第166話 私を変えてくれた人3
166話 私を変えてくれた人3
一言で彼を表すと、普通だった。
特別容姿が良いわけでもなく、かといって悪いわけでもなく。髪も奇抜な点は無くて、まさに普通といった感じ。
ただ一点特徴を挙げるとするなら……優しい目をしていた。
「え、ぁっ……」
「あの、よかったらこれ。まだ開けてませんから!」
そう言って差し出されたのは、ペットボトルに入った市販品の水。
すぐに断ってトイレに走ろうかと思ったけれど、この部屋から出てしまうともう二度と戻れないと察していた私は踏みとどまって。素直に、好意に甘えることにした。
コクッ、コクッ、と水が喉を通るたび、少しずつ身体の震えが止まっていくのを感じる。その感触が、なんだか少し心地よくて。気づけばペットボトルの半分ほどまで、一気に飲み切ってしまった。
「……すみ、ません」
「いいんですよ、気にしないでください。少し顔色が良くなったみたいで安心しました」
そう言うと、彼はさっきまで見ていた単語集を閉じる。
目を合わせると、改めて穏やかというか。どこか安心する、そんな目だ。
こうして男の子と目を合わせて喋るのはいつぶりだろう。お父さんを除けば、もしかしたら数年ぶりかもしれない。店員さんなんかと事務的なやりとりをすることはあっても何故か目を合わせられなかったし。
男の子は苦手だ。自分より力が強くて、声も大きくて。そうやって萎縮していくうちに、気づけば女子校に入学していて。男の子が周りにいるだけで少し怖かったのに。
何故か今は、心強く感じる。受験という点で見れば仲間などではなく敵でしかない。初対面の、この人を。きっとそれだけ私の心は緊張で限界に達していたんだろう。
「あ、お金! お金払います! そ、それとも買ってきたほうがいいですかね!? あなたのお水、貰っちゃって……っ!!」
「き、気にしなくて大丈夫ですって! 本当、大丈夫ですから!!」
いやいや、いやいやいや、と。
お互いに遠慮を繰り返す問答を続けて。結局私は彼の好意にまた、甘えてしまった。
(なんでこの人は、こんなに優しくしてくれるんだろう……?)
「怖いですよね、受験。俺も、さっきから心臓バクンバクン言ってます」
「本当ですか? 私には、そんな風に見えないですけど……」
彼は私なんかと違って、落ち着いていた。
顔色もいいし、ちゃんと直前まで勉強してて。それに比べて、私は……
「俺も多分、あなたと一緒です。一緒に受ける友達いなくて、一人で受けることになっちゃって。心細かったんですよ」
「へ? そ、そうなんですか?」
「はい。だから水を渡したのも、誰かと話したかったからというか。だから、その! マジで気にしなくていいですからね!」
「……」
ああ、そうか。
この人は今、気を遣ってくれてるんだ。
私がこのことに負い目を感じてしまわないように。なんとか理由を考えて、水を渡した理由を作ってくれている。
優しい、嘘だ。
「ふふっ、あははっ。もう。動揺してるの丸わかりですよ? 隠すなら隠すで、ちゃんとやり切ってくださいよ」
「うぇっ!? そ、そんなにですか!? すみません、こういうかっこつけとか、したことなくて……」
簡単にボロを出すと、彼はあたふたと慌てながら、その様子を見て笑う私を見て。同じように、笑みをこぼす。
どことなく幼さの残る笑い方。でも、さっきまでみたいに変に格好つけるよりよっぽど自然で、印象がいい。
優しい目に似合った、優しい笑みだ。
「……って、すみません。いつまでも話してるわけにいかないですよね! あなたも勉強があるのに!!」
「す、すみませんはこっちの言うことですよ。私は充分、元気付けて貰いました! そ、その……お互い、頑張りましょうね!!」
「です、ね。絶対合格しましょう!!」
むんっ、と。二人でお互いを元気づけて。数分後に来たるテストに備えて、参考書に目を落とす。
心はびっくりするくらい澄んでいた。さっきまでの緊張が嘘かのように、身体が軽い。
「では、これより────」
そこから先は、本当にあっという間だった。
休憩時間を挟まずの二教科受験。経済学部志望の私は現代文と英語という、得意な二教科で全力を尽くす。
────そして彼とは、それっきりだった。
お互い名前すら知らない、たった一度会話しただけの、そんな相手。
でも。それでも、私は……
(また、会えたらいいな……)
その時はまだ、感情の名に気づいてはいなかったけれど。
一人、静かに。人生で初めての恋心を抱いていたのである。
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