十五、頑固たる意志

 しんみりとした、くらやみ一生いっしょうけることのない、まんまるの月だけが、宮殿きゅうでんをやさしくらしている。月の光は、主様のいる、書斎しょさいにも、んでいた。

 かすかな月の光がむだけの、薄暗うすぐらい部屋で、辰巳たつみは一人、ものをしていた。小さな明かりを手元てもといて。

「失礼します」

 すずころがしたような、かよわき声が聞こえた。戸が開く。辰巳たつみふでいて、後ろをかえる。

「おや、柑菊姫かんぎくひ。どうしたの?」

 いつもとはちがって、真剣しんけん面持おももち。

「すみません、一人でご作業中に。ちょっと話したいことがあります」

「いいよ。こっちにおいで」

 ユウをやさしくつつむような、あたたかな声。立派りっぱに大きな手で、彼女をまねいた。

 ああ、やはり、弱くなってしまう。彼をいている、あまくてやさしい雰囲気ふんいきが、ユウの心をせようとしている。まるで、ミツバチをあまにおいや色味いろみさそう、お花みたいだ。それも、ウツボカズラとか言った、虫を消化しょうかする花。みつのような、あまにおいで虫をせて、一度いちどつかんだら、二度にどはなすことはない。ぎゅっとつかんで、はなすこともなしに、跡形あとかたもなくかしてしまう……。かされてしまうのだ。

 負けない。負けない。私には、ほかなによりも、大好きな人がいるのだ。ユウは、ふうといきいた。

「私は、この宮中を出ようと思います。私には、もともと大好きな恋人がいるんです。彼に会いたくて会いたくて、仕方しかたがないんです。今、動かないと、一生ダメなようなきがして。だから、すぐにここをけます」

「ダメだよ」

 辰巳たつみは、即座そくざに言った。ユウの想像通りである。彼は立ち上がり、ユウの前にきて、かがむと、ユウのあごに手をえる。

「だって君は、僕が見惚みとれた、うつくしき姫君ひめぎみなんだから。そう簡単かんたんに、手放てばなしたくはない。それに、君とその男との恋というのは、すでにやぶれたものなんだし」

 やぶれたもの!? どういうこと? 私と海人うみとの恋はやぶれた……。そんなわけがない! それに、彼との関係は、恋というものではない。家族のような、深くて大きい、愛情あいじょうだ。

「私と彼とは、恋とかいう、ものではなないです」

「でも、どっちみち、君と彼との関係は終わっているの」

「……どういうこと?」

 彼のいう、言葉の意味が、よく分からない。破れたもの。終わったもの。

「うーん、くわしくは言えないんだけどね。君の着物にもあるでしょ? 黄色のきく。『破れた恋』だ。でも大丈夫。僕が、その彼以上に、君のことを愛すから」

 この黄色の菊には、そんな意味が込められていたのか。『柑菊姫かんぎくひ』という名前にも、同じような意味があるのだろう。悲しくなってきた。こんなにも『破れた恋』を強調きょうちょうされるだなんて」

 あごをえていた手で、今度こんどは頭をポンポンとした。

大丈夫だいじょうぶだよ。大丈夫だいじょうぶ。ここでは、皆がやさしくて、ごはん豪華ごうか美味おいしいし。ずっと永久えいきゅうに、裕福ゆうふくしあわせな生活をおくることができる。まさにゆめのような毎日まいにちさ」

 裕福ゆうふく毎日まいにち。それは、何不自由なにふじゆうなくて、幸せな毎日。これまでの、宮中での生活が、まさにそうだろう。何も不自由なこともないし、らくだし、たのしいし。

