Track 04 Escape


 タロは親父さんを大層憎んでいた。病がちな妻と幼い息子たちを放り外に女を囲い、離婚し、兄弟の仲を引き裂き、元妻が亡くなっても息子に葬儀へ出る事を許さなかったそうだ。タロにも無関心でただ一言『官僚か医者になれ』としか言わず最低限の金を入れるだけで家には決して帰らなかった。……そんな男の亡骸が家に帰るのだ。タロの胸中は計り知れない。決して晴れやかな物ではないだろう。こんな時、親友が側に居ないでどうするんだ。


 看護師に見つからないよう外の非常階段を下っていると息を切らした立花に追いつかれた。


「だ、ダメだよ。折角治りかけてるんだから」


「でも、でも! タロが一人ぼっちだ。俺が競技人生を奪われた時、タロは側に居てくれた! タロが苦しい時は側にいないでどうする! 俺はタロの家族だ!」


 思わず怒鳴ってしまった。立花はどんぐり眼を潤ませるともにょもにょ泣き出しそうになるが堪えた。


「分かった。タロ君家、一緒に行こう。……階段は危ないからゆっくり下ろうね? エントランスに車椅子あったからこっそりガメてくる」


「ありがとう。助かる」


 立花は恥ずかしそうに笑うと鉄製の階段をガンガン鳴らして駆け下りていった。普段物静かに振る舞うのにいっぱいいっぱいだ。……一八〇センチ超えた俺までとはいかないがモデルばりに背があるから体重もあるのだろう。決して太ってる訳じゃない。それどころかぽっきり折れないかと心配になる程にスレンダーだ。身長を気にして背を丸めて歩いて体重気にして物静かな所作を心がけて……だのに俺の為になりふり構わない彼女がとても愛らしかった。


 左脚の痛みと苦しみに顔を歪む。直ぐに息が切れる。それでも階段を下る。タロや立花の事を考えていると降り切れた。


 手すりに頭を預けて息を整えていると車椅子を押した立花が走って来た。


「ご、ごめん! 降りるの手伝えなくてごめん! か、看護師さんに見つかりそうになったけど何とかガメて来たよ。い、一応自走も出来るやつ!」


「サンキュ」


 俺の側に立花は車椅子をつけると俺の介助をする。しかしカテーテルの抜去で女性に息子棒を握られたチェリーな俺は、体に触れられそうになると羞恥のあまりに立花の手を振り払った。


 驚いた立花は手を引っ込めると、もにょもにょ泣き出しそうになる。あああああ。今のは親切を無碍にした俺が悪いんだって! 泣くなー!


「わ、悪い! これもリハビリだから! 他意はない!」


 瞳を潤ませた立花に病院の敷地内のエスコートを頼む。立花に車椅子を押してもらい裏から院外へ出ると自走に切り替える。俺はタロの家へと車椅子を突っ走らせた。


 起きろ俺の筋肉! オリンピックよりも大切な目的が出来た! 大会での成果、今こそ発揮しなければ!


 長い間満足に体を操れなかったので上半身の筋肉は錆び付いていた。ハンドリムを掴んで押し出す度に腕が引き攣る。即刻筋肉痛に陥る。どれだけ俺の体は鈍っているんだ。嗚呼イライラする。自分の体なのに満足に操れない。タイヤはデカい癖にキャスターが小さ過ぎてスピードが出ないし直ぐに息が上がる。


 畜生畜生畜生畜生。


 汗まみれになり車椅子を突っ走らせていると後から息を切らせた立花が追いついた。


「ま、待って。こ、小林君速過ぎ。車椅子バスケみたい。鬼速い」


「悪い。気持ちが急いて」


「ちょっとタイム。急いでるのは分かるけどタイム。作戦会議しよう」立花はハンドグリップを掴むとブレーキをかけた。慣性の法則がグンとかかり俺は前のめりになるが腹圧を掛けて耐えた。


