BonusTrack 01 Song for Someone


 さっきまでマイクを握っていたのに今はハンドルを握っている。


 助手席にジロちゃんを乗せスカイラインで店に向かう。


 今日は地元感謝ライブだったし顔馴染みの古いファンってか知り合いが関係者席に居たのでジロちゃんは割と楽にステージに立てたようだ。社長の計らいで愛するコマっちゃんやビトーちゃんもちょろっとだけステージに登ったしね。毎回袖に控えさせてる愛のバケツ(鬼太郎バケツ)の出番も無かった(ライブや撮影前は朝から飯を抜くけど吐く時は吐くのよね。トラウマって大変な仕様だ)。


 しかし車内で吐かれるのは痛い。明日は助手席そこに俺の頂点が座るからな。


「吐き気は?」


「全く」ジロちゃんは首から下げたフェイスタオルで高い鼻の付け根の汗を拭う。


「そら、よー御座んした」


「暑い。これで一〇月かよ」


「お天気おねーさんが『日中は三二度まで上がって夜も寝苦しい』言うてたわよ」


「ほへー。夏じゃん。ってか熱帯だな。冷房点けていい?」


「だぁメ。喉やられる。窓開けれ。風邪ひきたくねぇ」


「ほいよ」ジロちゃんは素直に助手席のスイッチを弄る。生温い夜気が車内に漂った。


「その代わり、店着いたらジロちゃん先にシャワー浴びていいわよ」


 あれだけ跳んで歌えば汗がヤバい。元スプリンターで代謝がどちゃくちゃいいジロちゃんよりも実は俺の方が汗掻いてるけど内緒。後で消臭スプレー念入りにシートに噴き掛けときましょ。


 ステージでやりたい放題暴れてハイになっても野郎二匹車に押し込まれれば喋る事は殆どない。高校から毎日つるんでりゃ話題もなくなる。しかしカーステレオも点ける気は起きない。さっきまで俺が歌ってたんだから。互いに胸の高鳴りと共に余韻に浸っていたい。目的地は上道に乗っかれば時間的にはそう遠くない。あっという間に店の駐車場に着いた。小林中国餐厅チャイニーズレストラン、俺達の故郷。


 ジロちゃんを先に下ろし、夏の残り香と野郎の汗が充満する車内に消臭スプレーを満遍なく吹き掛ける。ダッシュボードの中も軽く整理して(偶ーに香ばしいモンが入ってんだよ。熱で溶けたコンドームとか洟かんだティッシュとか)車内の空気入れ替えて、フローレンスで買った革のボストンバッグのハンドルを握る。


 愛車にロック掛けて玉砂利をお気に入りのブーツで踏み締める。店は既に明かりが点いていた。ジロちゃんが点けたんだろうな。暖簾の隙間から『ホンジツ貸切。アサッテから営業』との張り紙を一瞥し、住居へ繋がる外階段を上る。……年に数回泊まりに来ているとは言え、この階段を上るのは少しくすぐったい。一五から高校卒業まで世話になった、舞美さんとジロちゃんの家……キラッキラの想い出が沢山詰まった俺の故郷。


 舞美さんの計らいで今も残っている自室にボストンバッグを放り込み、冷蔵庫から野菜ジュースを失敬する。コサコ氏にメールを返信しジロちゃんがシャワーから出てくるのを待っていると階下の店舗から引き戸を開ける音と舞美さんの声が聞こえた。


『お邪魔しまーす』と俺に似ているけど間延びした情けない声が響く。げ。コタローも来たのかよ。やり辛ぇなぁ。


『送ってくれてありがとう。タロちゃんそっくりなのに雰囲気は全然違うのね』


『あははー。よく言われます』


『コタローちゃんはおっとりフニャフニャ可愛いわね。えい』


『わ。わ。わ。わ。いい大人にほっぺちょんは恥ずかしいですよ』


『うふ。柔らかそうに見えてもやっぱり男の子。ほっぺ硬いわよね』


 おい! 弟と雖も舞美さんのほっぺちょんは許せんっ!


『アニキって店ではどんな感じだったんですか?』と問うコタローの声を聞きつつ、店舗に繋がる内階段を駆け下り店舗のドアを思い切り開く。


「お馬鹿っ! 余計な事を聞くんじゃねぇっ!」


 微笑む舞美さんと締まりのない笑みを浮かべるコタローが俺を見上げる。


「わ。わ。わ。わ。ごめんなさい」


「タロちゃん、お帰りなさい。今日のライブも素敵だったわ。とってもカッコよかった。みんなのヒーローね?」コタローよりも遥かに背が低くて華奢で美人な舞美さんは満面の笑みを浮かべる。っくぅー! 俺この為に生きてんの。疲れなんて吹っ飛ぶわ!


「そりゃ張り切りますよ! 俺はいつだって歌って踊れる小鳥さんなんですから!」


 舞美さんはきょとんと俺を見つめると微笑む。


「うふふ。『ますよ!』『ですから!』ですって。他人行儀なタロちゃん」


「他人行儀……?」首を傾げたコタローはぐうの音も出ない俺を見遣った。


「いつもは語尾に『なのよー』とか『なのねー』とか付けて可愛いのに。一人称も『タロちゃん』なのに」


「わーっ! 舞美さん、コタローの前でそれ言わないでーっ!」


「うふふふ」


 狼狽えるコタローに『今聞いた事は全て忘れろ。然もなくばジャーマンスープレックス掛けちゃる』と脅迫し、階段を上がった。んもぅ舞美さんってばイケズッ! コタローにとって俺は父親代わりでもあるから威厳を保ちたいのにぃ!





