序章『リリズ・プルミエ』②

 ……随分と長時間、うたた寝をしてしまったらしい。

 あたしはあくびをかきながら辺りを見渡した。


 舗装されていない田舎道の街道から脇にそれた、林の奥。湖畔の涼し気な空気に誘われて、一休みしていたところだったっけ。


 にしても、不思議な感覚だ。

 

 ついさっきまで夢で見ていた引きこもりの女の子は、あたしの心理を表現したものだったのかな?

 ううん。そんな感じでもない。

 だって、あの子が十四年もの間受け続けてきた苦しみは、しっかりとあたしの胸の中に存在している。


 じゃあ、今までのあたしが幻想だったのだろうか?


 湖のほとりにて。透き通るような青の湖面を覗くと、そこには見飽きた顔の少女が浮かび上がる。


 真っ直ぐに切り揃えられた黒の前髪。肩口付近で揺れるボブに、愛想の悪い顔。

 そして、おでこの両端からは、慎ましげに伸びる小さな角があった。


 夢で見たアイカも、今ここにいるアイカ――あたしも、角を除けば細胞一つまでもが一致するような瓜二つの相貌だ。

 憎らしいことに、胸の貧相さまでそっくり。


 薄汚れた白のシャツと、黒の柔らかい素材のパンツは、夢の中のアイカが引きこもっていた部屋着と見間違うほどだ。


 さらに言うならば。趣味嗜好、生き様、何もかもが一緒で。あの別世界のアイカと鬼であるあたし・アイカは同一人物なんだな、ってなんとなく思うことができた。

 ただの夢だったのかもしれないけれど。そうと切り捨てることはできなかった。


 ここにはスマホもオンラインゲームもない。だけどあたしは、それらの文化をまるで体験したかのように知悉しているのだから。


 だけど――。

 てんで異なる世界線だというのにもかかわらず、変わらないものはあるもので――。


「そこのお姉ちゃんたち、二人でどこに行くの? 可愛いね、一緒に遊ばない?」


 また、これだ。


 この手の輩は、どこの世界でも、どの時代でも、いかなる場所だろうが、まるでゴキブリのように繁殖しているらしく、決していなくならない。


 女子中学生のアイカが絶望してしまった直接の原因でもある。

 女の子にとって、自分よりも体格に優れたこの生物は恐怖の対象でしかない。なぜなら筋力でもそうだけど、社会的立場でもこいつらからは下に見られることばかりだったのだから。


 けど。

 鬼のアイカは――あたしは、彼らを断罪できる力を持っていた。


 考えるよりも早く体が動く。

 あたしは木立の間を縫うように駆け抜けて、街道に躍り出た。


 人通りは少ないけれど、見渡しの良い田舎道。道幅はかなり広く、前方は地平線が見えそうなほど平坦で、建造物一つ見当たらないのどかな景色が広がっていた。


 そして道の中央には。

 二人の女の子と、彼女たちを通せんぼするようにして、二人の汚らしい生物が進路を阻んでいた。


 あたしは勢いを緩めずに疾駆して、女の子たちを庇うようにして間に割り込み、土煙をあげて急停止する。


「ん? なんだ、このガキ……」


 どこまでも、神経を逆撫でしてくる。

 自分より弱そうな相手と見るや、いくらでも態度を大にして接してくるんだから。


 あたしは頭の血管が破裂しそうなほどに血を昇らせ、反射的に手が出ていた。


 あたしの突き出した拳は、眼前にいた人間の形をした愚かな生物の腹にめり込み、内臓をぐにゃりと潰す感触を伝えてくる。そして、そいつは大砲でも受けたかのように、数メートルほども吹き飛んでいった。


 顔面を殴らなかったのは、殺してしまうことを危惧したわけじゃない。身の毛がよだちそうになる奴らの体液が、拳につくのを忌避したからだ。


 驚きに硬直し、立ち尽くしているもう一人の男を睨みあげる。


「お、鬼だっ! うわぁあああああ!」


 するとそいつは、一目散に駆け出し、倒れ伏している男を担ぎ上げて、あっという間に姿を消してしまう。


 相手が自分より強いと見るや、恐れをなして逃げるのだから救いようがない。

 くだらなすぎて、追いかけるのもどうでもよくなった。


 あたしは、ふぅっ、て小さく吐息をついてから、背後の人影を思い出す。


 ――無意識に肩が萎縮する。だって。あたし、女の子たちにも怖がられちゃうから。

 あたしは鬼だから。レズビアンだから。レズビアンの中でもことさら異常で、異性のことを殴り飛ばしても罪悪感を覚えないほどに忌み嫌っているから。

 あたしは女の子と一緒にいることも許されないんだ。急いでここから離れないと。


「いやぁ、助かりましたよ。しかも、すごい爽快でしたね。ありがとうございます」


 しかし、頭上からふりかかってきた言葉は、まるで日向ぼっこでもしているかのように呑気なものだった。


 あたしが振り向くと。


 長身の少女が朗らかに微笑んでいる。


 少し藍がかった黒色の髪はしっとりと長く、後ろで纏められている。

 白と水色のトップスはノースリーブで生地が薄く、豊満な胸がその柔らかさを主張するようにたゆたっていた。

 そして下半身は黒のスラックスに包まれて、おみ足を覗くことはできない。


 背丈は高く、あたしよりも頭一つ分は身長が高かった。

 色香が周囲に鱗粉のように漂っていそうな美女だ。おぞましい生き物に声をかけられてしまうのも、無理はないというほどに。


 そして彼女の後ろには、その背中に隠れるようにして怯えている女の子。

 こちらは反面、おどおどとしていて、あどけなさの残った顔。体躯も小柄で、華奢で、抱きしめたら骨が折れてしまいそう。身長は黒髪の美女の胸元までしかない。

 ふわふわっとした春風のようなブロンドのセミロングは、これでもかってくらいガーリーで、少女を絵に描いたような女の子だった。


「あんたは、あたしが怖くないの? いきなり人をブン殴るような鬼なのに」


「とんでもない。君が助けてくれたお陰で……人を殺めずにすみましたから」


 黒髪の女は、線のように目を細めて――自身の身長ほどもありそうな刀を指差す。

 どうやら、この女の子は自衛の手段はあったらしい。

 なら、完全におせっかいだったね。


「殺めずに、って……。あたしよりも物騒じゃん、あんた。でも、気をつけなよ? あんたたち可愛いからさ、あんな輩、いくらでも湧いて出てくるし」


「そうですね、あの手の輩を見ていると叩き切ったくなりますので。罪を重ねないように気をつけねば……はっはっはっ」


 豪快に笑う彼女を見上げて、ちょっとだけ惹かれた。

 感性があたしと似てるから。

 

 それに、この二人、もしかして付き合ってるのかな、って思えるくらいに距離感が近かった。

 夢で見たアイカがインターネットを通してよく閲覧していた、百合カップル、の画像に酷似している空気を纏っている。


「あんたたちは、どこ向かってるの? この辺はちょっと知ってるし、あたしでよければ案内するよ。あたしのような鬼がいたら、誰も声なんてかけてこないし」


「ふむ、それはありがたい申し出ですが。私たちは訳ありですので。鬼さんにご迷惑はかけられませんよ」


 黒髪の美女は丁寧に受け答えすると、傍らのブロンド少女と頷き合う。そして手を握り合って、街道を進み始めた。

 彼女たちはもはや、あたしのことなんて一顧だにしないで。二人だけの世界に沈み込むようにして、歩んでいった。


 あたしは呆然と、彼女たちの後ろ背を眺めて――。


「ふふっ、これはとんだ拾い物かもしれませんわね。お二方、お待ちなさって」


 銀鈴を鳴らしたような、澄み切った声が響き渡る。


 まるで、この広々とした街道全域に届くかのような、雑音すらもかき消す美しい声音だった。


 あたしと、二人組みの女は、一斉に声の出処へ顔を向ける。


 道の脇、あたしが寝ていた湖の方角。

 木立の間に、少女が立っていたのだ。


 小ぢんまりとして、日傘を差して、黒のワンピースドレスを着込んだ、人形のような子。歳はどれだけ高く見積もっても十歳ほどだろう。

 銀の髪はロングストレートで、頭にはミニハットをセットしている。


 いつの間に、そこにいたのか。

 銀髪の少女は、凄まじいまでの存在感を発していた。まるで彼女の周囲にある空間が歪んで見えるかのような、腰が引けそうになるほどの威圧。とてもじゃないけれど、幼い少女が放っていい空気ではない。

