マッサーの目

 うつ伏せになったソラの背中を見ながら、真崎はその手の平をゆっくりと当て、ゆっくりとさすった。

 大好きだったソラの背中を見ながら、真崎の目から涙が溢れた。

 痩せ細った背中。三本の大きな手術の跡。柔らかく躍動感のあった筋肉は跡形も無くなっている。


 ソラはうつ伏せになったまま「真崎さん、泣いてるでしょ?」と言った。

「泣いてなんかいない。じっくり見てるだけだぁ。

 ちょっとこのまま脚も動かすから痛かったら言ってな」

 そう言って真崎はソラの背中から目を離す事なく、ゆっくりと脚を動かしていった。履いているスウェット上から脚の感触もしっかりと確かめていた。

「いいよ。今日はこれ位にしておこう」

 真崎がそう言ったのでソラはちょっとがっかりした。

「え? もういいの? もっとじっくり診てくれると思ったのに」

「ああ。上着て。ちょっと話そう。楽な姿勢で寝たままでいいから」

 そう言ってソラのTシャツとトレーナーを渡した。


「隠さないでオレの感じた事をそのまま話すよ。

 泣いちゃったよ。ソラの背中見て、悲しかったし悔しかった。オレが大好きだった背中がこんな風になっちゃって。筋肉根こそぎ無くなっちゃったなぁ。

 今から話す事は科学的な根拠とか理論とか無い物で、オレの感覚だけだから、そのつもりで聞いてほしい。ダイチや石山先生の意見と合わせて考えないといけない事だけど、まずはソラの感覚を確かめたいんだ」


 ソラが体勢を変えて起きあがろうとしたので真崎が「寝たままでいいからぁ」と言って続けた。


「年明けからナショナルパークでリハビリとトレーニングをみっちりやるって話、オレは抵抗を感じてるんだ。

 一般的にとても理にかなっているいい話だと思うけど、ソラの場合はちょっとなぁ。

 ミヤビが出来て、ソラの身体を見始めた時からの事を思い返して、ずっと色々考えていたんだぁ。


 オレはこれまで色んな選手を見てきたけど、初めて見た時からソラの背中には他の選手には無い物を感じてた。それからずっと、ソラの背中は世界一の躍動感を持っていて、ここがソラの最大の武器だと思っていたんだぁ。

 ソラの背中の筋肉は小さな筋肉一つ一つが細分化されていて細かくよく動く。肩甲骨は肋骨の上でよく滑り、くっきりと浮かび上がる。背骨も一つ一つが波打つように連動して動く。

 そのしなやかな動きがパワーの源になっている。


 ツールで山岳王獲った時、最後の週に違和感が出て、あそこが始まりだったなぁ。オレはいつもの張りとは少し違う嫌な物を感じて、慎重になっていたし、ツール後も慎重に進めていった。あの時は、自転車に全く乗れなかった期間は大して長くなかった。最初に石山先生に手術を受けた後も含めてだ。深層筋はしっかり残っていたし、あの時は自転車以外の体幹トレーニングが効いて、それで背中の痛みを克服出来たんだと思う。

 けど、あの時もオレは自転車に乗る事以外で付けた筋肉がちょっと嫌いだったなぁ。それでも軸を作る為には仕方ないって思っていたし、根本にあった自転車でつけた筋肉が残っていたから、さほど問題じゃなかった。


 今はどうだ? 根本にあった筋肉も無くなっている。ゼロから付けていく筋肉を筋トレで付けていったら、ソラの戦いの武器が損なわれてしまうような気がしてならないんだぁ。

 高いレベルで戦う事を考えなければ、筋トレで土台作りを勧める。

 ソラ以外の選手ならそれを勧める。

 でもソラに限っては‥‥‥

 スポーツをする為の基本となる身体を作らずに自転車に乗るのは危険かもしれない。でもバイクトレーニングといっても負荷はかけない。極短い時間のサイクリングで良いから、もう少しエルゴメーターで安定して漕げるようになったら、スペインに戻って、出来るだけ早くバイクトレーニングを開始した方が良いんじゃないかなぁと思うんだ。

 たぶん時間はかかるだろうなぁ。

 上手く漕げない状態で、自転車で筋肉を付けていく事が可能か、ソラの身体がどう反応していくかもわからない。もしも、身体が動きを受け入れて、喜びの反応が見られたら、ソラの身体はどんどん改善されると思うんだぁ。ソラの身体はそういう身体だ。

 上手く言えないけど、言ってる事がわかるかな?」


 ソラは真剣に目をずっと真崎に向けていた。

「ありがとうございます。オレはその考えに惹かれます。惹かれる方に挑戦してみて、ダメだったらまたやり直せばいい。やり直せなくなっても、それなら諦めもつく。ダイチさんに話して、石山先生に話しましょう。今すぐに」


 真崎が呆れ顔で「もっと時間をかけて考えろよぉ」と言うと、ソラは「考える余地なんてないです」と言った。

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