第一話『闇夜の魔人と鬼の過去』②

「シャルー、来たよ。起きてる?」


 日を跨いで、一刻ほど過ぎた深更の時間帯。

 あたしはシャルロッテの邸宅における最上階、その奥まった部屋の扉を叩いていた。

 そこは主の自室、ってことで、他の個室とは作りが違っていて、やたらと重厚な扉だ。

 

 ノックしたはいいものの、起きているかな?

 あたしは、まともなベッドで眠るのが久々だったせいか、夕方あたりから居眠りをしてしまったのだ。

 ついさっき目が覚めて、お風呂とか着替えとかしていたら、こんな時間になってしまった。ま、シャルも夜までは忙しい、って言ってたし、呼ばれていた手前、遅い時間帯だろうと訪問してみた……。


 ちなみに、シャルが用意してくれた個室には着替えとかも用意されてあって、あたしは真っ白なワイシャツと、きちんとアイロンがけされた黒のパンツを穿いていた。洗剤の匂いが懐かしくもあり、こそばゆく感じる。


「アイカさん? どうぞ、お入りになって」


 一拍置いてから、声が返ってきた。


 どくん。


 それは本能だったのだろうか。あたしは無性にドキドキとしてしまい、すぐに扉を開けることができなかった。


 だって、シャルの声は昼間に聞いていたものよりも一段階低くしたような、大人びた声音だったのだから。

 分厚い木の扉越しだっていうのに、まるで脳髄を直に揺さぶられたと感じるほどに、甘美に満ちた声だったのだ。


 危険な予感がして、めちゃめちゃ入室するのを躊躇うけれど、入っていい、って言われたのだから部屋に行くしかない。いやさ。なんの危険かは知らないけど。女のカンってやつかも!


「お、お邪魔しまーす……」


 そーっと扉を押し開けると、先には闇が広がっていた。

 シャルの邸宅は夜中だろうと、廊下には照明が灯されていて昼のように明るいんだけど。

 彼女の室内は、光の侵入を一歩ですら阻むかのように暗闇が落ちていたのだ。


 そして、真っ先に五感が捉えたのは、匂いだった。


 あたしの知らない、香り。

 全身が総毛立つような、体内が燃え上がるかのような、甘い匂い。


 女の子の匂いを全部詰め込んだのかと錯覚するみたいな。いい匂いも、汗の匂いも、その他の部分の香りも渾然一体となった刺激的な香りだった。


 一瞬でその匂いに鼻孔を支配されたあたしは、今までどんな空気を吸って生きていたのか忘却してしまいそうだ。


 だけど、匂いに恐れをなして逃げ帰らなかったのには、理由があった。


 シャルの個室には、さらなる非日常が存在していたのだから。


 あたしの真正面の奥には、とても大きなガラス窓があって。それらは目一杯開かれて、カーテンがゆらゆらと揺れている。

 差し込んでいるのは月明かりだ。月光だけが、窓辺を青白く浮かび上がらせていた。


 そして、月の光を一身に浴びて立っているのは、裸の女だった。


 あたしに背を向けているその女性は、月光に輝く銀色のストレートヘアを腰元でたなびかせていて。

 程よく肉付きのいい脚はスラリと長く、ミズキと同じくらいの長身。

 それから、まるで月の光が輪郭を象っているのか、ってくらい全身が青白く光っていて。

 あたしの生唾を飲み込む音だけが、やたらと響いて感じた。


 後ろ姿だけで、見惚れてしまう女。

 彼女が全裸だったからではない。きっと、衣類を纏っていたとしても、あたしはこれ以上に情欲を掻き立てられる女性には出会ったことがなかった。


「よくぞいらしてくれましたね、アイカさん」


 彼女は意味深な台詞を発しながら、くるりと振り向いた。


 全容が露わになる。


 彼女は、あたしに裸体を惜しげもなく晒していた。

 両の乳房は、体の回転に合わせて揺れるくらいに大きくて。

 月明かりだけしか照明がないのに、おへそまでくっきりと見えちゃって。

 下腹部にはこちらも光り輝く銀色の茂りがあって。

 

 脳内を駆け巡る血液が砂糖水になってしまったかのように、甘くて、とろけてしまいそうになって。それでいて衝撃的な裸体だった。

 どれだけの名匠が手掛けても完成しないだろう、精緻な彫像よりも芸術的な肉体を彼女は有している。


 そして、彼女の顔。

 真紅の瞳は暗闇でも、まるで太陽よりも熱くあたしを溶かすかのように情欲的な赤光を放っている。

 極めつけは。妖艶に微笑む顔に――シャルロッテの面影があった。


「しゃ、シャル……?」


「くすくすっ……。そうですわ、これが、わたくしの本来の姿。"闇夜の魔人"シャルロッテです。昼間は失礼な姿でお会いして、ごめんなさいね」


 声も、やっぱりシャルにそっくりだ。

 "闇夜の魔人"と名乗った女は、全裸のまま、あたしに一歩近づく。


 しなやかな足取りは、足音を絨毯に吸わせて無音だったけれど。まるで水面を歩くかのようなステップも魅惑的で。

 彼女が立てるどんな些末な音も喜んでいるかのようで、シャルロッテの奏でる雑音は名盤よりも美しい調となっていた。


 もう一歩、あたしに寄ってくるシャルロッテ。


 あたしは、このまま大人の階段を昇ってしまうのかな……。

 そんな淫靡的思考に陥ってしまいそうになって……。


「ふ、服着ろよ、馬鹿シャル!」


 あたしは咄嗟に、目を手で覆ってしまっていた。

 だって、余りにも思考の許容量オーバーだったんだから。

 若干十五歳のあたし・アイカにとって、免疫のなさすぎる展開だったために、防衛本能が働いたのか、シャルを拒否してしまっていたのだ。


 も、もったいないけど。

 でも、網膜にはシャルの裸が焼き付いていて、まるでカメラのシャッターを切ったみたいにして映像がくっきりと残っている。


 一生、忘れられないだろうな、シャルの裸。

 でも、だからといって、凝視し続けられるほどあたしの肝は据わっていなかった。


「あらあら、大声を出してはいけませんわ、アイカさん。みなさんが起きてしまいますので」


「えっ」


 言われて気づく。

 あたしの右前方に広がるベッドには、女の子がたくさん眠っていることに。

 

 十人ほどの女性が横になれるくらい大きな寝具には、シーツを被ってはいるけれど、どう見ても裸の子たちばかりが眠りこけている。

 な、何をしてたか、って一目瞭然。


 それに、昼間シャルが言ってた言葉を思い出しちゃった。

 確か、シャルが本来の姿に戻るのは、せ、性交をするときだけだ、って……。

 

 あたしはまたしても、顔に血が上ってくるのを感じた。


「ろ、廊下で待ってる! 服着て出てこいよ、えろシャル!」


「くすくす……。お気に召しませんでしたか、わたくしのお姿?」


 逆だよ、馬鹿!

 あたしは、どうにかこうにか官能の世界から逃げ出して、廊下で一呼吸を入れた。


 くそっ、心臓が鳴り止まない……。

 にしても、強がって、惜しいことしちゃったかな……。

 も、もしかしたら、大人シャルに、大人の世界の手ほどきをしてもらえたかも、なのに。


 あの姿のシャル、綺麗だったし……。ありだったかも、なんて後悔を今更してしまう。


 い、いや!

 あたしは、ちゃんと恋愛したいし! 一夜だけの関係とか、嫌だかんね!

 

 淫蕩な妄想にしか耽けられないのは、シャルのせいだ……。

 どうしてくれるんだよ、馬鹿……。

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