 シャワーから出てユニフォームに着替え、店へ下る。ホールにはビトーちゃんやコマっちゃん、ウララ、谷口のおっちゃん、及川ちゃん、コバセン、そして音海おとみ佐和子社長を始めとするSinistra組が打ち上げに集結していた。先に降りたジロちゃんと舞美さんがコマっちゃんと共にホール捌いていたけど大変そう(コタローも手伝ってるけどのんびり屋だから足引っ張ってる。お馬鹿め)。威厳がなんだ。洟垂れ弟はもう大人だ。吹っ切れた俺は『大将がホール捌いてやるのねーっ!』といつもの俺節で舞い降りた。


 恙無く乾杯に漕ぎ着け、予め仕込んでいた料理を出し打ち上げが始まった。数年ぶりのライブ観戦で疲れた舞美さんに椅子を勧め、ジロちゃんと共に店を切り盛りする。ゴムパッチンゲームを始めるコサコ氏と佐々木ちゃんを横目にグラスをとっかえ小皿おてしょを引っ換えモリモリ働く。ステージじゃないけど俺の動きは止まらん。動きはこの店で培われたっちゅーても過言じゃない。舞美さんやお客さんに感謝だな。


 ある程度落ち着き、俺も何か腹に入れようと舞美さんの隣に座る。舞美さんは社長と盛り上がっている……ってか泣いてる? 舞美さん強いけど泣き上戸なのよねー。


「んもー。社長ったら舞美さんに呑ませ過ぎ。ってか異色の組み合わせ。仲良しさん?」


 話に入ると顔を手で覆う舞美さんの対面で眼鏡を外した社長が洟を啜る。


「って社長も泣いてる? どったの?」


 社長は脱色した前下がりのボブをかき分けると親指の関節で軽く涙を拭う。


「マミちゃん、小学校の親友だった」


 うわーマジか! 凄まじい確率! 小坊のマブダチって事は同い年? 社長の方が年上に見えるってか舞美さんってやっぱり若いよね。三〇代にしか見えない!


「社長って博多生まれでしょ? 舞美さんもだったの?」


 舞美さんはこっくり頷く。


「今日こそはちゃんとご挨拶しようとお話ししたら名刺いただいて……音海おとみなんて珍しい苗字だから……ひょっとしてって思ったの。タロちゃんとジロがお世話になってる社長が佐和ちゃんだったなんて」


 二人は相当なマブダチだったらしい。取り留めのない事を話しては『そうだよね』『楽しかったね』『挨拶もお礼も言わずに引っ越してごめんね』と泣いていた。


 ちょっと羨ましかった。嬉しくて涙を流せるなんて。性差なのか? いや、ジロちゃんは偶に男泣きしてるから仕様か。俺がコタローと再会した夜は嬉しかったけど涙は出なかった。オシメ替えてミルク飲ましてやったのに、コタローもコタローでふにゃふにゃ笑っていつも通り(一時『おとしゃん』って俺を父親と思ってたんだぜあのお馬鹿)。……嬉し泣きってした事ねぇな。


 このテーブルに留まるのは野暮だな。明日舞美さんを独り占め出来るしマブダチの世界にしてやるか。腰を上げ、各テーブルの空瓶を回収しつつ、ビトーちゃんウララ夫妻、ジロちゃんコマっちゃん夫妻が座る大テーブルに足を向けるがコタローが居たので回避。クリソツ兄弟で座ったら絶対に弄られるからヤだ。……クソ。あのお馬鹿め。ちやほやされやがって。あいつ、俺よりも華があるのな。何処行っても可愛がられる。一見要領悪そうな癖に人心掌握術に長けてんだよ。無自覚なのが更にムカつく。


 仕方ねぇな。おっさん組のテーブルとSinistra組のテーブルでもまわってやるか。





 お開きし、おっさん組とSinistra組の代行運転のテールランプを見送り、店仕舞いする。俺とジロ、舞美さん、コマっちゃんが片付けていると役立たずのコタローと共に勝手知りたる我が家然なビトーちゃんとウララが手伝ってくれた。自分の店を持った今でも週一で通うビトーちゃんはホールスタッフの動きをよく心得ているから手際がいい。……いい年齢になった大酒呑みが週一で通う訳だから悩ましい腹になる訳だよな。妊婦のウララ(嫁さん。一六週目)と同じくらい腹出てる。


 酒呑めないコタローに運転を任せ、ジロちゃん夫婦とビトーちゃん夫婦を乗せたバンを見送る。


 店を閉め、舞美さんがシャワーを浴びている間に舞美さんの部屋へご挨拶(ちゃんと許可とってるからな!)。整然とした部屋には俺やジロちゃんのポスターが貼られ、本棚には写真集や切り抜き記事のバインダーが並んでいる。今日のライブのポスターまで貼られていた。ちょっとしたSinistra博物館。……愛息子、ジロちゃんの栄光の記録だらけ。片隅に俺がいるからちょっぴり嬉しい。ジロちゃん眺めるついでに俺も視界の端に映るもの。……俺なんか相手にされないのはよく分かってる。


 ……思えば中坊だった一五から三二の今までずっと恋焦がれていたんだよな。それが明日で終わる。……ジロちゃんの手前『プロポンズするのよー!』と息巻いたが想いは決して伝えない。明日で舞美さんを想うのはすっぱり辞める。一七も歳が離れていれば相手にされない。ガキの頃から分かっていた。それでも好きだった。愛していた。


 タンスの上の鬼籍の御亭主吉嗣さんの写真に手を合わせる。正直で失礼な話、写真を見る度にジロちゃんと似てねぇなと想う。吉嗣さんって優しくて人懐っこい顔してるけど、丸顔ペチャ鼻の垂れ目ちゃんで男前って訳じゃない。鼻筋通って切れ長の瞳のジロちゃんはバリバリの男前なんだよな。ごめん吉嗣。男は顔じゃねぇよな! 難攻不落な舞美さんのハート射止めた男ってだけで尊敬モンだぜ!


『明日舞美さんお借りします』と心の中で断りを入れているとピンクのパジャマ姿の舞美さんが部屋に入ってきた。ああん、エロ可愛過ぎ! 襲いたーいっ!


