十三、一番好きな人

 朝食ちょうしょくえたあさ。ユウの顔と心は、ぐったりとしていた。夜にちっとも眠ることが、出来なかった。寝不足ねぶそくだ。

「だから、昨晩さくばん、声をかけたのに」

 こうなってしまった、一番いちばん原因げんいんが、暢気のんきにそう言った。

 だれが言ってるんだと、ユウは心の中でつぶやいた。

 あのあと、部屋に戻って、寝床ねどこにはいたものの、頭の中がずっとぐるぐるしてしまって、夢の世界へたどり着くこともできないまま、朝がやってきてしまった。一睡もできなかった。いつも通りに、祐丹姫ゆうたんひが、起こしにやってきた。

「おはようございます、柑菊姫かんぎくひ様。お食事の準備ができましたよ」

 夜の間は、全く眠れなかったくせに、朝になってから、無性むしょう目蓋まぶたおもくなっていた。

柑菊姫かんぎくひ様」

 祐丹姫ゆうたんひに、もう一度、名前を呼ばれた。もうわけないと思ったユウは、重い体を起こした。

「顔色が悪いですね。お熱でもありますか?」

 と、おでこに手を当てられた。祐丹姫ゆうたんひの手は、ひんやりとしていた。

「……ないと思う。……ただの寝不足ねぶそくだから」

「そうですか」

「まあ、気にしないで」 

 ユウはがった。千鳥足ちどりあしのごとく、よろよろだ。

「お気をつけ下さいね」

「はあい」

 まるでぱらいだ。たどたどしい足で、衣装部屋いしょうべやに向かった。祐丹姫ゆうたんひは、どこかにぶつけてしまわないかと、くばった。

 お化粧けしょうかかり女房にょうぼうに、かおいてもらって、目はある程度ていどめたものの、体のだるさは、健在けんざいだ。

 重い身体でご飯を食べているユウに、主様は茶々ちゃちゃを入れたが、優しい、お気遣きづかいをしてくれた。


今朝けさは、皆でつどっておしゃべりをするみたいだ。

「今日は、面白おもしろい話をしよう」

 主様は言った。皆は、ざわざわとしている。

面白おもしろい話ですか」

「うん、すごく面白い話だよ。それで、見せたいものがあるんだ。桜涛彦おうとうのひこものを」

 辰巳たつみは、そばに付いている男房なんぼうに指示をした。

「はい」

 男房は、持っていたものを取り出し、辰巳たつみに渡した。

「ありがとう」

 お礼を言って、ものを広げて、皆に見せた。

 そこには、何とも不気味ぶきみな絵が書かれていた。海原うなばらの中に、ぽつりとたたずむ、ひとつのふね。舟には、無数むすうの手がえていて、その全てが、魚をいてる、モリを持っていた。しかも、無数むすうある、モリのうちの二つには、大きな赤い魚が刺さっていた。これは、こいだろう。みやそとの水の中で泳ぐ、鯉。

「……何ですか、これ」「恐ろしい」

 これを見た、皆はおびえていた。当然とうぜん反応はんのうだろう。

「これは、舟幽霊ふなゆうれいだよ」

 舟幽霊ふなゆうれい。ユウも、どこかで聞いたことのある、有名な海の妖怪ようかい夜遅よるおそくに、海の上で漁をしていると、奇妙きみょうな舟があって、近づいてみると、柄杓ひしゃく要求ようきゅうしてくる。それで、柄杓ひしゃくを渡すと、海か舟かから、無数むすうの手が出現し、その全てが柄杓ひしゃくを持っている。その柄杓で海の水をみ上げて、船を沈没ちんぼつさせるという。かなりこわ怪談話かいだんばなしだ。

「ここのに現れるという、舟幽霊ふなゆうれいで、みやからはなれたところで泳いでいる鯉をらえて、食べてしまうとか」

 錦の國、その一面に広がり、たくさんの赤い鯉たちが泳いでいる、極上ごくじょうんだ、あざやかな青の。宮中から遠く離れた辺りで、舟幽霊が現われるという、言い伝えがある。

