四、珍しき優しい主様

「次の部屋は楽間がくま。音、なんだけれど、楽器を演奏する舞台ぶたいみたいなところだよ」

 辰巳たつみは、その楽間がくまの部屋の戸を開けた。あっと感嘆かんたんの声をらし、ユウは、大きく目を見開いた。

 温かみのある、高貴こうきなヒノキの部屋。鬱蒼うっそうとした、森の中いるみたい。そんな香りが、ユウの鼻を生暖なまあたたかく刺激しげきする。一番奥には、二匹の鯉がえがかれた屏風びょうぶ。金と紅白で、またもや縁起えんぎの良さそうなものだ。

 屏風の前には、こと三味線しゃみせん尺八しゃくはち小規模しょうきぼな楽団。でも、身にまとうオーラは、大規模だいきぼ級だ。

「なんだか。すごい」

「そうだよ。彼らの演奏のうでは、随一ずいいちさ。今から、本気で演奏してもらうよ」

 おねがいね。と辰巳たつみは、皆に言う。その言い方も、強い命令口調などではなく、やんわりとおだやかな言い方。この宮中の主様だというのに、珍しい。当然、こっちの方が、かなり好感がもてる。

 ユウと辰巳たつみの二人は、用意してもらった椅子いすこしをかけた。

 お願いします。と再び言うと、尺八を皮切かわきりに、演奏が始まった。

 その瞬間に、ユウは引き込まれた。まるで流れる川のように、ひびひびくきれいな音。耳だけでなく、身体全体が、指の先端までいたるまでに、その水のつめたさがみわたるような。幻想的げんそうてきな、また別の世界へと、いざなわれたような気分で、不思議な和の町を歩いている。それは一人でかもしれないし、誰かと一緒に、手でもつないで仲むつまじく。

 随一の腕の演奏に聞きれて、ユウは体を横に傾ける。

 そして演奏が終わり、元の世界に戻された途端とたん、ハッとしてあわてて起き上がり、ものすごくあせってしまった。

 ごめんなさい! ごめんなさい! と、何度も何度も頭を下げて、ユウは辰巳たつみに謝罪した。

「そんな、あやまらないでよ。それほどのことは、していないでしょ」

 辰巳たつみは笑いながら言った。

「だって、ぬ、主さ……」

 クイっ、と顔を持ち上げられ、目の前には、眉目秀麗びもくしゅうれいな主様の顔が。

「僕が主だからといって、一線を引いてしまう必要なんてないんだよ。それじゃあ、僕はさびしいし、何より君は、僕の選んだ素敵な姫君ひめぎみなんだから。僕にも気軽きがるせっしてくれればいいし、なんだったら、敬語けいごも使わなくてもいいくらい。でも、そこは君にまかせるよ」

 ユウは、自分の心臓が、あとちょっとでくるってしまうのを確信かくしんした。この人は、本当に珍しい人だと思った。そして、危険だ。

 手をはなし、楽団の方へ顔を向けた辰巳たつみは、「今日もやっぱり、素晴すばらしかったよ」と一声かけた。団員たちは「光栄こうえいです」と頭を下げた。

 すごい。この三文字が、ユウの脳裏のうりに、水辺みずべにいる小さな虫の大群のように、いてくる。

「演奏も終わったし、次のところに行く? それか、楽器とか見ていても良いよ」

「あ、次、行きたいです」

了解りょうかい。じゃあ、いこ。でも、次のはさらっと紹介して終わりかな。僕が個人的に使うところだし、柑菊姫かんぎくひの興味にあったところかは分からないから」

 それはまるで、次に行く部屋が、ユウが好まないようなところだと、言っているようだ。勉強でも、するところだろうか。

 ユウの予想は、外れてはいなかった。庭間にわま楽間がくまに比べれば、かなり小さなお部屋だ。

「ここは僕の書斎しょさい。君はこういうカタブツは苦手かなと思ってさ」

 なるほど。しかし、それはハズレだ。ユウは、読書好きの少女。表に出てワイワイするような人間ではなく、日陰ひかげでひっそりとしている方だったため、自然と本にも手を伸ばすようにもなった。図書館にも、定期的に足を運んでいた。特に好きなのが、源氏物語げんじものがたり枕草子まくらのそうしなどの古典もの。だから、今のこの状況に、実はとても高揚こうようの気分でいた。