「ちょ……立花、急ブレーキはやめてくれ」


「ご、ごめん!」


 怠い腕を上げ額の汗を拭っていると、スクールバッグから飲み掛けのペットボトルを取り出した立花が俺に飲み口を差し出した。


 ペットボトルを受け取ると飲み切った。……しまった。


「わ、悪い。全部飲んじまった。立花も喉乾いてたよな」


 頬を染めた立花は首を横に振る。


「気にしないで。そ、それよりタロ君家って何処にあるの?」


「二駅先」


「じゃあ電車乗って行けるね」立花は交差点の対岸の駅の入り口を見遣った。


 しまった。財布持ってくるの忘れた。タロが言う通り俺ってお馬鹿だから考えもせず行動にでちまう。まあ……爆走すりゃいいか。いや、俺の腕保つのかな? それ以前に立花走らせるのはいけないな。どうしよう。


 眉間に皺を寄せていると立花がくすりと笑う。


「大丈夫だよ。お金あるから。一緒に電車乗って行こう?」


 立花が女神様に思えた。……すまん。恩に着る。女子に金借りるとか俺ってダサ過ぎ。


 改装出来ない程に狭く、また貧乏駅故にエレベーターもエスカレーターもなかった。俺は車椅子から降りると手すりを頼りに階段を下る。立花は常に三段先を下り、俺が転びそうになっても介助出来るように構えていてくれた。階段を降り切ると立花は階段を上がろうとする。大声で訊ねると『車椅子を下ろしてくる』と叫んだ。ここまで世話になってそんな事やらせたくはない。『頼むから降りてくれ。考えがあるから』と懇願すると眉を下げた立花が『ごめんね』と降りて来た。……ごめんねは俺の台詞だよ。何処まで優しいんだよ立花は。改札に居た駅員に暫くの間車椅子を置かせて欲しいと頭を下げた。汗まみれで必死の形相で頭を下げる俺を見て駅員は汲み取ってくれた。


 立花の肩を借り地下鉄に乗る。女性に触れられるにはダメだが自ら触れ、体を預けるのは大丈夫らしい。都合の良い体だな俺って……。暗闇を走る車窓に映る自分を睨みつけていると俺に腕を回され体重を預けられて俯く立花が目に入った。


 ……二日に一度は入浴を許されている。しかし俺は新陳代謝が激しく肉ばかり食らう男子高校生だ。その上毎日リハビリをこなし、更には車椅子で爆走して汗まみれだ。臭いし、ぐっちょんぐっちょんで汚いし、息を切らしてはぁはぁ呼吸してる……何だよ変質者じゃないか。セクハラだよこれじゃ。


「……立花、ごめん」


 俯いていた立花は俺を見上げる。


 近ぇ! 頭一個分も離れてないからちょっと悪戯心出せばキス出来そうな距離だ。


 互いに頬を染めると瞬時に俯く。


 も……申し訳ない事をした。誰だってこんな汗でドロドロの化け物と間近で顔を合わせたくないだろうに。


「その……色々ごめん。ヘビー級の我が儘に付き合ってくれて……それに俺汚いし。なのに車椅子預けさせて肩借りて……重いしウザいし気持ち悪いし臭いし迷惑だよな。本当、色々ごめん」


 立花は俯いたまま首を横に振る。


「そんな事ないよ。私が好きで手伝わせて貰ってるだけだから」


 ちょっと……立花イケメン過ぎ。惚れてまうやろ!





