十六、真赤の世界。二つの歌

 あた一面いちめんが、真赤まあかに染まっている世界。真赤まあかほのおが、ところどころにあり、赤の畳は、かぎりなく広がっている。無数むすうの鯉たちが泳いでいる。外の青一色あおいっしょくの世界とははんして、ここは赤一色あかいっしょく。そんな真赤な世界、『広敷ひろしき』に、ユウはやってきた。この世の何よりも、大好きな存在。恋人よりも、もっともっと深く大きな存在。何にも変えがたい、かけがえのない存在。海人うみとに会うために。

 しかし、本当に、ここに海人うみとがいるのだろうか。可能性かのうせいはあるといっても、根拠こんきょというもの全然ぜんぜんない。祐丹姫ゆうたんひは、ここにいるであろうと言っていたが、それもたしかなものではない。それでも、命がけでここまで来たのだから、簡単かんたん放棄ほうきするわけにはいかない。不確ふたしかな可能性かのうせいたよりに、ユウは、広敷ひろしきの中を歩いた。むらがる、無数むすうの鯉たちを、右手でける。ユウが楽々と歩くことができるところを、鯉たちが泳いでいるのが不思議ふしぎだ。そんなことを気にめることもなく、ユウは、海人うみとさがした。

「ウミちゃーん」「ウミちゃーん」

 ユウは小さくつぶやくように、彼をの名前を呼んだ。もし、海人うみとが本当に、ここにいるのだとしたら、彼も鯉になっていると思う。この、無数むすうの鯉の中から、彼を見つけだすのか。到底とうていできるわけがない。そもそも、いるかどうかはわからないけれど。でも、何か、自分がここにいることを、知らせるような、目印めじるしになるものとかがあれば、彼の方から来てもらえるだろうか。でも、どうだろう……、何がある?

 ずっと考えを巡らせるばかりで、焦ったくなったユウは、考える間もなく、息をたっぷり吸って、

「ウミちゃーーーーん!」

 前のめりになって、大きくさけんだ。

「ウミちゃん、どこかにいるの? いたら返事へんじしてよ!」

 ユウは、声を張り上げながら、どこかにいると信じている、海人うみとに訴えかけた。

「ずっとずっと、探していたんだよ。会いたくて、会いたくて、仕方しかたがなかった」

 あの可愛かわい笑顔を。天使てんしのように可愛かわいい、無邪気むじゃきで純粋なあの笑顔。小麦色こむぎいろの元気な笑顔を。もう一度、じゃない。もうずっと、私の前に見せてよ。会いたい。会いたいんだよ。世界で一番、大好きな人。かけがえのない人。

「ウミちゃん!」「ウミちゃん!」「ウミちゃん……」

 ユウの視界しかいをさえぎる、無数むすうの鯉たちを、け、き分け、けるも、全然ぜんぜんキリがない。

 やっぱり、いないんだ。ここには。じゃあ、どこにいるのかもわからない。ユウは止まった。れているのどきづついた、右腕みぎうで。その右手で、黄色い菊柄きくがらおびを、ぎゅっとつかんだ。

やぶれたこい

 まさか。まさかそんな……。そんなことは、ないだろう。

やぶれた愛情あいじょう』だろうか。どっちにしろいやだよ。二人の、深くて大きな関係は、やぶられたもの。なんて。……もう、すでにやぶられてしまったもの。

 二人が初めて対面たいめんして、生まれた一枚の画用紙がようし。そこを水彩すいさいの絵の具で一緒にっていった。一面をえたら、さらにかさねた。完璧かんぺきな青を目指めざして。四年もかけて、かさねていく。青に青にっていく。途中とちゅうで、青の絵の具に、どろじって、にぶい色へと変化してしまった。それでも、どろじった青で、画用紙がようしに青を重ねていく。画用紙がようしの色は、もはや青色ではなく、くさったような、緑っぽい色へと変化してしまったけれど。それでも、二人でっているのは楽しくて、くさった緑っぽい色も、悪いようには思えない。むしろ、愛着あいちゃくいてくる。二人で一緒にったものだから。それが、四年がたった、真夏まなつのある日。画用紙がようしは、やぶられた。かによって、否応いやおうなしに、問答無用もんどうむようで、真っ二つに、かれた。

 それは、まぎれもない事実じじつのようだ。心臓しんぞうが、つよにぎつぶされるように、痛い。左手を、むねの辺りにえた。悲しいよ。悔しいよ。ぐっと歯を食いしばる。じゃあ、自分は何なんだ。なんで、こんなところにいるのだろうか。

 ふと、なつかしい歌を、思い出した。宮中でも思い出して歌っていたが、ユウと海人うみとの二人で、海に行ったときなどに歌っていた。学校で習った歌だ。学級の皆で歌った歌。


『空も 港も 夜ははれて

 月に 数ます 船のかげ

 端艇はしけの かよい にぎやかに

 せくる なみも 黄金こがねなり』


 ユウは、おのずと歌を口ずさんでいた。二人で海岸沿かいがんぞいを歩きながら、この歌を元気に歌っている情景じょうけいが、浮かんできた。


「林 なしたる ほばしらに

 花と 見まごう 船旗章ふなじるし

 積荷つみにの 歌の にぎわいて 

 港は いつも 春なれや」

 

 今や、なつかしい情景じょうけいとなってしまった、あの楽しい日々。また、海人と一緒に、あの場所で、歌いたい。

 そして、もう一つの歌。今度は、短歌の方。


浜辺はまべより かば 海辺うみべより むかへもぬか 海人アマ釣舟つりぶね


 大伴家持おおとものやかもちの歌だ。だけれども、海人うみとはこの歌を「わしの歌じゃ」と言った。ユウは、否定ひていするも、海人うみとは、かたくなになって、ユウの否定ひていした。ユウはおかしくなって、クスクスと笑った。

 それを思い出したユウは、口もとをにっこりとさせた。

浜辺はまべより かば 海辺うみべより むかへもぬか 海人ウミト釣舟つりぶね!」 

 ユウは大声で、はっきりと、この歌を口にした。“海人”のところを“ウミト”と言ったのは、ワザとだ。それを言い出したのは、もちろん海人うみとだ。この歌がっていた歌集かしゅうの本にも、“海人”の上に“ウミト”と先のとがった鉛筆えんぴつで書いた。そのときのイタズラな笑顔は、ユウの心をおおいにいやした。

 いやしの思い出からかえったユウは、ハッとした。鯉たちの動きが変わっている。さっきまで、右往左往うおうさおうと泳いでいたのが、今では、一方方向いっぽうほうこうに泳いでいる。まるで、何かから逃げるように。

 ユウが後ろを向くと、そこには、一匹の鯉がいた。他の鯉とは、どこか様子がちがう。その背中には、青色の斑点はんてんがあった。この鯉を見て、ユウは大きく目を開いた。

 この鯉。もしかして。

 ユウは鯉に近いた。鯉もユウに近づいた。すると、鯉は人間になった。それを見た瞬間しゅんかん、ユウは走り出した。

「ウミちゃん!」

「ユウ!」

 青い斑点はんてんの鯉は、なんと海人うみとだった。ユウは、海人うみとの胸に抱きついて、いっぱいいっぱいに泣いた。

「やっぱ、その歌はわしの歌じゃの」

 海人うみとは言った。いつもの海人うみとだと、ユウは安心した。もちろん、本当はちがうのだけれど。

 

 

 

 

 

 

 

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