「わ。ごめん舞美さん。すぐ出て行くから」


 舞美さんは吉嗣さんの写真と俺を交互に見遣ると微笑する。


「ジロなんか忘れちゃってるのにタロちゃんは必ず手を合わせてくれるわね。ありがとう」


「吉嗣さんはこの店の神様でしょー。そらペーペーのアルバイトはご挨拶しなきゃ」


 生乾きのセミロングを手櫛で梳かす舞美さんは笑う。


「アルバイトどころか相変わらず『大将』だったわよ?」


「えー、やっぱり? タロちゃん、バンド辞めて本格的に歌って踊れる小林中国餐厅チャイニーズレストランのオヤジになろうかしらん?」


 ほらね? 店主の舞美さんは求愛なんぞ無視して鏡台から瓶をとってトリートメント付けてるんだもの。俺は相手にされない。毎度の儀礼だけど寂しい。ってか何より痛い。こう見えてタロちゃんのハートってばガラスの一〇代なのー。


 デジタル時計を見遣ると〇時を過ぎている。


 髪を整えた舞美さんが言葉を紡ごうと口を開くがそれを制す。


「んじゃ。明日は一〇時に出発しましょ。赤レンガ倉庫に山下公園、クルージング、中華街、タロちゃんと楽しみましょーね? おやすみなさい。ちゃおちゃお」




   ☆☆☆☆☆




 舞美さんを想うのをこれきりにしようと決したのには訳がある。


 三ヶ月前のこと。ツアーを終え、機内で花札に興じてジロちゃんから小銭巻き上げた後、到着ロビーへ向かった。コサコ氏や佐々木ちゃんを始めSinistra組は情報を漏らさないよう細心の注意を払ってたけど、現代は非情な情報社会。何処かしらでバレる。携帯端末を使えばリアルタイムで情報流せるからな……便利だけど厄介なモンだ。出待ちファンの声が荷物受け取り所のガラス越しから聞こえた。……Sinistraを慕ってくれるのは嬉しいし有り難い。しかし疲れているのに相手するのは正直キツいし出待ちはマナー違反。……予め構えないと一〇〇パーセントの笑顔なんて作れない。ファンサービスが手緩くなるし周囲の人間に迷惑を掛けるのが正直痛い。


「……嗅ぎつけられてごめんなさい」ファン達の声が聴こえるガラスを見遣ったコサコ氏は珍しく頭を下げる。


「いーのよ、いーのよ。これから休暇だし軽くあしらいましょ」革のボストンバッグを肩に掛けカララと笑うがコサコ氏はしょぼくれる。気が強いねーちゃんだけど根が真面目で仕事に真摯だから好きよコサコ氏。


「人気ないよりは有り難い事だからね。それに有り難い事にうちのファン行儀が良いし。ま、最後の仕事やりますか」フラジールステッカーまみれのギグバッグを背負ったジロちゃんはサングラス越しに俺を見遣る。


「おうよ!」


 コサコ氏を先導に佐々木ちゃんに挟まれガラスの自動ドアを潜り、ロビーへ進むと歓声が一層大きくなる。警備員に阻まれ俺たちの名を叫ぶファンに『静かにね』と唇の前に人差し指を掲げる。携帯電話のカメラを向けられ苦笑するジロちゃんの手を引きつつ左右を見遣る。


 百人くらいか? んまー、おねーちゃんばっか。平日なのにご苦労さんねぇ。


 するとファン列の後ろでぴょこたんぴょこたんと、ライブの俺張りに高く跳ねる茶髪が見えた。『ロウ! ローウ! 大好きーっ! 愛してるーっ!』ってショートカットから大きな瞳を覗かせた元気一〇〇倍の可愛い少女が愛を打ち明ける。中二くらいかしら? ちらって見えただけなのにすんごい可愛いの。まるでこすずめちゃん。どんぐり眼をキラッキラに輝かせてさくらんぼ色の唇から愛を紡ぐの。んまーあ彼氏が羨ましいわねー。ってか学校サボっちゃダメよー。あとロビーで跳ねちゃダメ。


「叫んでジャンプはダメよー?」


 声を掛けたら『はあい!』だって。こすずめちゃんはジャンプをピタッとやめると最前列のファンに隠れちまったが、懸命に伸ばした手を振っていた。何それ可愛い。


「よーし。いい子だ。俺も愛してるぜ!」ウインクしてガンフィンガーの決めポーズしちゃる。大サービスだ。


 先を進もうとした途端、重いものが落ちる音がロビーに響いた。ファンは後方を見遣ってどよめく。黒山の人だかりから垣間見えた手は見えない。


 後列から『女の子が倒れた』と声が上がった。


 ……まさか、こすずめちゃんが倒れたのか?


 ジロちゃんの手を離しコサコ氏の『警備員に任せろ』と言う制止を振り切り俺は駆けつけた。早足で向かってくる俺にファンはどよめくが構う暇はゼロ。


 ファンを掻き分け最後列に辿り着くと倒れていたのはこすずめちゃんだった。瞼を閉じ、フロアに身を委ねている。遠目から見た時よりも肌が青ざめている。


「頭打った?」


 誰ともなく問うと大学生っぽいファンの二人組は『膝から崩れたから打ってないと想う』『ロウがツキに愛してるぜって……って言って倒れた』と答えた。なるほど。原因は俺か。


「君らはこの子の連れ?」


 二人は首を横に振る。


 連れがいるか分からねぇな。……まあ大事になりゃ名乗り出るわな。大方学校サボった中坊が一人で俺に会いに来たって訳か。不良め。


「こすずめちゃん? 起きろー」


 声を掛けるが反応はない。唇に手を翳すと微かに鼻呼吸が当たった。


 遅れて駆けつけたジロちゃんに『多分失神。水買ってきて』と頼み、こすずめちゃんを抱き起こし、頬を軽く叩く。しかし瞼はぴくりとも動かない。佐々木ちゃんとコサコ氏に『空港の医務員呼ぶ?』と案じられるがちょっと待って貰った。神経が密集している手を揉んでやると微かに瞼が動いた、


「よーし、いい子だ。起きろー」


 するとこすずめちゃんの瞼が徐に開く。しかし俺と目があった瞬間、こすずめちゃんは『……ツキも愛してる』と再び気を失った。


「あらー……」


 失神で医務室にお世話になるのも事務所としては後が面倒だし、かと言って事務所に連れ込む訳にもいかない。調子に乗った俺が原因なんだから。『悪いな』と断りを入れた俺はこすずめちゃんの財布を開くと身分証を探した。保険証の他、学生証があった。都内の高校生、住所はコタローの家の近くだった。


