Track 06 Yankee’s lullaby
春休みが明けてもタロは戻らなかった。
数多の新入生を迎えた運動部は教育に勤しみ、HR前と放課後に校内に響き渡る声はどの季節よりも大きい。スクールバッグを担ぎ一人で登下校するのは辛い。ウエアやプロテイン、マイダンベルが入ってる訳ではないのに非常に重く感じる。……去年は胸を高鳴らせてあの中を駆け抜けていたんだよな。
締め付けられる胸を押さえ吐き気に耐え、単調な学生生活を送る。苦しくてと幾度となく気を失いかけたが悲劇の主人公の心境を味わっている暇がない。来月には中間試験だ。そこで学年三位以内に入らなければ真の悲劇の始まりだ。
タロが残していったまとめノートを杖に復習を重ね、数学博士の立花に『何処を理解していて何処から理解していないか』と線引きして貰い、放課後は店そっちのけで勉強漬けだった。お袋は臨時で短期間のバイトを雇い、また立花も毎日のようにホールを手伝ってくれた。
あの速さであの心地でトラックを走れないけど……色んな人に背中を押されてまた走ってる。そう思うとタロのいない味気ない日々も走れた。
五月に入る。連休明け一週間後に中間試験があるが偶には息抜きでも、と久しぶりにホールに立った。大型連休の所為で客は少ない。これなら俺一人でも何とか捌けそうだ。花見シーズンお祝い事シーズンのテイクアウト販売を乗り切ったお袋も、ここの所は気が抜けた感じでボーっとしていた。おーい、お袋。谷口さん(俺を轢いたおっさん。毎日のように食べに来てくれる。それも単価高い奴ばかり。もう気にしないで欲しいのに)が今日もいるんだから、レタス程ではないにしもシャキッとしてくれ。
休憩がてらに家に上がった際に事件は起きた。
一階の店舗から怒号が響く。女の声……お袋の声だ。
何言ってんのか聞き取れない程すげぇ剣幕だ。小学生の俺が悪戯した時だってあんなに怒った事ないのに……ってかどーしてそんな事になってんの。
階段を駆け下りると修羅場になっていた。暴れ喚くお袋を谷口さんが背後から羽交い締めしている。お袋の顔は何故だか濡れている。般若ばりに威嚇するお袋の視線の先には例の女が居た。……片頬と額に痣を咲かせて股間を両手で押さえて悶えている。え。何? 女相手に股間蹴ったの? いつもニコニコ笑ってるお袋が? 嘘だろー!?
疑問が幾つも浮かぶが声が出ない。映画でしか聞いた事がないヤンキー言葉を怒鳴り散らし、谷口さんの縛を振り切ろうと足掻くお袋へ駆け寄る。すると谷口さんが泣きついた。
「ジロ君、助けて。一人じゃ取り押さえるの限界。舞美さん大暴れ」
頷きも返事もせずに俺はお袋の右の二の腕をすくい上げ取り押さえる。
「離せジロッ! こんド腐れマンコだぎゃ許さんっ! シメ殺ス!」ドスが利いた女の声が響く。うわうわうわうわ。これマジでお袋? 信じらんない。お袋ヤンキーだったの!? ってかすげぇ力。振り解かれそう。ゴリラか。俺はゴリラから生まれたのか。
「手ぇ上げるのはダメだって!」
「世間が許してもあたいは許さん! こんクソアマん所為でタロちゃんはっ! タロちゃんはっ!」
真っ二つに割れたビール瓶と粉々になったグラスを前にガンつけ女は痛みに震えている。
「馬鹿! 早く逃げろ! 殺されるぞ!」
叫んだ瞬間お袋は思い切り右脚を引くとガンつけ女を蹴り飛ばそうとした。
我に返ったガンつけ女は椅子に置いていたバッグを瞬時に掴むと内股気味に店外へよろよろ駆け出した。
俺と谷口さんが小さな溜息を吐くとお袋が隙を突く。縛を振り切りカウンターから塩の箱を掴むと店外へと駆け出した。多分現役時代の俺よりも速いと思う。本当一瞬だった。
何するか分からない。殺人はマジ勘弁。驚いた俺は再びお袋を捕らえようと後を追う。
暖簾を潜り外へ飛び出すと、逃げる女に向かってお袋が拳いっぱいに掴んだ塩をまいていた。いやー美事な放物線。黄金比を発見した奴もビックリってか……横綱も真っ青な塩まきだった。
徐々に小さくなる女の背を睨みつけ、肩を上下に揺らし呼吸するお袋の背を軽く叩く。
「……気が済んだ?」
長い溜息を吐いたお袋は小さく頷いた。
店に戻ると割れたグラスや瓶の片付けを谷口さんがしていた。やめて谷口さん。お客さんにそんな事させる訳にはいかないよ!
憔悴するお袋をカウンター席に座らせ、谷口さんに平謝りし事のあらましを聞き、こちらの事情を掻い摘んで話し、帰って貰った。谷口さんに『これからも通わせて貰うから安心して。俺、この店大好きだから』と励まされてしまった。本当、いい人過ぎる。暖簾を仕舞って『都合により本日休業』の紙をシャッターに貼り付ける。
一息吐きカウンター席に座っているとお袋は秘蔵の紹興酒の甕を抱えて来た。
うわ。それ度数ドギツイやつ。ってか元ヤンの酒の相手、俺がするの? ひえええ。
お叱言が始まる前のガキ宜しく背筋をビッと正し首だけ項垂れていると、お袋は『ジュースでもウーロン茶でもいいから付き合いなさいよ』と杯を呷った。声音はいつも通りだけど目が据わってて怖いよ……子殺しされたメスライオンみたい。
持って来たウーロン茶(商品)をちびちび飲んでいるとお袋が口を開いた。
「驚かせて悪かったわね……」
「え。あ……うん」
長い溜息を吐いたお袋はぽつりぽつり話し始めた。以前からあの女が自分にガン付けていたのを気づいていたようだ。俺が席を外した後に来店したので注文のビールを出したら『東條太朗を出せクソババア』とお袋はビールをぶっかけられた。それでも尚、毅然と対応したら『お前がクソガキを隠す所為で金が入らない。何の為にこの私があんなジジイに囲われていたと思っているの』と頬を張られたらしい。そこでお袋はぶっつんキレた。
「決して良い父親とは思えないけど、タロちゃんから父親や家族を取り上げたばかりかお金無心するのが許せなくて……。タロちゃんが何故この家を離れたのかも察しはついてる。こんな事が起きないよう、店に迷惑が掛かるまいと私達を守る為に外に出た事も分かってる。離れて暮らす弟やお祖母さんの為に一円でも多くのお金を守ろうとしているのも知ってる。でもそれでも一緒に居たかった。私達家族でしょ。辛い時も嬉しい時も一緒よ。……埼玉で捕まえられるものなら捕まえたかったけど……未だに携帯も通じないし……。いじらしいあの子が不憫で不憫で」
ほへー。全てお見通しだった訳か。流石食い物屋の店主。洞察力は侮れない。
「それで?」
「確か……頬を張り倒したら張り返されて、素手ゴロタイマン上等じゃって頭突き喰らわせたらあのクソアマ、ビール瓶割りやがって逆手に持ったのよ。ドーグ出されたら黙っちゃないわよ。ド腐れマンコ蹴り上げた所で谷口さんに取り押さえられたの」
「お袋、言葉、言葉。ってかマ……股間蹴ったって、警察だの傷害罪だのなったりしない? お袋がお縄とか俺もタロも悲しいよ?」
「大丈夫よ。向こうも後ろめたいでしょうし。それに鉄板ブーツと違ってただの安全靴だから痛いだけよ」
「ほへー」
「あとはジロが知っての通りよ。……察してる通り、結婚前は私大分ビッとしてたから」
「だろうね」
「コマチちゃんには内緒よ?」
「話せるかよこんな事」
「まあ、そうよね」
まだ目が据わっているお袋は甕から杯へ紹興酒を注ぐ。それをぼんやり眺めているとある事に気づいた。
「ん? ……内緒にするのって立花だけでいいの? タロは?」
「バレてるから
まじかよ。
「……一昨年の冬こそっと言われたの。『舞美さん、昔相当ビッとしてたでしょ?』って。吉嗣さんの代からの古いお客さんは知ってるけど、ここ十五年のお客さんやジロが気付かないくらいだもの。うまく隠せてると思ってたのに。何処でバレたか分からないけど、観念して頷いたの。そしたら『やっぱりね。だって原チャやバイク似合うもの。硬派な舞美さんマブくてかわいーい。二人だけの秘密にしましょうね?』って」
ほへー。元ヤンって分かった上でベッタベタに愛しているのか、すげぇな……。でも気持ち分かるかもしんない。立花が元ヤンだとしても俺、好きだな。……喧嘩になったら怖いけど。
「いい子よタロちゃん。そんないい子に辛い想いして欲しくないもの」
いい子か? ヤリチンが。
「いやーお袋が思ってる程いい子って訳じゃ」
やべ。思わず口を滑らせた。タロの女遊びはお袋には黙って墓まで持って行こうって決めたのに。口を手で覆うとお袋は澄んだ瞳で俺を見つめる。
「……タロちゃんがどんな風に女の子と遊んでるか知ってる。軟派よね。女としても保護者としてもそんな風にお付き合いはして欲しくないけど、あの子セックスする子をちゃんと選んでるし大切な事はきちんと守っているから口は出さないつもり。……ウチに痴話喧嘩持ち込んだ女の子居た? 泣きつきに来た子居た? 嫌がらせの電話あった? ジロは学校で修羅場見た?」
あ……確かに。泣かせる所か『おはこん』『ちゃおちゃお』と軽く挨拶する仲に戻るか彼女と言う名の複数いるエッチ友達としてあっさりした関係結んでるもんな……。ヤリチンなりに先を見越した上で人間関係構築してる。すげぇ頭がいい。……もしかして中三の夏、俺を殴ったのも友人になれると見越してやったのだろうか。