 降車し、家へ向かう。快速が停まる駅なのでそこそこ大きな駅だ。エスカレーターもエレベーターもあって助かった。以前何かあった時にと携帯電話のアドレスに入れていた住所を頼りに地上を彷徨っていると紙袋を提げたお袋と鉢合わせた。


「ジロ……! 馬鹿! あなた何してるの!?」


 目をひん剥いたお袋に怒鳴られた。うわ。声上げて怒られるなんて何年ぶりだよ。タロと殴り合った時でさえ困ったように微笑んでたのに。お袋の母親的指導に驚いた立花は狼狽えた。ごめん、立花。


 経緯を話すとお袋に長い溜息を吐かれた。


「仕方ないわよね……。親友ですもの。居てもたっても居られないのは分かるわ。えっと立花……立花小町ちゃんよね? この度は息子がご迷惑を掛けました。お見舞いにも毎日来て下さって。本当にありがとう」


 深々とお辞儀したお袋に俺に肩を貸した立花も深々とお辞儀を返そうとする。立花ー。俺を忘れるなー。落ちそうだー。


「タロは何処? お袋は何で駅前に?」


 俺の問いにお袋は顔を上げる。


「タロちゃんはタロちゃんの家に居るわ。私はタロちゃんの着替えを取りに一旦戻る所。お焼きに出すのは明日」


「告別式って事? じゃあ今日は通夜?」


 お袋は首を横に振る。


「タロちゃんの方針で直葬。……タロちゃん色々あるから」


「……そうだよな。親父さんに良い想い抱いてないもんな。タロはどうしてる?」


「納棺済ませた後、一人で色々手続きやってるの。まだ高校生なのに……。吉嗣さんを送ったから私、力になれると思ったけど、手伝うどころか気を遣われちゃって……。あの子、大人の前で子供として居られた事がないのね。切ないわ」


 お袋は頬に伝う涙を拭う。


「病院へは私が連絡するわ。お家まで付き添うからタロちゃんの傍にいてあげて。コマチちゃんもジロをお願いします」


 家を訪ねると意外にもタロはいつも通りだった。……病院抜け出した事は『お馬鹿』って怒られたけどね。


 再び家を出るお袋と別れ、リビングに通されると嫌に埃っぽかった。誰も帰らない家だから仕方あるまい。テーブルの上のシルバーのラップトップをぐるりコーヒーとエナジードリンクの空き缶が囲んでいた。


 タロに話しかけようとすると携帯電話が鳴る。タロは『悪い』と断ると電話に出てはラップトップをいじったり書類を引っ張り出したり俺には縁のない小難しい言葉を使ったり金の話をしたりと忙しそうだ。そりゃ寝る暇も何かを想う暇もないな。……俺、来ない方が良かったかも。何の役にも立たねー。それどころか邪魔じゃん。


 立花に目配せし肩を借りると玄関を目指す。


 すると送話口を押さえたタロに怒鳴られる。


「お馬鹿! 送るから待ってろ。このままじゃ風邪ひくでしょーが」


 タロの肩を借り、コンビニで替えのパンツとラップを買ってから三人で銭湯へ行った(家の風呂はお湯が出なかった)。立花は疎かタロの仕事を増やすだけだから断ったが『風呂入れ。風邪ひいて退院延びるだろ』と怒られた。俺ってば怒られてばっかり。……怒られる事してる俺が悪いんだけど。


 タロに介助されながら湯船に入った。


 包帯に覆われた患部を濡らさない為にラップを巻いた左脚を湯船の縁から投げ出す。行儀が悪いが、誰にも咎められない。開いたばかりの銭湯には暇そうなじーさんや得体の知れないおっさんすらいなかった。


「あー、よみがえるわー」


 洗ったばかりの長い赤毛を纏めて湯に浸かるタロは長い溜息を吐いた。首や肩が見えないと一瞬ドキッとするよな。整った顔立ちで更には少し童顔だから女と錯覚する。風呂なんて初めて一緒に入った。


 視線のやり場に困り俯いているとタロの声が響く。


「心配させて悪かったな。こんなに早くトオルが死ぬとは思わなかったからわたついたわ」


「……親父さん、事故とかで亡くなったの?」


「いんや、腹上死。トオルちゃんったら愛人のぽんぽんで張り切って亡くなったの。やーねