時間帯だった。
家には家族がいるけれど、寝静まっているのか物音はしない。
扉の下には、引きこもりのあたしのために、お母さんが用意してくれた食事がお盆に乗せられて置いてあった。
お腹、減ってるのかもわかんないや。
どうでもいい。早く死のう。死んだら、もしかしたらあの世界に戻れるかもしれないから。
階段を降りて、台所に立つ。何日ぶりに台所に来たのかも覚えてない。だって、ただでさえ引きこもりだったのに、鬼のあたしとして何百日と過ごした記憶があるんだから。
包丁を手に取った。
喉元に突き付けた。
これを押し込むだけで、孤独の世界から解放される。リナに会いに行けるかもしれない。
それなのに。
あたしは……できなかった。
死ぬの、怖いんだってさ。生きる価値のない世界なのに、自分を殺す勇気すらない。
あたしは手がカタカタと震え、包丁がするりと落下していって、金属が床に叩きつけられる音がした。
死にたいのに、死ねない。
どうしようもなく情けない。
あたしなんて、死んでいるのも同然なのにさ。
物音に気づいた両親が起きてくる気配を感じた。
あたしは慌てて自室に逃げ帰る。
お腹が鳴った。
あたしは死人なのに、生を渇望していて。
泣きながら、冷めたご飯を食べた。
それから、あたしはベッドに潜り込んで、布団を深く被る。世界を拒絶して、殻に閉じこもるようにして、布団の中で丸まった。
それでも寂しさが幾度となく押し寄せてくる。
眠ることもままならない。
だって、あたし。知っちゃったんだもん。
絆を、仲間を、それから、愛を。
リナはあたしを愛してくれた。あたしもリナを愛した。セックスだってあたしに与えてくれた。
でも、それが全部なかったことにされちゃってさ。
上げて、落とされるほうが何万倍も辛い。
リナのこと知らないほうがまだマシだった。
リナに会いたいよ。あたしに向かって、小悪魔めいた顔で微笑んでよ。
リナの大きな胸を、あたしにこれ見よがしに押し付けてきてよ。
リナの果実よりも甘くて、果肉よりも柔らかい唇に触れたいよ。キスしたいよ。セックスしたいよ。
孤独を紛らわせるためだったのかな。
あたしは、布団の中でスマホをいじっていた。
液晶ライト見るの、何ヶ月ぶりだろうな。本当は昨日もいじってたはずなんだけどな。
指がタップして画面に映し出されるのは、レズビアンが集まる掲示板だった。
どうせ、あたしはここでも異常者。仲間なんていやしない。また絶望するだけだ。
それでも一縷の望みに賭けたかった。
孤独で押し潰されそうだったから。
レズビアンなら、誰でもよかったのかもしれない。
掲示板のトピックをスクロールしていく。
あたしは、一つのタイトルを見て、指を止めた。
目を疑う。
『男性の話が苦手な方、レズビアンにしか興味のない方、百合談義をいたしませんか? ――トピック作成者:闇子』
無我夢中で画面をタップした。
胸が高鳴っている。
この世界にも、あたしと同じ考えの女の子がいるのかな。
あたし、諦めないでもいいのかな、って思って。一秒でも早くトピックに参加したかった。
闇子さんの最初の書き込みはこうだった。
『わたくしはレズビアンで、男性の話を出されるだけで気分が悪くなってしまいます。もしも同じような方がいらっしゃいましたら、百合サークルを一緒に作りたいです。このような考え、誰にも賛同されずに苦しい思いをしてきました。同志の方がいらっしゃいましたら、書き込みだけでもお願いします』
あたし、わかっちゃったんだ。
これ、シャルだって。
ただの機械語が映し出した文章の羅列だったんだけど、その文体からは確かにシャルロッテの息吹が感じられたんだよ。
にしても、闇子って。こっちの世界でも中二病じゃん、シャル。
あたし、笑ってた。
何ヶ月ぶりかに、心の底から笑った。布団の中で、発作が収まらなくって、おかしいくらいに笑い続けた。
ひとしきり笑い終えた後、涙を拭いながらページをスクロールする。
すると、書き込みはたくさん存在しているようだった。
その一つ一つを、まるで宝の地図でも見るかのようにじっくりと眺める。
『はじめまして。私は女子校に通う高校二年生です。私には女の子の恋人がいますが、私と彼女は闇子さんの考えに全面同意できます。絵を描いたり、文章を書いたりはできませんが、サークルとやらに興味があります。同性愛カップルでよろしければ、入れてください。 by剣道少女』
こんなの、誰だかわかるに決まってんじゃん。
ミズキだよね。ミズキの声が自動で再生されるくらいには、ミズキの文体だよね。
ミズキ、こっちの世界でもヒメちゃんと付き合ってるんだね。さすが、"リリズ・プルミエ"ナンバーワンのバカップルだよ。あたしとリナもバカップルとして双璧をなしていたんだけどなあ!
くるくると画面をスクロールする。
暫くはミズキとシャルのやり取りが続いているだけだった。
そこから新たな書き込み者を見つけると、誰だか予想するのが楽しくなってしまい、食い入るように文面を見つめる。
『あたしはレズビアンのバーで働いていて、あたし自身レズビアンです。女性専門の百合サークルと聞いて、居ても立っても居られないので参加させてください。歌唱力には自信があります。 byスモーカーのビアン』
ティアだ!
