3. 追憶

 初夏のある日だった。


 黄金のライ麦畑が、夕方の涼しい風に揺れていた。土がむき出しの道は、畑の間をわずかに曲がりくねりながら畑の奥へ伸びている。


 家に続くその道を、エレナはうつむき加減で歩く。独りだった。周りに他の生徒の姿は見えない。クラスメイトたちはエレナを避け、他の道を通る。理由は解っている――自分が皆と違うからだ。


 しかし、一人だけエレナの後についてくる者がいた。


「エレナってば!」


 名前を呼ぶ声にエレナは振り向く。風に揺れるライ麦と同じ髪の色の少女が、エレナの方へ少し速足で歩いてきた。


「リズ? どうしてついてくるの?」


 エレナの言葉に、立ち止まったリズは頬を膨らませる。


「どうして……って、友だちだからでしょ⁉」


 自分は彼女を「友だち」と認識してはいないのだが……そう思ったが、口にはしない。今まで何度も突き放すような言葉を投げかけたが、その度にリズはエレナに近寄ってきた。彼女に何を言っても無駄だろう。


「もう……何も言わずに帰っちゃうんだから! 私を置いて行かないでよ!」


 そう言いながら、リズはエレナの隣にやってくる。エレナは距離をとろうと再び歩き出すが、リズもすぐに歩き出し、距離を詰めてくる。エレナとリズの帰り道は、毎日こんな追いかけっこだった。


「ねぇ、明日提出の理科の宿題、解らないところがあるから教えてよ?」


 後ろからリズが話しかけてくる。


「嫌だよ。宿題くらい、自分でやりなさいよ。私は誰にも教えてもらってないよ?」

「でも、エレナはいつも掃除当番を私に代わってもらってるじゃん!」


 リズの言葉が針となり、エレナの耳をチクリと刺す。痛いところを突かれたエレナは、「ムムム」と唸る。


 くるりと身体を後ろに向け、リズを睨みつける。たっぷり、十秒程そうした後、観念して溜め息をついた。


「解った。でも、宿題をやるのはリズの家だよ? 私の家には上げられない」

「やったぁ! じゃあ、決まりだね!」


 大げさに飛び跳ね、リズはエレナの手を掴む。エレナはグイグイとリズの家の方へ引っ張られていった。



「問3、夜空に見える白い靄のような筋は、実際には何で出来ているでしょう?」


 エレナはプリントの問題を読み上げ、リズの顔を見る。彼女は唇の下に鉛筆を当てて考え込んでいる。


「うーん……白い靄みたいに見えるってことは、何かのガスが帯になっているのかな?」

「違うよ。教科書開いてごらん」


 机の上に教科書を広げ、エレナは天の川について解説されたページを指し示す。


「天の川として見えるのは、無数の星の集まりなんだよ。しかも、目に見えるのは皆太陽と同じ燃えている星なの」

「えっ⁉ あれ全部燃えてるの?」

「厳密には違うらしいけどね。でも、太陽と同じくらいの大きさの星や、もっと大きな星が集まって天の川になってるの」

「宇宙って広いんだねぇ……」


 リズが宇宙に想いを馳せるように窓の外を仰いだとき、ガラスの割れる音ともに窓から黒い物体が飛び込んできた。エレナは咄嗟にリズに覆いかぶさり、彼女を破片から庇う。


 幸いにも、エレナ達にガラスの破片が当たることはなかった。しかし、エレナの鼻を肉が腐ったような臭いがかすめ、思わず顔をしかめる。ゆっくりと床に視線を向けたエレナは、散乱したガラスの破片の中にを見つけて息を呑む。


「今の……何?」


 リズが首を動かし、床を見ようとする。


「見ちゃダメッ!」


 エレナは慌ててリズの眼を塞ごうとしたが、間に合わない。悲鳴を上げたリズが、エレナの胸に顔を押し付けてきた。


「ひどい……誰がこんなことをッ⁉」


 震えるリズを抱きしめて、エレナは窓から投げ込まれたを睨みつける。荒縄で縛られた猫の死体だった。瞼は開いたままで、濁った瞳がむき出しになっている。


 エレナの脳裏に、眉をひそめた両親の顔がよぎる。両親はエレナがよその子と仲良くなることを快く思っていない。家に連れてきたり、一緒に遊びに行ったりするといつも嫌そうな顔をする。


 小さい頃は理不尽な親だと思っていたが、十歳を過ぎた辺りからその理由が解るようになってきた。


「ごめんね、私のせいだ……」

「どうしてエレナが謝るのッ⁉ エレナは何か悪い事をしたの⁉」


 気が動転しているリズの肩をさすりながら、エレナはゆっくりと語る。


「実はね、私の家族はヘドウィグ人なの……紅茶を飲むときは角砂糖を口に入れるし、安息日には家の祭壇にお祈りをする……私の本当の名前も、『アリョーナ・イリッチ』って言うんだよ」


 エレナの言葉を、リズは「何を言っているのか解らない」という顔で聴いていた。


「え? どういうこと? エレナがヘドウィグ人? ワケ解んない!」

「でも、安息日に教会で私に会わないでしょ? 異教徒である私たちは、教会に入ることができないの」


 そう言われて、リズはハッとしたようだった。リズも歴史の授業で、ヘドウィグ人の宗教がノルトグライフ人とは違うことは知っていた。


「でも、どうしてヘドウィグ人がこの村にいるの? 戦争が終わってノルトグライフから独立した後、皆祖国に帰ったんじゃないの?」


 エレナは首を横に振る。


「皆が帰った……帰れた訳じゃない。色々な事情で、ノルトグライフに残った人たちがいる。私のご先祖様は、そういう人たちなんだよ……ゴメンね、今まで隠してて……」


 そう言って、エレナはリズの肩から手を離す。


「前にもあったの? 猫の死体が投げ込まれたり、嫌なこと言われたり?」


 そう尋ねるリズに、エレナは頷く。


「解ったでしょ? 私とリズは友だちでいちゃいけないの。私と関わったら、リズも酷い目に遭うよ……」


 エレナは息を吸い込み、「だからもう関わらないで!」と続けようとした。しかし、声を出す前にリズの胸が目の前に迫り、口を塞がれてしまった。


「エレナのバカッ! どうしてそんな大事なこと黙ってたの⁉ どうして辛い思いしてるのに、私に話してくれなかったの⁉ どうして……どうしてヘドウィグ人だからって友だちでいちゃいけないの⁉」


 エレナは反論しようとするが、リズが胸を強く押し付けてくるので声が出せない。


「ノルトグライフ人とヘドウィグ人が仲良くしちゃいけないって、誰が決めたの⁉ 私にはそんなの関係ない! エレナはエレナ! 私の友だちなの!」


 リズの腕の力が強くなる。エレナは痛みに呻いた。


「リ、リズってば……痛いよ……」

「お仕置きだよ! 一人で辛いの我慢してた!」

「そ、そんなぁ……」


 エレナは必死に抵抗するが、リズは逃がしてくれなかった。それどころか、子どもとは思えないほどの力でエレナを抱きしめる。このままだと潰されてしまうかもしれない! エレナは必死に懇願する。


「解った、解ったから! ゴメンって! 痛いから早く離して!」

「じゃあ約束して? エレナは私とこれからも友だちでいてくれるって?」

「解った! 約束する! だから離して!」


 痛みから逃れることに必死で、約束の内容をまともに聴いていなかった。リズが解放してくれた後、エレナはようやくその中身を理解する。


「あっ……!」

「えへへ……」


 リズの満足そうな笑顔を見て、エレナは「しまった」と思った。



「いやぁ、あの時は本当に痛かったよ……死ぬかと思った」


 あの日の痛みを思い出して、エレナは苦笑する。だが、リズの表情はまだ晴れない。


「ゴメンね……あんなに強引に『友だち』でいることを約束させたのに、何もできなかった。私はエレナを傷つける人たちから守ってあげられなかった!」


 再びヒステリーを起こしそうなリズの頭を、エレナは優しく撫でる。


「いや、私は充分救われたよ。私のために怒って、泣いてくれたのはリズが初めてだった。初めての『友だち』なの……」


 リズの肩に腕を回し、そっと抱き寄せる。リズは声を上げて泣き始めた。それからしばらく、エレナは黙って彼女に胸を貸していた。


 リズがいるだけでも、エレナがノルトグライフの空を守る意味はある。彼女を守るために飛び続けよう……そんな想いを胸に休暇を終えた矢先、二人は空で再会したのだ。

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