 こすずめちゃんを抱き上げ立ち上がる。


「お馬鹿の御近所みたい。送ってくるわ」


「おまっ……。サービス良すぎだろ」呆れたジロちゃんが溜息を吐く。


 コサコ氏が『私が送る』と申し出たが断った。


「俺の所為で気絶させちまったからな」


「だけど」コサコ氏は眉を顰めた。


「やあねー。俺ロリコンじゃないわよ?」


 一旦事務所へ戻るジロちゃん達と別れ、駐車場へ向かう。スカイラインの後部座席にこすずめちゃんを横たわらせ、ナビを設定し、スタートさせる。……頼むから家まで気絶しててくれよ? 起きて誘拐と間違われて騒がれるのはおっさんキツいわ。


 信号待ちの間にカーステレオからリンダを流す。……拐かし真っ最中にリンダ熱唱する誘拐犯なんていねぇよな? タロちゃんは犯罪者じゃありませーん。


 上道に乗り、ブラスバンドが甲子園で頻繁に演奏していた曲を歌っていると直ぐだった。ナビのゴールピンもコタローが暮らすこわれ荘に近い……けど、目的地のマンションがペントハウス付きのヤバいやつ。金持ちの子供かよ。そんなん接触したら激ヤバじゃん。おまわりさーん、タロちゃん誘拐犯でもロリコンでもないのよー! 一七年上のビーナスを毎晩ズリネタにしてる万年思春期ボーイなのよー!


 路肩に車を停めていたがこすずめちゃんが起きる気配はないので腹を括ってマンションの来客用駐車場に車を停めた。


 こすずめちゃんを背負い、エントランスへ向かう(まーあ軽いこと軽いこと!)。守衛さんと目が合うと『あ。ども』と挨拶された。あー、良かった有名人で。SinistraのLowと知って通してくれたみたい。


 学生証の住所通りに最上階のペントハウスまでエレベーターで上がり、『Yamada』と刻まれた高級そうな表札の下のブザーを押すと小柄な女子高生が出てきた。


「あれ? 今日昼勤って言ってなかった? ってか背負ってるのツキ? またコタローん家に勝手に遊びに行って寝こけて! 世話焼かせてごめんね?」


 ん? コタローって……もしかしてコタローの友達が俺をコタローと思い込んでるのか? ……そういやあのお馬鹿『大学でマブダチできたー。山田ハナちゃんって言う一学年上の女の子』って話してたな。守衛さんも俺をコタローと思い込んだ訳か。お宅の門前すら顔パスたぁなかなかいい仲じゃないの。俺に似てイケメンなだけあるな。


 女子高生にしか見えない程小柄なハナちゃんとやらは俺をコタローと信じて疑わない。これは悪ガキ心をくすぐられるな。俺はコタローの振りをする事にした。兎に角馬鹿っぽく、頭にハエが止まってるみてぇに間延びして喋ればいい。


「……気持ちよさそうに寝てるから背負って来たよ」


 ハナちゃんは俺を見遣り、こすずめちゃんもとい月ちゃんを見遣ると小さな溜息を吐く。


「ありがと。ホントごめん。悪いけど部屋まで運んでくれる?」


「んー」


 人工大理石の三和土でクリーパーソールを脱ぎ、金持ちハウスに上がる。ハナちゃんはご丁寧に俺の靴を揃えてくれるが先へ進んでくれない。


 ハナちゃんは俺の背を見つめる。


「コタロー? ツキの部屋まで運んでくれる?」


 う……。話ぶりから察するにコタローは幾度かお邪魔してるんだろう。しかし俺は上がるのは初めてだ。どの部屋に連れて行けばいいかなんて分からん。意図しない行動とってバレて騒ぎになる前に潔く観念するか。……どうなるかなー。まあ怒られはしないでしょ。コタローの兄貴ですしロウですしおすし。


「悪い、ハナちゃんとやら。俺、コタローじゃないの。兄貴の方。SinistraのLowです」


「え!?」





 年甲斐なくポンポン怒られちゃったよ。しかも干支が一回りも違う女の子に。まあ騙ろうとした俺が悪いんだんけど……容赦ナイネ、オジョウチャン。


 経緯を説明し納得して貰って平謝りした後、ハナちゃんに案内されツキ(男の子だったのね)の部屋に入る。ぶっ魂消た。壁一面をSinistraのポスターが覆っていた。飾り棚にはメジャーデビューした頃からの初回限定版と通常版の音源が立てかけられ、ライブ会場限定グッズやサブローのミニチュア、俺のマイマイクたる流星号のレプリカやミニフィギュアが所狭しと並んでいる。舞美さんの部屋がちょっとした博物館ならツキの部屋はオタク部屋。バリバリに気合が入ってるってかグッズ代三〇〇万吹っ飛ぶどころじゃない。流石金持ちの子。やる事が徹底的でスケールでかい。


 ツキをベッドに下ろしてタオルケットをかけると改めて部屋を見渡す。


「すげぇ」


「……Lowとしては引く?」ツキの姉たるハナちゃんは眉を下げて問うた。


「いやいやいや。ここまで想われたら本望ってか感謝感激雨アラレよーん。……俺のグッズ多いし、俺を呼んでたし、ツキは俺の大ファンでいいのよね?」


 ハナちゃんはこっくり頷いた。


 胸がキュンとした。こんなに深く愛されてるなんてニヤつきが止まらない。にちゃにちゃ笑いながらCDラックを眺めているとインディーズ時代の音源を見つけた。


「お。南極時代のじゃん。幻のファーストから輝かしいラストシングルまで全部揃ってる。……ファーストってツキまだ生まれたばかりでしょー。もしかしてパパ上の物だった?」


「ううん。流石にその頃はまだ知らなかったよ。オークションでの戦利品だよ」


「流石金持ちの子供。うーらまーやしーい」


 微笑を浮かべたハナちゃんは首を横に振る。


「……ツキね、漸くコンプリートさせたの。滅多に出回らないファーストシングルの競りに勝ったって先月大はしゃぎして……」


「先月? ネットオークションでしょ? 話題になったわよね! 俺も競り眺めてた! 一〇〇〇円のシングルが一〇〇万超えて盛大にゲラったわ」


「蒐集物の中で一番高いと思う。駆け出しのLowの歌がどうしても聴きたくて競り合ってたの。……ツキね、通信高校の生徒でもあるけど小さなゲーム会社の社長なの。こう見えてしっかりした子。『Lowの音源はどんなに高くても稼いだお金で買う。Lowだって稼いだお金で音源作っていたんだから』って誓いを立ててるの。憧れのヒーローが汗と涙を流して掴み取った物ならツキも同じ事するって……ちっぽけな男の子を動かしたんだよLowは」