こいつ、現実でも女漁りしてんのかよっ!
みんな、なんにも変わらないんだね。
まだまだ続くトピックを穴が空くように見つめる。
気づけば外は明るくなる時刻だった。
そんな夜明けの時間帯。
あたしは、最愛の人を見つけた。
『わたしは同人活動をしていて、女子校に通う一年生です。わたしはレズビアンなのに、周りの女の子たちは彼氏の話しかしません。わたしはそのたび、学校で吐いてしまいそうになります。なので、わたしは百合同人を描くことだけが生き甲斐でした。サークル活動ができるなら、参加したいです by
莉奈。リナ……。リナリー。
リナって、莉奈っていうんだ! ってゆーか、これ、絶対本名で書き込んじゃってるよね!
しかも、なにこの
だって。同人作家さんなんだもん。リナ、あっちでも絵が上手かったからね。
そっか。リナ、同人作家してたから、あんなにすぐ絵が描けたんだね。
リナってば、レズビアン風俗のことすごい気に入ってたからなあ。題材はきっと風俗なんだろうな。
……会いたい。
ここに書き込んでいるみんなに会いたい。
莉奈に会いたい。
あたしは心に
『あたしは中学三年生のレズビアンです。セクシャルマイノリティを受け入れてもらえず、引きこもってしまいました。インターネットでも、否定されてばかりでした。でも、異性が苦手な皆さんに出会えてテンションが上がってます。グループチャットとかで会話したり、通話してみたいです。 by
送信。
あたしは、それからスマホの画面を凝視し続けた。
返信がこないか、五秒おきに更新ボタンを押した。
充電しながら掲示板を見続けた。
眠気なんて感じなかったよ。だって、リナに会えるかもしんないんだもん。
朝。通勤や通学に励む人たちが忙しなくなる時間帯に。
誰かが書き込みをした。
シャル――闇子さんだった。
闇子さんはグループチャットを作ったとのことだった。
あたしは速攻で参加した。闇子さんは驚いてた。
『掲示板、張り付いて見ていましたの?』
って、笑った絵文字をつけてチャットしてくれた。
シャルのあの、銀鈴を鳴らしたような、くすくすっとした笑いが聞こえてきた気がした。
それからお昼になる頃には、ティアがきて。ミズキとヒメちゃんもきてさ。
最後に莉奈も入ってくれたんだ!
あたしたちは何度かグループチャットして、オフ会しよう、って話が出てくるのはすぐだった。
なぜかって、あたしたちの百合談義は、瞬く間に燃え盛ったんだから!
だってあたしたち、ギルド"リリズ・プルミエ"にいたんだよ。
あたしたちは、好きなものがおなじで。嫌いなものもおなじで。同類で。同志なんだから!
サークル名は"リリズ・プルミエ"に決まった。あたしが提案したんだけど、満場一致で受け入れてもらえた。
レズビアンのための百合専門サークル"リリズ・プルミエ"のオフ会は綿密に計画を立てられた。
けれどこれはリアルの世界の鉄則、ってことで。
まずは通話を何度もしてから、"全員が信用できる女性"、であることの証明をしてから、オフ会を開こう、ってことになった。
通話をしたら驚いた。
だって。
全員の声、あっちの世界のものと遜色ないんだもん。
闇子さんはくすくす、って笑うし。大学生で、いいところのお嬢様らしい!
剣道少女さんは、はっはっは、って豪快に笑う。恋人のヒメちゃんとも、のろけ話ばっかり、相変わらずバカップルだった!
ティアはお酒と煙草が大好きの、ろくでなしっぽい女性なのに、ハスキーボイスがたまらなくセクシー。ロックバンドをしていたこともあったんだってさ!
バンドしてると女の子たくさんナンパできるよ、とか言ってた。最低だな!
それから……あたしの好きな人。莉奈。
莉奈は……向こうと一緒で可憐な声をしてたけど。どこかおどおどとしていて、なんか性格が真逆だった。可愛かった。こっちの世界でも一瞬で恋に落ちた。
あたしは、莉奈と個別で何度もチャットした。通話もお願いした。
必死になって莉奈と繋がろうと考えていた。少しはキモかったかもしれない。ううん。キモかったよ、って後で闇子さんとティアに言われた。
でもね、莉奈にはあたしの想いが通じてくれて……。今度、二人っきりで会うことになった!
舞い上がるような気分だった。
その日、部屋で大声をあげちゃって、お母さんに心配された! 引きこもりだしね!
そこで、あっ、って気づいたんだ。
あたし、この世界じゃ陰キャでコミュ障で、引きこもり。鬼のアイカも、そんなにセンスはよくなかったけどね……。
で、でも!
外に出て、莉奈とデートするんだから、お洒落しないと。せめて、まともな服と、ボサボサの髪をなんとかしないと。ってことで。
お母さんに土下座してお小遣いをねだった。
お母さんは、引きこもりのあたしが外に出てくれることが嬉しかったのか、泣きながらお金を握らせてくれた。危ない人には注意するのよ、って何度も熱心に言い聞かされて、防犯ブザーも持たされた。小学生か、って言いたくなるけど、人間の女の子のあたしには必要な対策だった。
それからネットでファッションを調べて、よさげな美容院を予約して。
莉奈とのデートの日は、あっという間に訪れた。
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