 彼女の眼光――赤紅の瞳に吸い込まれるように、視線が釘付けだった。


「なにか御用ですか、お嬢さん」


 先に進もうとしていた黒髪の美女が、ようようと声をかけた。

 たいした胆力だ。

 あたしは銀髪の子に魅入ってしまって、喉を震わせることもできないというのに。


「ふふっ。あなた方は東洋の国からおいでなさいましたね? ミズキさんと、ヒメノさんで、間違いはありませんこと?」


「……ふむ、そういうことか」


 黒髪の美女は刀の柄に手をかけて、今にも抜刀しそうに身構えた。

 あたしは剣呑な雰囲気を受けて我に返る。しかし、対峙しているのは両方とも女の子。

 どっち側につけばいいのか、判断できない。


「ああ、誤解なさらないでください。わたくしは、ミズキさんたちのお力になりたいと思いまして……。噂をお聞きして、ここで待ちぼうけておりましたの」


「私たちの力? すまないけれど、そう簡単に人を信じることができない状況なのでね。君に構っている暇はないかな」


 話がまったく見えてこない。

 ひとまず切り合いにはならないようなので、あたしはポケットに両手を突っ込んで成り行きを見守ることにした。

 銀髪の子が言うには、あたしもその場にいて欲しいと願うような含みがあったから。


「そうですわね……。では、どうして、わたくしがあなた方を探していたかお話しましょう」


 黒髪の美女――ミズキ、って呼ばれてたかな。

 ミズキはヒメノって子を庇うように後ろへ追いやりながらも、体の力を抜いていた。話は聞くつもりのようだ。


「わたくしは――女性だけの国を作る野望がありますの」


「ふむ。それは突拍子もないことだね」


 ミズキは軽く流したが……あたしには衝撃が生まれる。

 こんな十歳ほどの少女が、あたしの心を揺り動かすほどの野望を抱いているなんて。

 あたしは次にこの子がどんな発言をするのか興味深くなり、耳を傾けていた。


「その一歩目として、わたくしは現在、ギルドの作成から始めようと思っているのです。女性だけのギルド。創設のために、腕の立つ女の子を探していたのですわ」


 ギルド……。

 夢のあたしが、オンラインゲームの中ですらも、成し遂げられなかった希望。

 胸が疼く。

 この孤独な世界であたしは、同じ野望を持つ女の子を見つけられたというのだろうか?


「なるほど。素晴らしいアイデアだね。私も君の考えには賛同するよ。……だけど、君が私たちを知っている、ってことは、私たちの事情もちゃんと知っているんだろう?」


 ミズキは真っ直ぐに銀髪の子を見つめている。

 どっかりと仁王立ちするミズキは、さながら大木を思い起こさせるかのような一本心の通った佇まいだ。


「もちろんですわ。東洋の国――そのお姫様と駆け落ちをしてしまったミズキさん」


「よくご存知だ。ならば、私を匿うということは、東の国の追手と事を構えることにもなるだろう。君のような子どもには、ちょっと無謀なことじゃないかな」


 ミズキ、精神的に余裕がありそうな物言いをしているのに、国に追いかけられているほどの重大なことをしでかしていたのか。

 でも。お姫様と駆け落ちしちゃった女の子カップルって、なんていうか。尊い、ってやつだよね。

 あたしも、ミズキたちを守ってあげたくなってきた。


 銀髪の子は、それのどこにおかしな部分があったのか、くすくすっと無邪気に笑い出す。


「ふふ、わたくしを見た目だけで判断するのなら、そうでしょうね。……わたくしの名はシャルロッテ。これでも、千年を生きる吸血鬼なのですよ?」


「千年……。それは随分と人生の先輩だ。失礼な発言は詫びよう」


 あたしは銀髪の少女――シャルロッテの言っていることがにわかに信じ難い。

 謎の存在感はなるほど、千年を生きた吸血鬼ならば出せるものなのかもしれないけど。

 だからといって、十歳ぽっちにしか見えない女の子が、黒歴史を披露しているようにしか見えないのだ。


「簡単には信じてもらえないことでしょうが。よければ、わたくしのギルド予定地に来ていただけませんか? お茶くらいはお出しできますのよ。そこで、ゆっくりと会合をしませんこと?」


「しかしだな……。追手につけられているかもしれないし」


「人気の少ない場所ですので、後をつけられていたら、すぐにわかりますわ。それに、お連れのヒメノさんには休息が必要でしょう。……それと、そちらの鬼さんがいらっしゃれば、ボディーガードとしても頼りになることでしょうしね」


 ふと、ようやくあたしに話が振られた。

 突然のことにどきっとしたあたしは、ついつい頷いてしまう。

 まあ、あたしはシャルロッテの思想には大賛成なので、一も二もなくついていってしまうだろうけど。


「あたしも……。女の子だけのギルド、作ってみたいよ。ミズキさん、でいいんだよね? もしもこの子が嘘をついていたら、あたしがミズキさんたちを守るから。聞くだけでも行ってみない?」


 あたしの提案に、ミズキは艷やかな黒の前髪に触れ、思案する。

 そして、傍らのヒメノを見やり……彼女の疲労を見て取ったのか、観念したように頷く。


「姫も休ませてあげないとだからね。シャルロッテさんのギルドとやらに同行するとしよう。だがくれぐれも、私たちを匿うこと、後悔はしないように」


「素敵な女性のカップルですもの、全力で歓迎いたしますわよ。それでは、わたくしのギルドに向かいましょうか。……えと、鬼さんのお名前は?」


「あたしはアイカ。よろしくね」


 シャルロッテは満足そうに顎を引いて、その小さな両足で街道を進み始めた。


 この運命的な出会いは、あたしの人生を変えてくれるのだろうか。

 夢で見たもう一人のあたしが、成し遂げられなかった女の子だけのギルド。


 あたしたちはシャルロッテの案内のもと、一つの建物へ誘われたのだった。

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