Track 07 Judgement Day


『結局俺の取り分から少しあげる事にしたのよねー』と食後に自室のベッドで寛ぐタロは笑った。


「またどうして?」


「キョーコちゃんにカオルちゃん、マユミちゃんにミナコちゃん……おねえ様方、女の貴重な時間をトオルちゃんに注いだ訳じゃない? 金と地位しか取り柄のないザー汁ダラダラ腎張おじさんによ? 漸く離婚した、と想ったらでっけぇコブが付いてるしその上しぶちんに磨きがかかって最低限の金しか渡さず誰とも結婚しないの。愛があったっちゅー訳じゃあねぇだろうがおねえ様方は金蔓トオルちゃんとの永久就職やお金待ってたのにねぇ? おねえ様方も彼氏との結婚や大きな仕事棒に振ってまでトオルちゃんに期待してたのに。そらコロっとおっ死んでドラ息子二人が金掻っ攫ったら鶏冠にクるわなぁ」


「そんな事最初から分かってだろ?」


「そらそうよ。鶏冠にキたおねえ様方が店に来たら何するか分からんからタロちゃんはケツまくって逃げたのよ? だのに凶暴キョーコが来て俺の舞美さん睨んでたのねぇ? 困ったねーちゃんだ」


「おまっ……何でそれ知ってんだよ。話してねーだろ」


「谷口のおっさんから聞いたのよー」


「谷口さんって……グルだったのかよ! 人が悪い! こんな事お袋に話せねぇ。タロいなくなってから精神状態おかしかったもん。ってかタロは住所不定だったし携帯も通じなかったじゃねぇか! どうやって谷口さんと連絡するんだよ!」


 タロはにっかりと歯を見せて笑むと枕の下から新しい赤い携帯電話を取り出す。


「敵を欺くにはまず味方から。古い携帯は谷口のおっさんに預けてんの。電源なんて点けたらGPS使って母性の塊舞美さんが追いかけて来ちゃうでしょ。でも店へ通ってくれる谷口のおっさんと連絡する為に携帯は必要だったっちゅー訳。おっさん責めちゃダメよ? 無理言って協力して貰ったんだから。舞美さんを少しでも安心させる為に生存確認っちゅー事で速達送ってたのよ。……でも舞美さんを危険に晒したのは俺のミスだわ」


「それでもお袋はタロと一緒に居たかったんだからな。大立ち回りした後、凄まじく落ち込んでた」


「ぐふーっ。俺の為に素手ゴロタイマンしてくれたのよねー。男冥利に尽きるー。ぐふふ、見たかったな舞美さんの愛の大立ち回り。さぞやハクかったでしょうねー」


「止める立場にもなってくれ……まるでサファリパークだよ。ゴリラパワー秘めてて大変だった。更には子殺しされたメスライオンみたいに目を据わらせてたから。……お袋のタロへの情って母性じゃねぇか?」


「母性でもいーの。まずは息子枠。その内、モンちゃんのパパ枠に入るから」


「やめろ」


 ぐふふと笑ったタロは満足そうに瞼を閉じるとそのまま寝てしまった。


 翌日からタロは学校へ戻った。俺とタロは同じクラスだったので行事の進行状況や割り振られた係等案内した。今年も同じクラスになった立花はタロの帰りを非常に喜んでくれた。『タロ君の為に体育係取って置いたよ! また一緒に頑張ろうね!』とはしゃいでいた。っちぇー。立花に好かれて羨ましいぞタロめ……。先月の係決めで男子体育係に挙手したら立花に妨害されたんだよな。『女子体育係として去年体育係だったタロ君を推薦します。木枯らし君はクラス委員なので係の掛け持ちは大変だと思います。でもタロ君が戻るまでのピンチヒッターとして宜しくお願いします』って。……何なの体育係って。体育係の何がそこまで絆を深めるの。約一月、教室の鍵閉めに貴重品預かり、用具の整理、怪我人の搬送等々こなしたけど立花との仲は全く進展しなかったぞ。


 タロが戻った余韻に浸る間もなく中間試験が始まった。


 春休みからずっと今までが試験勉強だった。今更慌てる事はないが不安だ。事故に遭うまではタロがマンツーマンで教えてくれた。お馬鹿でも分かる参考書やタロがまとめてくれたノートを杖に寝る間を惜しんでガリ勉してきたが不安でしかたなかった。学年一位は無理なのは分かってる。秀才タロ様の玉座だからな。だけど……三位以内には入りたい。入れば特待生として学費が免除される。俺は高校生活を続けられる。


