八、純粋な憧れ、雨上がりの太陽

「はあ、つまらんのぉ」

 静寂せいじゃくとした海を見て、海人うみとは、ため息まじりに、そう言っていた。

 彼は、海が大好きだ。毎日のようにユウを連れて、海に通っていた。毎日の学校が終われば、ユウの家に立ち寄る。

「ユウ! 海行こう!」

 お庭の柵の向こうから。小麦色の肌の手だけを、ときどき出して。ユウが玄関から出てくると、海人うみとはユウの手を取って、海へと引っ張っていった。電車の通る、大通りを元気いっぱいにけていく。風にぶつかっても、負けずに切りいて、海に向かって走る走る。

「今日も、海は健全けんぜんじゃのぉ」

 青く波打なみうつ海を見て、海人うみとは言う。誰もいない、草木の生茂おいしげるところ。地べたにこしろして、ぼんやり海をながめる。数秒がつと、決まって海人うみとが口を開き、二人の会話が始まる。いつものお決まりのパターンだ。

 その海人うみとの第一声で、高い確率で出てくるのが、「つまらんのぉ」だ。

「毎日、毎日、おんなじ事ばかり、皆とまるっきり一緒のことをやらされてさ。上の人の言うことは、絶対聞かないけんのじゃ。窮屈きゅうくつじゃのぉ」

 この、海人うみとから出てくる、不平不満ふへいふまん愚痴ぐちに、ユウは内心怯えた。これを大人に聞かれてしまえば、とんでもないことだ。

「非国民じゃ!」とぶんなぐられるだろう。最悪、命の保証ほしょうもないだろう。そもそも、“命の保証”という言葉さえも許されることではない。

 日本全体が、一丸となって、大きな敵に立ち向かっている中で、お国のために天皇陛下のために、自分の命を投げ打つ姿こそが、かっこいい生き様であるのだ。「命が惜しい」だとか「生きていて欲しい」などという、今の日本のムードに反する言葉なんて言ったら、きびしくおこられてしまう。ほおを赤くめられるだろう。考えただけでも、ゾッとする。

「皆で力を合わせて、てきに立ち向かって、お国のために命をささげるのが、素敵な生き様なんだから」

 ユウは、小学校に通っていた頃は、そんなことを、アイウエオや漢字、そろばんと同じくらいに教え込まれてきた。当然、海人うみとも同じだろう。それが、とっても正しいこと。それが、絶対なのだ。

「それってさ、生き様じゃなくて、“死に様”じゃないの? 死んだら、お国に何か貢献こうけんできるの? 死んでも、ただ死んだだけでしょ」

 血の気が引いた。ユウはいきどおりを覚えた、というか、あせりやおびえを覚えたのだと思う。いきどおりという名の皮をかぶって。

「ちょっと、ウミちゃん、何言ってるの?」

 憤りという名の皮が、口や顔にまで、出てきてしまった。

「あ、えっと、わしは別に、戦争が嫌いなわけじゃないんじゃよ」

 不機嫌ふきげんな顔のユウに、海人が優しく弁明べんめいする。

「やめてよね。お父さんもお兄ちゃんたちも、お国のために戦っているんだから」

「わしんところも、父ちゃんと兄ちゃんたちも、海軍の一員じゃ。でも、わしがなりたいのは、海兵じゃなくて、漁師じゃ」

 海人は、海が大好きだ。だから、漁師になるのが夢なのだ。

「このひろーい海に、わしの船を浮かべての、気ままにゆったりと潮風しおかぜに乗って、魚を釣ったり、あみでとらえたり」

 これが海人のあこがれ。自分のペースで、気ままに生きる。まるで、ねこみたいに。そんな猫みたいな性格せいかくの彼に、機械きかいを動かすみたいな、共同きょうどうでの動きというのは、向かないのだろう。「何だか、デクノボウみたいじゃ」と気を落としていることも、しばしば見る。

「父ちゃんや母ちゃんは、わしを海兵かいへいにしたくて、わしが漁師りょうしになりたいってのも、ダメって言う。竿さおすら持たせてくれない」

 何かに憧れがあって、夢を持つということは、ユウはすごく素敵なことだと思う。若く純粋じゅんすいな心で、かがやひとみで、明確めいかくな夢を持つ海人は、なおさら、素敵だ。仕方しかたのないことだと思っても、若くて純粋じゅんすいな夢を、こんな風に、寄ってたかられ、へし折られてしまうのは、悲しいものだ。

「『ほしがりません 勝つまでは』ってあるじゃん。だから、日本が勝って、戦争が終わったら、大丈夫なんじゃない?」

 ユウがそう言うと、海人の顔に明るみが出てきた。素直な心だ。

「まあ、そうじゃのぉ」

 と笑顔を見せた。何だか、太陽みたいだ。あたたかくて、まぶしい。雨上がりの太陽。じめじめとした日陰ひかげに、日光がたくさん差し込んでくる。暗さも水気も、あっというまにどこかへ飛んでいってしまった。

「ちょっとテキトーに歩こ」

「ええよ」

 二人で、周辺をぶらぶらと歩いた。「そらも〜 みなとも〜 ははれて〜」と上機嫌じょうきげんに歌を歌いながら。「つきに〜 かずます〜 ふねのかげ〜」


 彼との思い出は、たっくさんある。広島の中心の街にも、何度も足を運んだ。無残むざん破壊はかいされてしまう前の、活気かっきあふれていた街。

 観光スポットのひとつである、産業奨励館さんぎょうしょうれいかんにもイベントなどがやっていれば、よく立ち寄ってみたり、図書館に行って一つの本を二人で読んだり、商店街も歩いて、いろいろなお店を覗《のいてみたりと、何か大したことをしているわけではないし、なんなら、何もしていない時もある。何かを買ったということもない。けれども、そこにはかすかにだが、幸せがあったし、愛する人と同じ一時ひとときを過ごせるだけで、気分は上がる。にぎわう街の風景を、見ているだけでも楽しい。もちろん、誰もいない閑散かんさんとした、町を歩いているのも、風情ふぜいがあって良い。


端艇はしけの〜 かよい〜 にぎやかに〜 せくる〜 なみも〜 黄金こがねなり〜」

 涙をつたらせながら、海人と一緒に歌った、歌を口ずさんだ。つらい。会いたい人に、会えないのは。彼は今、どこにいる? 何をしているの?


『いとせめて こいしきときは むばたまの よるころもを かえしてぞる』


『うたたねに こいしきひとを みてしより ゆめてふものは たのみそめてき』


おもいつつ ればやひとの えつらむ ゆめりせば さめざらましを

(恋しいあの方をおもって寝たので、あの方は夢に出てきたのだろうか。もし、夢だとわかっていたのなら、覚めなかっただろうに)』


しのぶれど いろにでにけり こいは ものおもうと ひとうまで』

『人に知られないようにしのんでいたけれど、ついに表情に出てしまった。物思いでもしているのかと、他の人に尋ねられるほどに、という意味です』


浜辺はまべより かば 海辺はまべより むかへもぬか 海人ウミト釣舟つりぶね


 たくさんの歌が、思い起こされる。さっき、印象深く残った歌たち。海人うみととの思い出の歌。

「失礼いたします」

 祐丹姫ゆうたんひがやってきた。相変あいかわらずの、大人な落ち着きよう。本当に、いくつなのか知りたい。でも、乙女おとめに歳を聞くのは、失礼に当たる。

「ご調子はどうですか?」

「う〜ん、どうだろう……」

 よくはない。むしろ、悪いだろう。つらくて、悲しくてたまらないのだから。でも、なかなか言いづらい。

「お悩みごとがございましたら、お聞きしますよ」

「……」

「お悩みをめ込まれるよりも、けた方が、お気持ちも楽になりますよ」

 人の優しさに触れて、少しだけ安心したユウは、少し口角こうかくを上げた。

「大丈夫だよ。ちょっと、過去を振り返っていただけ」

「……そうですか」

「ありがとう。祐丹姫ゆうたんひちゃん」

 そう言って、ユウは立ち上がった。主様のお部屋へ戻る。

 ユウを見送る、祐丹姫ゆうたんひの顔には、くもりが見えた。

 


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