「……どうして息子殴ったガキに弁当喰わせようと思ったの?」
お袋は唇を付けようとしていた杯を下ろす。
「昔の私と同じだと思ったの。ジロは吉嗣さんに似て器が大きくて心根の優しい子だから、タロちゃんが安心してジロに噛み付けたと思うの。一五の私が吉嗣さんにしたみたいに。出会った頃、吉嗣さんはこの店構えてたからあったかいもの食べさせてくれたし寝床も用意してくれた。でもジロはまだ子供で余裕がないじゃない? 私だったら手を差し伸べられるかなってお弁当作ったの。今の私が昔の私にしてあげられる事をしただけよ。でも昔の私と比べたらタロちゃんに失礼ね。あの子も、ジロとは種類が違うけど器が大きくて心根の優しいとってもいい子。大好き。吉嗣さんやジロと同じ、大切な家族」
「そっか」
お袋もタロを憎からず想っているのかと想ったがそーゆー訳ではないらしい。純粋に『大好きな家族』と想っている。小林舞美の息子としては安心したが、東條太朗の親友としては何とも切ない話だった。
三日後の晩、営業中にタロは帰って来た。
外階段から誰かが二階へ上がる音がしたのでお袋の目を盗んで家へ上がった。脱衣所から物音がしたので引き戸を開けるとタロが居た。
「いやん。モンちゃんのエッチ」薄汚れたスウェットのトップスを脱いでいたタロはしなを作る。元気そうだが肋が少し浮いていた。
「馬鹿! さっさとお袋に顔見せろ」
「稀代の秀才様に馬鹿はないでしょ馬鹿は。おパンツ投げるわよ?」
「馬鹿」
漸く帰って来た。ちょっと痩せてタバコ臭いけど病気も怪我もしてないようで安心した。また三人で暮らせる。目の奥がじんわりと熱くなり目頭を押さえる。そんな俺の頭をタロは乱雑に撫でる。
「臭ぇだろ? 五日も風呂入ってねぇ。こんなナリじゃ舞美さん抱きしめられないし、店へ降りた所で営業妨害だ」
鼻を啜る俺にタロは笑う。
「左脚の具合はどう? コマっちゃんとの仲進んだ? 勉強はちゃんとしてる? ちゃちゃっと風呂入って歯磨きするから店で待ってなさいよ。久しぶりにホール捌こうじゃないの」
黄ばんだ歯を見せにっかり笑ったタロは俺の額を指先で弾くと引き戸を閉めた。
ユニフォームを纏ったタロが店に現れると客のおっさんどもは『ぃよっ! 大将おかえり!』と歓声を上げた。厨房のお袋は湯気を立ち昇らせるエビチリを中華鍋から皿に淡々と移している……ホールの騒ぎが聞こえない筈ないし、さっき『タロ帰った』って言ったのに。
『やっぱ大将がいなきゃ』『小僧とお嬢だけじゃ物足りなかった』『土産寄越せ』とおっさんどもに背と尻を叩かれ笑うタロはお袋の背を見遣るとピータンを運ぶ俺を見遣る。俺は肩を軽く竦めた。タロは『ぐふーっ! 舞美さんのアイドル、タロちゃんが戻って来ましたよー!』と両腕を広げ蝶々を追いかける大型犬のようにお袋の許へ馬鹿っぽく馳せ参じた。
「ぐふふーっ! 舞美さーんっ!」
タロは中華鍋を五徳に戻したお袋に抱きつく。お袋は小刻みに震えた。
「……舞美さん?」
タロが問いかけるや否や、お袋は声を上げて泣き出した。言葉にならない声を上げてタロをぎゅうぎゅう抱きしめて人目憚らずに泣いた。
タロはお袋の背を優しく叩いてやりつつも『ジロ、エビチリ運べ』『三番卓、呑助の武藤のあんちゃんだろ? 髪伸びて更に男前になったな。ビールのお替わり持ってけ』と小声でホールを捌く。
ひとしきり泣いたお袋は顔を上げるとタロの頬を両手でつねる。
「こん家出息子が。携帯結局繋がらせないで。困った時くらい大人を頼りなさいよ。いつも一人で抱え込んで一人で解決して! ちったぁ甘えろ! あほんだら」
幼い雰囲気を残した容貌と雖も男の頬はそう伸びない。タロは微笑みながらお袋にされるがままになっていた。
「舞美さんごめんね。俺もすごく寂しかった。舞美さんを想わない日はなかったよ」
頬から手を下ろしたお袋は涙を拭う。
「タロちゃんはうちの子なんだから。遠慮しないで甘えて? ……こんなに痩せちゃって。お腹ペコペコでしょ? 先にご飯食べて」
「ありがとう。俺、舞美さんの飯大好き。舞美さんと喰いたいから今はホールに専念するよ」
聞き耳を立てていたおっさんどもは粘ついた笑みを浮かべる。すると次々と席を立った。おーい。変に気を遣わないでくれー。クールに去るなー。客がいなければウチ潰れるー。ってか食い逃げするなー。武藤さんもニヒルに笑ってプレートを『営業中』から『準備中』にひっくり返すのやめてくれー。
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