 三日に渡る一〇教科試験を戦い抜き、土日は全教科満点常連のタロと答え合わせし、大体の点数を弾き出す。秀才タロ様は無論一〇〇〇点満点、俺は大体九七五点と言った所だった。


「やるじゃん」タロは陸上を辞めて伸びて来た俺の髪をわしゃわしゃと撫でる。


「うん。タロのお蔭だよ。ありがとう。自分でも過去最高だと思うけど……一位から二五点も離れると心配だ……」


精一杯やって来たつもりだが……結果が全てだ。陸上競技で戦って来たから分かる。事故に遭って陸上を辞めても優秀なコーチタロについて貰ってるけど、俺は選手がくせいとしては凡才だ。


定休日の昼下がり、カウンターでタロと肩を並べ書き込みだらけの問題用紙を眺めていると心臓がきうきう痛くなる。


「そんな顔しなさんな。まずはここまで一人で登った事を祝いましょーや」タロは俺の肩を軽く叩く。


「うん……でも……」


「キングオブお馬鹿のモンちゃんがここまで登れたじゃない? 俺のノートがあったとは言え、一人で登ったのよ? 俺がついていた時よりも高い高い所へ登ったのよ? これって男じゃなぁい?」


「う……ん」


 グズグズ引きずっていると厨房で餃子の皮を拵えるお袋にぴしゃり叱られた。


「ジロ、過ぎた事を嘆くのはやめなさい。腐っても沈んでも浮かんでも飛んでも、人間は前進しか出来ないんだから。しっかり前を向きなさい。しっかり歩きなさい」


「流石舞美さん! いい事言うっ!」タロは粉だらけのお袋の手とハイタッチした。


「不安は分からなくもないわ。ジロを産む前、不安でいっぱいだったもの。お腹にいる頃からジロは大きくてね。だのに私は骨盤小さいし一〇代の娘さんだったからちゃんと産めるか育てられるか不安で不安でしかたなかった。過ぎゆく一日一日がとても苦しかった。赤ちゃんに会う日が怖いなんて……酷い母親だと思ったわ」


「お袋……」


「でも吉嗣さんが隣に居てくれたし、古参のお客さんも励ましてくれたし色んな人に背中を押されてジロに会えた。吉嗣さんに先立たれて自転車操業だったけどジロを始め色んな人に背中を押されてやってこれた。今のあなたはすごい確率でここに座ってすごい確率で起きた事に悩んでるのよ? いつも何かに夢中になって、自分に厳しい努力家で、素晴らしい親友に支えられて、素敵な女の子に恋して……いい人間に育ってる。それだけでパーティーじゃない? 過ぎてゆく一日一日を楽しみましょうよ」


 お袋は満面の笑みを咲かせると『秘蔵の紹興酒アレ出して。ちょっと酔わせないとこの子ずっと自分のお葬式してるから』とタロに頼んだ。おーい、お袋ー。未成年に酒はーって、グラスを哺乳瓶みたいに口に押し付けるなタローっ!





 月曜はタロと共に一番に登校した。部活棟からは生徒の声が聞こえるが校舎にはまだ人の気配は感じられない。早る気持ちを抑えられなかった。


 上野高はピアスOK髪染めOKと自由な校風だが勉学はちょっと古い体質で、成績は大掲示板に模造紙で張り出される。一応プライバシーを考慮して順位、点数、学籍番号しか記さない(それでも仲いい奴の番号なんて覚えてるからこーゆー配慮ってあくまでも建前だよな)。毎回各学年の総合十位、各教科十位までしか記さない。タロも立花もそこの常連だ。下駄箱にローファーを突っ込むとまだ灯りの点いていない廊下を進んだ。


「わーお。マジで一番乗り。この分じゃセンセ達もまだでしょ」


「……ごめん」


「ごめん禁止。聞き飽きた。事故の時から言うとるやろ。次言うたら息子棒に赤ペン捻じ込むわよ?」


「勘弁」


 誰もいない廊下を歩く。生物室前の飾り棚に鎮座する魚貝の標本が崖っ淵の俺を睨む。しらっちゃけた内臓が俺を苛む。いつもはただ通り過ぎて気にも留めないのに今は指差され嘲笑される。居た堪れなくなり先を急ぐ。階段を上がり放送室を通り過ぎ職員室前の大掲示板に辿り着くが順位発表の模造紙は貼られてなかった。