 胸が熱くなる。ハナちゃんは話を続ける。


「音源が届いてからずっと流してた。今の洗練された曲じゃなくて荒削りで拙いけど熱い曲……ずっと聴いてた。私が歌詞を覚えちゃうくらいに何度も何度も。『あのLowにもはじめの一歩があったんだよ! ボクも走らなきゃ!』って」


「……え。歌ってた俺でさえ『歌詞も歌もド下手クソな音源に一〇〇万なんてよう出すわ。酔狂ねぇ』って思ってたのに……。ツキはそんな事思ってくれたなんて」


 ツキの寝顔を見遣ったハナちゃんはにっこり笑む。


「この前ね、Lowの何処が好きなのって聞いたら『ロックな所! でも一番は熱く何処までも突っ走る心意気! ボクもLowみたいに突っ走るよ!』って。歌もパフォーマンスも大好きだけどLowの心意気が一番好きだって。そーゆー熱いファンなんですウチの弟は」


 ツキは俺を一人の人間して応援してるのか……。俺は何も分かってなかったんだな。何も見えてなかった。こんなにも深く想うファンがいるのに毎回舞美さんの為に歌っていたなんて……。俺の歌が心に届く人いたんだな。。


 悪かった。これから俺の歌を聴いてくれる人の心にもっと響くよう歌う。


 胸が甘く疼いた俺は無邪気な顔をして眠る大ファンの頬に唇を寄せた。





『送ってくれたお礼にお茶でも』とハナちゃんのもてなしを受けた。高い豆を挽いたコーヒーをご馳走になりつつ、保護者面談宜しく大学でのコタローの話を聞いているとダダダダダダダ、と駆け足が聞こえた。


「ハナちゃんハナちゃんっ! ツキね、ロウに会ったんだよーっ! でねでね、ロウに『俺も愛してるぜ!』って言われたのーっ! 相思相愛なんだよーっ! ツキね、ロウと結婚するーっ! 嬉しくて嬉しくてもう死んじゃーうっ!」目覚めたばかりだろうがはしゃぎ倒すツキがハナちゃんの首っ玉に抱きつく。


「うん。そうらしいね」


「へ? なんで知ってるの?」


「送ってくれた本人から聞いたもの」


 カップに唇をつけたハナちゃんは俺を見遣る。俺は『おっぱよーん』とツキに手を振った。ツキは硬直する。そして白目を剥き背中から倒れかかった。俺は瞬時に腰を上げ抱きとめた。


「だーっ! これで三度目よー!」


「折角プライベートで会えたのに……この子、ロウと真面に顔を合わせられないんじゃない? ファンとしては致命的」


「折角だから起きてくるまで待とうと想ったけどこれじゃ埒明かんな。そろそろお暇しますわ」抱き上げ寝室へ運ぼうと立ち上がるとツキに首っ玉をがっしり掴まれた。


「ヤああああんっ! 婚姻届書くまで帰さないいいいい」


 うおー、マジか。マジでめためたにポーなのか。ってか覚醒早すぎだろ。


『分かった、もうちょっとお邪魔するから』と下ろすとツキにキラッキラの視線を向けられる。


 ツキを膝に乗せコーヒーの残りを楽しむ事にした。ハナちゃんは俺を気遣って『重いでしょ。降りなさい』とツキを窘める。しかしツキは俺の首っ玉にがっしり抱きつく。


「ヤ! ツキはロウのお嫁さんなんだから! ここはツキの玉座なの!」


 確かに金玉あるから玉座には変わりないってか可愛い顔でンな事言われたらちょっぴり勃っちゃうじゃないのー。


「んもー。ツーキー? 良い加減にしないともう漫画貸さないよ?」頭を片手で押さえたハナちゃんはツキを睨む。気が強い女の子だなぁ。舞美さんっぽい。血は争えんな。俺もコタローも気が強い女好きだもんな。


 ツキは『ロウが居るから漫画なんていらないもん!』と唇をブルブル震わせた。


 ハナちゃんの片眉がぴくり動く。あ。ヤバいやつだ。


「だーいじょぶ、だいじょぶ。俺鍛えてるしツキなら二人くらい抱えられるから。余裕余裕」フォローを入れツキの頭に手を乗せるとツキはゴロニャンしな垂れ掛かる。


 ハナちゃんは頬を染めて俯く。


「でも膝の上は恋人の場所でしょ? そんな特別な場所に一ファンが上って良いものじゃないでしょ?」


 んまーあ。もじもじ可愛くて新鮮な反応。まるでコマっちゃんじゃないの。……エッチ友達を対面座位で突き上げてるとは口が裂けても言えないわねー。


「フリーだから大丈夫よー」


 ツキは『ツキがお嫁さんになるんだもん』とすかさず抱きつくが適当にあしらう。


「まあ二〇年近くも片想いの人は居るけどね」


 眉を下げたツキは唇を尖らし、ハナちゃんはどんぐり眼を見開くと問う。


「え……。やっぱりセグ?」


「セグ!? ってか『やっぱり』ってマジか!」


 盛大にゲラっているとしょぼくれたハナちゃんは眉を下げた。


「……ごめんなさい」


「しょげないでよベイベー。ま、勘違いされても仕方ないかもねー。ジ……じゃなかったセグとはファンの前でしょっちゅう手ェ繋いでるし、一時は一緒に生活してたものねー」


「カモさんの歌番でよくコソコソ耳打ちしてるのに?」しょげてたハナちゃんは悪戯っぽく笑う。切リ替エ早イネ。


「あー、耳打ちね。俺こんな喋り方の上にエゲツない事ズバズバ言うから『メディアの前では寡黙に過ごせ』って社長から命じられてんのよ。でもどうしても喋りたい時ってあるじゃない? ミスター無難ことセグに『これ発言しても無問題モーマンタイ?』って聞いてんの」


「なるほど……確かに歌番とイメージ違うなって想った」


「でもMCはこの調子でベラベラよ? それがウケてライブ参戦する人多くて助かってる。社長の戦略なのよねー」


「セグじゃなかったら片想いの人って誰?」眉を下げたツキは問うた。


「ぐふーっ。そんなに知りたい? でも、ひ・み・つ。……まー、俺がどんなに求愛しようと相手にされないんだけどね。その人の為に歌っても届かない。その人の視線の先はいつも大切な家族か雲の彼方。俺が入る余地は全くないのよ。……だからちょっと疲れちゃった」


 乾いた笑いを吐く。……未来に希望を抱く若い子に何話してんだよ俺。お馬鹿だな……。何か居心地良くて話しちゃったよ。コタローって良い子達と友達になれたんだな。あのお馬鹿と仲良くしてくれてありがとね。


 ハナちゃんとツキは俯く。


 ヤベヤベ。こんなしみったれた空気作るのは良くねぇ。俺は満面の笑みを浮かべる。


「今までその人の為に歌ってたけど、ツキに出会って猛省したわ。ツキは俺の心意気を抱きとめた上でファンでいてくれるんだもの。そーゆー熱いファンの為に、そしてロックを愛する自分の為に歌いたいと思いますですハイ」




   ☆☆☆☆☆




 翌日つまり最初で最後のデートの日、舞美さんは可愛かった。激マブだった。脳天カチ割れる程に綺麗だった。赤いミュールにマキシ丈のスカート。そんな可愛いカッコしてたら異人さんオレに外国へ連れてかれちまう。……まーあ、タロちゃんは紳士だからちゃんとお家に帰してあげるけどねー。


 道中、観光客に『アレってLowじゃね?』『Lowだー』と遠巻きに声を掛けられたので軽く手を挙げて早足で通り過ぎた。中華街をブラッチし壁に油が染みた馴染みの中華屋(デート向きじゃないけどめちゃ美味。俺の一押しの店)で食事した後、山下公園から赤レンガ倉庫までのんびり散歩し、クルージングを楽しみ、大桟橋埠頭でフェンスに寄りかかり夜景をぼやっと眺めた。


 デッキから闇色の水平線を眺めているとサーシャばあちゃんを思い出す。……飛行機があった時代でもばあちゃんは船でこの国に来たんだよな。俺、トオルの縁故者(他界してる)も知らなければ死んだ母ちゃんの血縁者も知らねぇ。俺の血縁はコタローだけ。ばあちゃんの故郷のアイルランドには俺の血縁者がいるのかな。いなくても行ってみたい。ばあちゃんがどんな国で空気を吸っていたのか知りたい。……帰ったらチケット取ろう。纏った休暇も取れたし行き当たりばったりで旅するのも悪くねぇな。


 溜息を吐くと隣で穏やかな夜風に吹かれていた舞美さんが俺の顔を覗く。


「……やっぱり疲れちゃった?」


「ん? 憧れの舞美さんとのデートで疲れる訳ないじゃない」


「ライブの翌日なのに色々案内してくれてありがとう。楽しかったわ」


「タロちゃんも舞美さんとのデート楽しかったのよー。付き合ってくれてありがとね!」


「……以前から約束してた事だから……条件なんて疾うに達成してたのにどうして今になって」


「忙しかったのよー。決して忘れてた訳じゃないからね? ジロちゃん結婚したから舞美さん寂しがってるんじゃないかって。弱った隙をついた訳なのよー」


「ふふふ。優しいタロちゃん」


 ごめん舞美さん。半分ホントで半分嘘。ツキに出会って色々考えさせられた。俺の歌は舞美さんには届かない。プロになってもちょっぴりたりとも届けられない。だけどツキを始め俺の歌を心から望んでくれる人の為に、自分の為に歌いたいんだ。だから……今日で舞美さんに焦がれる俺とは別れる。舞美さんを好きなままでいると舞美さんの為に歌っちゃうから。キラキラの想い出を作って満足してすっぱり諦める。だから今日誘ったんだ。


「タロちゃんが舞美さんに優しいのは当たり前なのよー」


「あら。どうして?」舞美さんは微笑を絶やさない。


「だって舞美さんは俺の恩人だもの」


 最大のチャンスをふいにした。以前なら『舞美さんは俺のビーナス』とか『結婚したい人ナンバーワン』とか言っただろうな。本気で言っても絶対に相手にされないけど。


『舞美さんは居場所を与えてくれたし、ジロちゃんのお袋さんだし、手料理で俺を充分すぎるほどデカく育ててくれたんだもの。感謝しかないのよー』と補足すると舞美さんは瞳を伏せて微笑んだ。


 スカジャンのポケットの中の携帯電話が振動する。メールの確認序でにデジタル表示を見遣ると九時を過ぎていた。


「んじゃ。そろそろ帰りますか」


 寄りかかっていたフェンスから上体を起こし『足許暗いから気を付けてね』と一歩先を歩く。舞美さんは静かに後を従った。





 帰路の車内で舞美さんは舟を漕いでいた。そりゃ疲れちゃうよな。ライブ参戦した直後に店を切り盛りして翌日にはデートだもの。遅くまで連れまわしてごめんね。でもすんげぇ楽しかったよ。ありがとう。パーキングエリアでメールの返信がてらカーステレオを弄り、BGMをロックからジャズに替えた。


 上道を下り、市街地に入る。心地の良い甘い夢から現実に引き戻される。俺の想いもこれで終わり。


 音声案内の終了と共に見慣れた店がフロントガラスに入る。


「舞美さん、着きましたよーん」


 瞼をぴくり動かした舞美さんは『……ん』と呟くと手の甲で瞼を擦る。起き抜けの所為か反応が鈍い。下ろしてバイバイのつもりだったけど……家まで送ってあげるか。


 フラフラ立ち上がる舞美さんを案じつつ自宅に繋がる外階段に足を踏み入れる。すると『店でお水飲む』と舞美さんは寝ぼけ声で鍵を渡してきた。そだね。このままじゃ階段すっ転びかねない。十年前、一階店舗でへべれけになって二階の自宅へ上がろうとしたら階段から落ちたもんな……。無理させちゃなんねぇ。一度頭シャッキリさせた方がいい。


 店舗を開けると舞美さんはフラフラと厨房に入る。


「舞美さーん。タロちゃんがやりますよー?」


「んー。大丈夫……」


 店舗の引き戸を施錠すると華奢な舞美さんの背を見送る。眠くて間延びした声……コタローの口振りと似てるのにどうしてこうも舞美さんは可愛いんだろうな。


 今日を機に暫く訪れない。舞美さんを平然と見られるまで数年かかると思う。見納めだろう、と想い出深い店内を眺めていると厨房から『タロちゃんも飲むー?』と声が聞こえた。


「めるしー。喉カラカラ。貰いまうす」


 厨房へ向かうがコップを二つ手にした舞美さんがフラフラとホールへやって来た。んもう、三歳のコタロー並に危なっかしいわねー。見てらんない。


 コップを取り上げるとカウンター席を勧める。


「ちょい座りましょうぜ。このままじゃ階段上がれないでしょ。舞美さんってば寝起き悪かったっけ? フラフラしてると心配だなぁ」


 寝ぼけ眼の舞美さんは椅子に座すとコップに唇を付ける。俺もそれに倣い、水を一気に喉に送るが噴いてしまった。


 何コレ日本酒じゃん。


 噎せて咳き込みつつ箱からティッシュを引き出す。


「ま、舞美さん! これ酒! これじゃ俺帰れない!」


 舞美さんは俺を横目で見遣るとコップに唇を付ける。


「帰す気ないもの」


 いやーん。そんな台詞、ウブな一五歳で聞きたかったーん……って男前な舞美さんにうっとりしてる場合じゃない。


「冗談よしこさん! 悪戯が過ぎるのよ舞美さんてば」


 気管にアルコールが入った。胸を叩きつつカウンターを拭いていると、舞美さんが口を開く。


「……どうして素っ気ないの?」


「へ?」ティッシュを持つ手を止めカウンターから顔を上げる。


 いつの間にかシャッキリした舞美さんは俺を見据える。


「昨日からちょっと素っ気なかった。いつも『舞美さん、舞美さん』って寄り添ってくれるのに」


「心外だなー。昨日は社長と昔を懐かしんでたでしょー。部外者の俺が居たら野暮じゃないのー」


「その後、タロちゃん来るのずっと待ってた! だのにタロちゃんスタッフさんや及川先生達とべったりで……」眉を吊り上げたり八の字にしたり舞美さんは忙しい。


「俺を待ってくれてたの? あらー。それはごめんね?」


「ほら! 素っ気ない!」舞美さんは我がままな子供宜しくぷいと顔を逸らした。


「……どったの舞美さん? 酔ってる?」


「酔ってない!」カウンターに片肘を突いた舞美さんは華奢な肩を怒らせる。


「んもー。意地っ張りなんだからぁ」まぁコップ一杯で酔わないもんな。……世話が焼けるぜ。


 小さな溜息を吐くと舞美さんの肩がビクッと震える。


 ティッシュじゃベタベタが取れないな。濡れ布巾を持ってこよう。厨房へ向かった俺はワークトップに置かれた一升瓶を取る。……久保田じゃないのー。しかも萬寿。すっげぇ高くて美味い酒。驚いて噴き出したのが勿体なかったなー。


「タロちゃんと一緒に呑もうと想って買ったの。……だのにタロちゃん素っ気ないんだもの。いつもライブ後でも夜更かししてるって話してた癖に昨日に限ってさっさと寝ちゃうし」カウンター越しに舞美さんの潤んだ瞳が見えた。


「ごめん舞美さん。もう今日は乗れないし今からでも良いならお相伴させて?」


 一升瓶を提げカウンター席へ戻ると舞美さんは何処かホッとした顔をしていた。


「はい。じゃー仕切り直し。乾杯」


 日本酒を満たしたコップを合わせまずは一口。……あーあ。アイルランドに傷心旅行しようと企んでたのに滅茶苦茶だ。以前の俺だったら『舞美さんと二人きりのラブラブタイム』とか言って張り切って呑んでたんだろうな。


 何かアテでも持ってこようかな、と厨房の乾物棚を眺めていると舞美さんが口を開く。


「今日も……タロちゃん、何だか素っ気なかった」


「ん? 俺はいつだって俺節よ?」


 舞美さんは首を横に振った。


「えー? そんな事ないのよ? ……もしかしてエスコート気に喰わなかった?」


 舞美さんはコップを置くと居住まいを正し俺を見つめる。


「……タロちゃん、私の事嫌いになっちゃった?」


「どうして? 俺、舞美さん大好きよ?」


「いつものタロちゃんじゃないもの」


「いつもよりもクールでカッコ良かった?」


「いつもよりドライで他人行儀だった」


 ……う。鋭い。確かに前回カウントダウンライブの直後に店に帰った時はまだツキと知り合ってなかったからな。って事は……舞美さん俺の純情な恋心、真面に受け取ってくれてたの? まさか。いつも『またふざけてる』って感じでクールに右から左へ流してたじゃん。あり得ねー。カミナリ様がヘソの佃煮喰ってる程にあり得ねぇ。


「気の所為よ、気の所為! いつも通りなのよー」


 笑い取り繕うが舞美さんは首を強く横に振る。


「……デート条件の四週連続ランキング一位達成したのは数年も前なのに……やっと誘ってくれたと想ったら素っ気なくて。いつもなら『舞美さんの為』とか『タロちゃんは舞美さんだけの歌って踊れる小鳥さんなのよー』『舞美さんの手料理だぁい好き』とか笑って抱きついてくれるのに。……なんだかこれでサヨナラみたいで私、悲しい」


 うーん……俺の思惑バレてるな。バレないようにやらしく……じゃなくて優しく紳士的になるべく触らないようにエスコートしたのに。流石喰い物屋の店主。洞察力は半端ない。


「実は結婚したいヒト出来た。事務所の新入りのおねーちゃん。今度プロポンズするの」


「嘘。絶対に嘘」舞美さんは俺を睨めつけた。


「ホントよ、ホント! もう突き合ってるんだってば!」


「嘘。どんな女の子とセックスしてもタロちゃんは私が一番だもの」


「たはー……お突き合いがバレてる……」


 ほらね? 俺とジロちゃんが高校生の頃から舞美さんには嘘吐けないし隠し事は無理なのよ。舞美さん守る為に家を出た事も隠れてタバコ吸ってた事も全部バレてた。俺が嘘こくの下手なんじゃなくて舞美さんの洞察力がヤバいの。刑事ドラマの皺くちゃ老刑事みたいに一流なのよ。警部の前じゃ完全犯罪なんてないの。ここまで追い詰められると観念しなきゃならん。……しかしズルい女だよな。舞美さんにはその気は全くないのに『好き好き大好き』って求愛されてなきゃ気が済まないなんて……流石俺が愛した女王陛下だぜ。やれやれ。


 俺は今までの舞美さんへの想いやロックへの想い、SinistraのLowとしてツキに出会って考えが変わった事、恋焦がれたままでいると自分や熱いファンの為じゃなく舞美さんの為に歌ってしまうからすっぱり諦める事、今日のキラキラの想い出を大切に胸に仕舞っておく事を吐露した。


 ……余す事なく話すと気恥ずかしい。ってかこれってある意味プロポーズだよな。いや、振られるって分かってるから求婚しないけど。舞美さんには会う度にノリで求愛してたけどさ、真面目に『好きです』なんて告白したの生まれて初めてだわ。いやー三〇超えて不甲斐ねぇな俺って。今日はいい人生経験したわ。今更だけど。


 ま、話しちゃうと気が楽だわ。後腐れがない。これで店に暫く来なくても察して貰えるし、再び会ったとしても変にぎこちなくなる事はない。笑ってバイバイ出来る。墓場まで持って行こうとしたけど話して良かったわ。いやしかし車出せないからこの後店に泊まるとかカッコ悪いな。まさか一八〇〇キロのスカイラインちゃんを押して帰る訳にはいかんし……代行呼ぶか。こんな滑稽な事で考えを巡らせるなんざ俺、相当テンパってるな。あー恥ずかしい恥ずかしい。


 一升瓶をコップに傾けていると舞美さんは問う。


「……私のこと今でも好き?」


 好き。大好きに決まってるよ。


 全力で頷きたいけど言葉にしたいけどこれ以上はダメだ。俺は俺のロックをやる。


 一升瓶を置いた俺は曖昧な微笑を浮かべた。


 舞美さんは瞳を伏せコップを傾ける。


「……タロちゃんの歌、いつだって私の心に届いていた」


 嘘だろ……? 舞美さんはいつだって息子のジロちゃんを見つめてたじゃないか。


「高二の学園祭のライブでもインディーズ時代でも昨日のSinistraのライブだって……。真剣な眼差しでギターを弾く息子より、隣で跳ねて踊って歌うキラキラのロックシンガーをいつだって見つめてた。……薄情な母親よね。息子よりも好きな男性を見つめるなんて。息子と同じ歳の、一七も離れた男の子を」


「舞美さん……?」


「私だけの歌って踊れる小鳥はどんどん高みへ昇って……いつの間にか手が届かない程に大空高く舞って……。ああ、いつか私の声すら視線すら届かない何処か遠くへ飛んでいってしまう。それが嬉しくて寂しくて怖くて切なくて……でもそんな事言える訳ないじゃない。顔に出せる訳ないじゃない。みんなに愛されるロックスターのLowの足枷にしかならないわ。それに年甲斐もなく若い男の子を好きになるなんて。タロちゃんはもっと遠くへ高くへ飛ぶべきよ。それだけ大きな器から才が溢れているんだもの。私なんかが傍に居ていい人間じゃない。でも傍に居たい。タロちゃんには若い女の子の方が似合ってる。でも私も好かれたい、……矛盾してる。自分でもどうしたいか分かんなくなっちゃって……だからタロちゃんにデートの約束せっつかれた時、困難な条件を出したの。……だのにクリアしちゃうんだもの。希望を持たざるを得ないじゃない……私の為に歌ってるんじゃないかって」


 嘘だろ……。舞美さん、俺をずっと見てたの? だって、だって……舞美さんはいつだってクールで俺を『息子のマブダチの秀才タロちゃん』としか見てなかったじゃないか。だのに俺の歌が、想いが届いていたなんて……。


 頬を伝う涙を拭う舞美さんは俺を見据える。


「タロちゃん……ううん、東條太朗さん。小林舞美はあなたがずっと好きでした。……両想いじゃダメですか?」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の瞳から熱い雫が溢れるのを感じた。





「ぐふふふー。それでねっとりラブラブなチューからのお泊まりでせっせとジロちゃんの弟妹仕込んでた訳なのよねー」


 休暇明け、事務所へ向かう車内でジロちゃんに全てを話した。


「……って言う芝居の込んだAVを一晩中見てました? めでたしめでたし?」眉間に皺を寄せ片手で頭を抱えるジロちゃんは運転席の俺を見遣る。


「ノンノン。明け方までヌカ六、ご馳走様でした」


「まじかよ。まじでキめやがったかこいつは」


「休暇中はずっとホール捌いてたのよねー。『大将戻ってる』って人伝に聞いた古参客が押し寄せて繁盛繁盛、大繁盛。昼はホールに専念して夜は舞美さんのホールに専念して、睡眠不足だけどタロちゃんってばお肌ツヤッツヤなのよーん」


「馬鹿。誰も母親の性生活なんて聞きたくない」


「んもうジロちゃんてば結婚しても親離れしないんだから。これは俺の性生活。ぐふん」


「尚更聞きたくないよ……」


「いい加減乳離れしてよねー? 舞美さんのおっぱいはタロちゃん専用なんだから」


「きんもっ!」


「んまーあ。パパに向かって『キモい』とは失礼な長男ねー」


「やめろ。やめてくれ。仕事前だってのに俺のライフは疾っくにゼロよー」


「ジロちゃんも新婚さんだから休暇中は毎晩ヤってたんでしょー?」


「うるさいな。ヤって悪いか!」


「あらー。図星」


「コマチが可愛い過ぎるのが悪いっ! 俺は悪くない!」


「まーあ。無責任な悪いオ・ト・コ」


 交差点を右折すると事務所のビルが視界に入る。


 夢のような休暇は終わりか。


『あーあ』と独りごちようとすると欠伸が出る。助手席のジロちゃんもつられて大欠伸を浮かべた。そら互いに眠いよな。まるで机でヘタれる月曜の男子高生。


 もうガキじゃない。それどころかそんなに若くもない。でも俺らはいつまで経っても『男子』だよな。


 横目で助手席を見遣り悪戯っぽい笑みを浮かべるとジロちゃんも悪戯っぽく笑った。


 

 

 









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