 でも、そんな生活にも、合う人と、合わない人がいるらしい。ユウには、合わなかった。不自由ではないことが、必ずしも幸せなことだとは限らないのだと、実感した。今まで、ひそかにあこがれていた生活だったけれど、何だか、きている心地ここちがしなかった。まるで、なぎだ。この世界には、風というものがないように、この宮中での暮らしには、風というものがない。海人うみとが言っていたように、それではつまらない。海風うみかぜすずしさ、しおにおいこそが、海の醍醐味だいごみの一つである。毎晩まいばん宮殿きゅうでんらす、満月も、ずっとまんまるの満月が続くのは、どこか物足ものたりない。三日月みかづきや、半月はんげつ。半月と満月の合間あいまあたりの中途半端ちゅうとはんぱな形の月だって、風情ふぜいがあって、美しい。うっすらと、くもかくされたり、完全に見えない日があっても、それもまた良い。毎日見ることができないからこそ、満月は、満月たりるのだ。ただのかがやまる球体きゅうたいとなってしまうのは、面白くない。

 不自由ふじゆうな生活で、つねにリスクがあるからこそ、生きていることを、実感じっかんすることができて、今日も生きている大切な人たちが、たまらなくいとおしい。そう思えるのだ。何よりも、そこには海人うみとがいる。それだけで、それ以上のものはない。

 ユウは、辰巳たつみの手をけ、一歩下がって、一礼いちれいすると、書斎しょさいを出ていった。

 書斎しょさいを出ると、ユウは走った。自分の部屋にいそいだ。けたたましい音を立て、障子しょうじけると、だれもいないたたみ何度なんどんで、縁側えんがわからんだ。ユウは、鯉になった。鯉になったユウは、スピードを上げて、あの倉の方に向かって、まっすぐに泳いだ。そこにはもう、まよいはない。頑固がんこたる意志いしで、前に進む。の中でれている鯉たちも、ユウのきゅうスピードにおどいて、その前の道を開けた。スイスイとスムーズに泳ぐことができて、ろくを走っているかのように、速い。でも、倉までは、まだまだ遠い。ユウは必死ひっしらいつくように、スピードをしぼげた。もっとだ。もっと、もっと、もっと、もっと!

 そうして、宮殿きゅうでんからは、とおはなれた。倉までは、まだ距離きょりがある。物狂ものぐるいに泳ぐユウに、大きな黒っぽい物体ぶったい}が近いてくる。舟《ふねだ。だれっていない、あやしいふね。何でこんなところに?

「こい……」

 誰もいないはずの舟から、声が聞こえた。

「こい……」「こい……」「こい……」「こいだ……」「こい……」

 すると、ユウは突然とつぜんよこれた。その瞬間しゅんかん複数ふくすうの何かが、いきおいよく水中にびこんできた。先のとがった、……モリだ。と言えば、これって、主様が言っていた、舟幽霊ふなゆうれいではないか。鯉をらえて食べてしまうという。ユウの他に、鯉はいない。だからユウは、舟幽霊ふなゆうれいたちの、格好かっこう標的ひょうてきとなっている。ユウはまさしく、物狂ものぐるいで、倉に向かって泳いでいる。幽霊ゆうれいのモリきをかわして。時にあぶない思いをしながらも、なんとかけることが出来できた。

 そうして、倉まで近い。あとすこしの距離きょりになった。しかし、舟幽霊ふなゆうれいも、なかなかしぶとい。いつまでも、いかけて、おそいかかってくる。

 後ちょっとだ。と安堵あんど表情ひょうじょうを見せた。それがしくじりだった。舟幽霊ふなゆうれいのモリの攻撃こうげき反応はんのうするのが、少しおくれてしまった。攻撃こうげきは、右のむなビレのあたりをかすった。きずつきながらも、もうひとりで、倉の中へともぐりこんだ。そして、ようやく舟幽霊ふなゆうれい攻撃こうげきから、のがれることが出来できた。


 倉の下の方へとりると、ユウは人間の姿に戻った。右腕みぎうでったきずを手でさえ、正面しょうめんを向くと、むらさきの本に書かれていたとおり、真赤まあかな世界が、かぎりなく広がっていた。赤色のたたみ。ところどころには異常いじょうなほど、真っ赤にがっているほのお当然とうぜん、この部屋の温度は高い。そして、そこには、無数むすうの鯉たちが泳いでいた。近くにある看板かんばんには、『広敷ひろしき』と書かれてあった。

 

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