 誰もいない職員室を前に廊下に座りタロが持って来たスナック菓子とサンドウィッチを食べていると数学の小早川センセがビジネスバッグ片手に現れた。


『コバセン、おはこんー!』と挨拶するタロの隣で俺は小早川センセに会釈した。


「相変わらず仲いいなお前ら。優雅にピクニックか」眼鏡の奥で小早川センセは笑う。


「チーズとワインがあれば最高なんすけどねー」タロはカララと笑う。


「ナマ言いおって」


「それよか順位表まーだー?」


「待ってたのか?」


「そそ。一番乗りしたのよー」


「東條は見る必要もないだろ。余裕でチャンピオンベルトだろう。今回も数学満点だったからな」小早川センセは職員室の自動ドアに鍵を挿し解錠する。


「コバセンが採点したの? 総合順位分かる?」


「いや。数学だけしか順位は分からん。お前らの担当の久保田先生にこっそり見せて貰ったんだよ。東條も小林も数B数Ⅱ共満点だったぞ」


「ふわっふーっ!」タロは俺の背をバシバシ叩いた。


 数学は一番力を注いだので安心した。……しかし総合順位を確かめるまでは安心出来ない。


 自動ドアが開くと小早川センセは『貼り出すの手伝え』と職員室へ入る。にやついたタロに背をバシバシ叩かれつつ俺もセンセの後に従った。


「小林は今回よく頑張ったな。でかした。去年俺が教えた時でも八〇点には手が届かなかったからな」灯りを点けた小早川センセは丸まった模造紙を手に取ると自身のデスクからホチキスを取る。


 小早川センセを先頭に大掲示板に向かう。耳の奥で心臓がバクバク鳴り響いてる。大会でさえこんなに緊張しなかったのに。小早川センセが持つ模造紙を直視できない。


「東條か小林、どっちか俺に合わせて端持ってくれ。それでどっちかがホチキスで打ち込んでくれ」


「俺、端持ちます」見たいけど見たくない。顔を逸らせば文字が見えないだろう模造紙持ちを俺は名乗り出た。


「そうか。お前ら電柱並みに背が高いからあまり高く掲げるなよ? じゃあ東條がホチキスで打ち込んでくれ」


「おう」


 掲げた模造紙から顔を逸らしているとホチキスの針が紙を突き刺し掲示板の布と板に打ち込まれる音が響く。しかしそれよりも自分の鼓動の方が大きい。……口から心臓飛び出そうだ。


「ジロちゃんコバセン、もう離してもおっけーよ」


 紙を離すと俺は学籍番号を探した。





 家に帰れなかった。


 どんな顔して帰ればいいのか分からなかった。分からないからカラオケボックスの暗い一室に篭ってる。轡虫級にガチャガチャ騒がしいゲーセンも辛いし、カフェで同年代の笑い声を耳にするのも辛い。身の振り方を考えるのも辛いし、お袋に気を遣われるのも辛かった。世界はドライだ。俺が轢かれて選手生命を絶たれようが高校を退学しなければならなかろうが、日は沈み、星は瞬き日が昇る。


 暗闇の中で機器のランプがチカチカ明滅する。


 涙すら出ない。瞬きも出来ない。俺、死んだのかな……このまま干からびて死ぬならいいな。


遠くで流れる歌声を耳に呆けていると光が差す。ドアが開いた。


「わーお。干物になっとるわ」


 ユニフォームTシャツに前掛け、黒地にフェニックスのスカジャンを羽織ったタロがそろりと入って来た。タロはコーラを注文すると所々破れてウレタンが覗くシートにどっかり腰を下ろした。


「よう、四位」


「……なんだよ一位」枯れた声が響く。朝から弁当は疎か水さえ受け付けられない。


「ジロちゃん、弁当喰ってないっしょ? それ喰いに来たのよー」


「……勝手に食えよ」


 タロは俺のスクールバッグを開けると弁当箱を取り出した。個室に唐揚げや海苔、ミートソースの香りが広がる。タロはいつも通り手を合わせて『いただきます』をするともさもさ食い始めた。ドリンクを運んできたバイトはタロの顔馴染みなのか軽く挨拶し、持ち込みを注意すらしない。


