十四、後一つの度胸

「……失礼します」 

 誰かが入ってきた。気遣きづかいのため、小さくささやいた、その声は、祐丹姫ゆうたんひだ。

「お目覚めざめになったのですね」

「うん」

 彼女の、その落ち着きのある格好かっこうと声に、ユウは落ち着いた。こうしてたたみこしをかけている時のような、落ち着きがある。

「主様方は、庭間にわまに行かれました。蹴鞠けまりでもされているのでしょう」

 いまだに、混乱事こんらんごとは、しずまっていない。それだけ、二大勢力にだいせいりょく対立たいりつは、はげしいのだ。

「あそこの、遠いところにある、小さなお倉。あそこが多分たぶん、『広敷ひろしき』。あそこに、その、恋人がいるのだと思うのだけれど」

 でも、いない可能性かのうせいおおいにある。でも、いるような気がした。よくわからないけれど、いるような気がした。あのお倉を降りた先にある、真赤まあかえる、広敷ひろしき真赤まあかえる、とは。この青一色のように、赤一色のお部屋なのか。そこには、無数むすう流浪るろうする鯉が。

 あそこに行く。……あんなに遠いのに、どうやってだ? 

 ふと、祐丹姫ゆうたんひを見た。可愛らしい。子供のような見た目だ。七歳くらいの。なのに、ユウよりも、だいぶ大人ないをしている。だから、面目めんもくうしないそうである。彼女を見て、思い出した。にしきくにの世界にくる時、鯉になった、彼女に乗って、やってきたのだ。自分も、彼女のように、鯉になることはできる?

「ねえ、祐丹姫ゆうたんひちゃん」

「はい」

「私もさ、あなたみたいに、鯉になることってできる?」

「本気になられたのですね」

「本気……、うん、本気」

 祐丹姫ゆうたんひは、クスッと笑った。

「なれますよ」

「本当!?」

「はい。見ていてください」

 というと、の中にもぐった。すると、瀬の中には、彼女の姿は

ない。しかし、その代わりに、リボンのような形をした、桃色の斑点はんてんがある、可愛らしい鯉がいた。祐丹姫ゆうたんひは、鯉になった。そんな彼女は、ぐるーっとえんえがくように泳いだ。ユウも来い、とでも伝えたいのだろうか。ユウも、の中に入った。すると、鯉に変身した。ユウの鯉には、黄色い斑点はんてんが、まばらに入っていた。

 すごい! すごい! ユウも、鯉になることができた。嬉しくて、大きな八の字に泳ぎ回った。そのまま、祐丹姫ゆうたんひの後を追って、宮の周辺を泳いだ。水の反発はんぱつというものも、何もないから、スムーズに進むことができる。ももの斑点の入った、二つの鯉。二つの鯉は、泳いだ。スイスイと泳いだ。建物の周りを、スイスイと泳いだ。途中とちゅう、たくさんの鯉たちと、すれ違った。すごく、気持ちの良さそうに、泳いでいた。

 柑菊姫かんぎくひの部屋に帰ってくると、もとの人間の姿に戻った。

「すごいのぉ、鯉になった」

 これで、あそこの倉にも行くことができる。でも、唯一ゆいいつにして、ものすごく大きな、気がかりがあった。自分の度胸どきょうの問題だ。後一歩が、前にでない。もちろん、海人うみとには会いたい。でも、ずっと変わらないままでいたい気持ちも、少なくない。不安ふあんだ。こわくてこわくて、仕方しかたがない。自分は、そんなに強くない。無理むりだよ。できないよ。母や兄たちのように、強くない。

 そうだ。あの『広敷乃倉ひろしきのくら』という、むらさきの本は、まだ読みかけだ。あのカタブツは苦手だけど、何もしないわけにはいかない。

 

 図書室にて、むらさきの本のつづききをむ。そこには、こんなことがかれていた。『広敷ひろしきくらは、夜になると開放かいほうする。しかし、夜の海はとき危険きけん安易あんいに行こうとすると、いのち保証ほしょうい』

 えー、怖い。危険。命の保証はない……。この不思議な世界だから、何が起こるかわからない。本当に、命を落としねないことも、起こりえる。無理だ。私には、できない。ガクンとかたを落とした。

 

 いつまでも、うだうだとなやんでいるのは、カッコわるい。自身じしんでも思う。でも、ユウには自信がなかった。私は、お母さんのように、強い女性じゃない。いつも守ってもらって、助けてもらっているばかりの、弱き少女である。兄二人に、海人うみとに。そんな弱き少女に、何ができるのか。

 そんなことを考えていたら、夕食の時間になってしまった。女房が呼びにくる。

 ご飯を食べている最中さいちゅうでも、頭の中は、悩みごとのことでいっぱいだった。手と口だけ動かして、ずっとかんがえていた。


「なんだか、ずいぶんと固まってきていましたね。あと一押ひとおしってところまで」

 群青ぐんじょうの夜の中で、月を見上げるユウに、祐丹姫ゆうたんひは言った。たしかに、あと一押ひとおし。しかし、その一押ひとおしができなくて、こうして、うだうだしているのだ。みっともなく。

「私は、……全然、強くない」

「いえ。貴方あなた様は、お強いとわたくしは思います。すごく強靭きょうじんな、おこころをお持ちになっている。絶対に変わることがない」

 そうなのか。そういえば、上の兄も、言っていた。

「ユウは強い。だって、お母さんとお父さんの間に生まれた子供なんじゃ。二人はぶちつええ。だから、華奢きゃしゃな見た目でも、中身なかみ巨大きょだい軍艦ぐんかんのように頑丈がんじょうじゃ」

 ついでに、海人うみとの言っていた、ユウの強く印象に残ったことを思い出した。

「わしんとこは、みながおくにつよほこっておる。じゃけぇ、兄ちゃんたちも、戦争に昔から行きたがっていたし、わしも海兵かいへいにさせるつもりじゃ。でも、わしはそんなことよりも、海が好きじゃ。海でりょうとかをしたい。じゃけどもちろん、それを言うと、皆がおこってボコスカなぐる。じゃけどの、わしは、好きなもんは好きって言いたい。そうじゃなきゃ、生きてる心地ここちが全くせん。窮屈きゅうくつなんじゃ」

 と言うと、「あ」って、ユウの方をみた。

「ユウのことも好きじゃよ。海と同じくらい。いや、それより上じゃのぉ。じゃけぇ、ユウのことを好きって言えんと、生きてる心地ここちが全くせんね」

 むねおくがジリジリと、こがされているような、そんないたみのようなものがあった。うまくは言えないけれど、むねのうちをがされていた。そして、それを言った後の、彼のイタズラか、それとも、れくさくなったハニカミかの笑顔えがおに、ユウはさらにかれた。かお表面ひょうめんまで、あつくなった。

 思い出すだけで、あのあつさがよみがえる。むねおくが、またがされている。私もウミちゃんのことが、大好きだ。他の何よりも。

 ユウは、立ち上がった。完全かんぜん覚悟かくごが、かたまった。たとえ、いのち保証ほしょうはなくとも、海人うみとに会える可能性かのうせいがあるのならば、それ以上のものはない。ユウは、部屋へやを出ていった。

 覚悟かくごかたまったらしい、ユウを見て、祐丹姫ゆうたんひの顔もほころんだ。


 

 


 

 


 

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