「いいえ。私、こういうのは好きですよ」

「あら、そうだったんだ。僕は、文章を書くのが好きでね。毎晩、日記のようなものをつけたり、歌をんだりしている。すみってもらって、自慢じまん草子そうしに筆で書いてる」

 素敵だ、まさに平安貴族って感じ。

となりの部屋は図書室になってるよ。時間のあるときとかに、来るといいかも」

 そして、辰巳たつみは部屋を出た。

「ここはもう終わりだよ。小さいし、僕の個人的な部屋だからさ」

 早くも、この書斎を出ることになった。ちょっと惜しい。数秒だけ見つめた後、くるりときびすを返した。


「ここが、君のお部屋だよ」

 夏草なつくさかおりそうな、黄緑きみどり色のたたみ。ほのかに緑色の畳のにおいがした。

「この部屋は、とてもすごい部屋なんだよ」

 すごい部屋? 今までずっとすごかったけど、あれよりもずっとってこと?

 辰巳たつみは、部屋の障子しょうじを開けた。

 外の世界の、極上ごくじょうんだ、あざやかな青の世界が、ユウの身体の全面に、んできた。やはり、息をむほどに美しい。もはや、『美しい』という言葉では、表し切れないほど、身体全体にグッとくる、手ではつかめない、固体ではないもの。

「この景色をずっとながめることができるし、夜になれば、毎日満月を見ることもできる」

 縁側えんがわに出てみると、赤い鯉が泳いでいるのが確認できた。スイスイと、気持ち良さそうに泳いでいた。

「お部屋紹介は、ここまでだよ。しばらくは、ゆっくりしてて」

「あ、ちょっとまって」

 ユウは、部屋を出て行こうとする、辰巳たつみを引き留めた。なにかを見つけたらしい。

「どうしたの?」

「あの、黒っぽい小屋……おくら? あれは何ですか?」

 ユウの目に入ったのは、この青の海の遠いところにぽつりとある、黒い屋根の、ごく普通の倉。ごま粒くらいの大きさしかないほど、遠いところにあるのに、一色しかない世界によって、途轍とてつもなく存在感があった。

「ただの倉だよ。じゃあまた、ご飯のときに。女房が呼びにくるから、よろしくね」

 辰巳たつみは、そのまま部屋を出た。


 それから、延々えんえんと海を、青をながめ続けていた。この青に取り込まれたかのようにだ。

 失礼します。と、声がした。入ってきたのは、祐丹姫ゆうたんひだった。

「どうですか? この宮中は」

「とっても素敵だったよ。楽間がくまってところの演奏とか、本当に凄かった」

「あれは、本当に凄腕すごうでの方々で編成された、楽団なので、人数は少なくても、その力は常人の百倍ぐらいでしょう」

祐丹姫ゆうたんひちゃんは、何か楽器とかやってるの?」

趣味しゅみの程度ですが、琵琶びわを習っています」

琵琶法師びわほうしのだ」

「主さまの方はどうでしたか」

「うん、すごく心優しい方だったよ。主様っていう、一番上の人なのに、全然そんな素振そぶりがない。私にも、使いの人たちにも優しくて、気さくで。本当に珍しい」

「珍しい」

「ああいう上の立場の人って、大抵たいてい、自分よりも下の人を、人として見ていないものなのよ。下の人が、どんなに正しい言動をしていても、自分が気にいらなければ、絶対に受け入れない上に、本気でボカスカなぐるから、苦手で、いやなのよ。でも、主様は、全然そんな感じじゃない」

「横柄な態度なんて、全然取られない。その上、眉目秀麗びもくしゅうれいなお姿なんですもの。毎日、ときめいてしまいます」

 ユウも、祐丹姫ゆうたんひと同じ気持ちだ。しかし、やはり、手放てばなしではよろこべない。どうにか、踏ん張らなければならないのだ。主の、甘い攻撃にやられていても、まだ、頭の片隅かたすみには、海人うみと無邪気むじゃきな笑顔が、残っているのだ。


 

 



 

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