 本当にいるものなの!? 恐ろしいと思った。皆も震えている。

「ええ、どうしましょう」「怖い……」「ああ、イヤだ」

 震えている皆を見て、主様は笑った。いじわるな笑みだった。

「大丈夫だとは思うよ。あくまで、古い言い伝えのものだし、宮から離れたところだから、宮から遠ざからなければいいんじゃない」

 何だか、主様は楽しんでいるみたいだ。皆を怖がらせて。そんなイタズラ好きなところもあるのか。ユウはれない気分で、そう思った。

「絶対、宮からは離れないでおこう」「そうだね」

 怖がる使用人たちが、口々に言った。

「あ、そうだ」と、ある女房が口を開いた。

「どうした? 石竹せきちくひめ

わたくし、最近、新しい草子そうしを手に入れたんですよ。美しい紙の草子で、そこに何を書こうか、迷っていて。……これなんですけど」

 それは、美しい白色の表紙の冊子本。

「皆さまだったら、何を書かれますか?」

「逆に、石竹姫せきちくひめだったら、何を書くのですか?」

 祐丹姫ゆうたんひは、反対に彼女に問いかけた。

「え、……私は、恋の歌をつづろうかと思うんですけど、なんだか、これじゃないなって」

「いや、いいじゃない。恋の歌」「だったら、自分でんだ歌をつづるのは?」

 他の女房たちが言った。

「あー、それはいいですね。だけど……むずかしいかも」

 女房は、だいたいは納得なっとくしたようだが、難しいようだ。

「あなたが一番好きな方を想って、んだ歌。それなら、難しくはないはず」

『一番好きな方』。ユウは、海人うみとの顔が、真っ先に浮かんだ。

「そうだね。石竹姫せきちくひめの一番好きな人への思いをつづること。それがいいと思うよ」

「……そうですか。ありがとうございました」

 彼女のおかげで、こおりついていた皆の心が、温まった。そして、寝不足のユウは、主様の方へかたむけて、ねむってしまった。

 

「お兄ちゃん! 行かないで! 死んだらダメ!」

 これから、戦地に行こうとする兄たちに向かって、ユウはさけんだ。

「ずっと、ずっと、そばにいて! ずっと、ずっと! 私から離れないでよ」

 すると、どこからか、顔を真っ赤にした、男の人がやってきた。

「貴様! 何をいう!」

 男の人は、はげしく怒鳴どなった。それでも、ユウは止まらない。

「イヤじゃ! イヤじゃ! お兄ちゃん、行っちゃダメ!」

「この! 非国民ひこくみんが!」

 男の人は、力いっぱいに、ユウをなぐった。

「イヤじゃ! 死なないでよ! ウミちゃんにも、お母さんにも、死んでほしくないよ。どうして? 何で行っちゃうの?」

 涙が、ぶわっとたきのようにあふれ落ちる。ほっぺを濡《らしながら、兄たちに、必死で訴えかけた。

 天狗てんぐのおめんのように真っ赤な顔の、男の人は、何度なんど何度なんどもユウをなぐつづける。

 ボロボロで、ベタベタな顔になってまで、大声でうったつづけるユウに、二人の兄は、とても悲しそうな表情で見ていた。しかし、じっと見ているだけだった。二人には、後一歩いっぽ、いや、後千歩せんぽもあるだろうか。


 しずかに、目を開けた。その目からも、涙がこぼれていた。こめかみに涙がつたった。夢からめても、なおいていた。

 一人だった。いつの間にか、布団ふとんの中でていた。さっきまで、皆のところで、おしゃべりを聞いていたはず。それで眠ってしまって、ここに。

 障子しょうじを開けた。外はまだ明るい。極上ごくじょうんだ、あざやかな青。そのの中には、赤い錦鯉たちがおよいでいる。

 の水の中に、足を入れた。つめたかった。バタバタと動かしても、バシャバシャと飛沫しぶきが立ったりなどは、しなかった。波紋はもんも現れない。不思議ふしぎな水だ。この世界は不思議ふしぎなことだらけだから、今更いまさらだとは思うけれど。

 そして、とおくを見渡みわたすと、ぽつんとかぶ、小さなくろ屋根やね。あれが、広敷ひろしきくら

 

 

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