 ご馳走様をしたタロは弁当をしまうとコーラを一気飲みする。


「舞美さん心配してんぞ。奮発した肉でゴロッゴロでまるっまるな粗挽きハンバーグ仕込んでた。ぐふふーっ。楽しみぃ」


 油臭いゲップを豪快に吐き出すタロの隣で俺は頭を抱える。


「……あんだけ応援されてこんだけ気を遣わせてんのに四位でしたなんて口が裂けても言えないよ」


「俺言っちゃったのよー」


「……あ、そう」


「あらー。塩対応」


「……俺ここに住もうかな」


「マジ? ジロちゃんここの子になるの? コブがなくなって助かるわー。今からウチは舞美さんとタロちゃんの愛の巣なのよー」


「……あ、そう」


「おっきな子供いなくなって舞美さん寂しがるから種仕込んであげなきゃねー。朝も昼も夜もふんふん励んじゃうのよー。舞美さん可愛いしスタイルいいし色っぽいからタロちゃん頑張れちゃう。うっわ。想像だけでギンギン漲ってきた。でも歌って踊れる中華屋のオヤジになる前に高校出ないとなのよねー。舞美さんに『高校出て欲しい』ってお願いされてるのよねー」


 高校の話をするなよ。今俺がどんな心境か分かってるだろ。


 唇を噛み締めるとタロは鼻を鳴らす。


「悔しいか?」


「……悔しいに決まってるだろ」


 射殺すつもりで睨んだ俺にタロは悪戯っぽく笑む。


「そら安心したわ。自分の葬式しても心はご存命だ。実は俺も家出してんのよ。ってか追い出された? 舞美さんに叱られちゃってねー。『一位の俺が授業料免除受けてる分、トオルが遺した教育費をジロに充てて欲しい』ってお願いしたら……」


「馬鹿! お前ん家の金だろう! そんな事されても俺嬉しくないよ!」


「舞美さんブチ切れたブチ切れた。『現ナマ与えるな!』って雷落とされちゃったのよー。んで『少しは甘えて? 不器用なジロも昔から甘えてくれないし、タロちゃんは何でも一人で抱え込んで解決しちゃうから、私寂しい』って涙ぐまれたのよね。……好きな女また泣かせちまった」


「……俺でも泣くよ、その話は。同情も要らねぇし金も要らねぇ。そんな事されたらダチじゃなくなっちまう」


「合理性だけ見つめて心の機微を考えなかったタロちゃんが悪かった。どうしたものか、と悩んでたら舞美さん、通帳出して来たのよ。『悔しいけど確かにこれから二年の学費を捻出する余裕はウチにはない。でもジロがもう一度挑戦する余裕はあるから。紋次郎の母親として出させなさい。不甲斐ない母親でごめんなさい』って腹を決めたのよ。舞美さん、マジでまぶかった……あんないい女他にいねぇよ」


 お袋……。


 ぐふふ、とタロは笑う。


「『きっとどこかで自分のお葬式してるだろうからジロを引っ張り出して。一緒にハンバーグ食べましょう。あの子がどんな順位でも今日は労いたかったの』って舞美さんにお願いされたのよね。つまり舞美さんの筆頭旦那候補のタロちゃんは大きなコブを連れて帰らないとお家に入れて貰えないの。んで四位のお馬鹿にお勉強教えないと愛想尽かされちゃうの。悲しいわぁ。愛妻弁当だけじゃ腹も心も満たされねー。ゴロゴロ粗挽きハンバーグも食いたいのねー。どうしてくれんのよジロちゃん」


 お袋らしい心強さと計らい、タロらしい励ましに思わず笑みが溢れた。


「……帰るよ」


「そうこなくっちゃ!」


 立ち上がりスクールバッグを肩に下げる。しかしタロがチラチラとマイクを見遣って渋る。え。何? 帰って飯食いたいんじゃないの?


「帰ろうぜ?」


「んー……一曲だけ歌ってっていーい?」


「いいけど……。歌好きだな?」


 悪戯っぽく笑んだタロはスタンドからマイクを取り上げた。


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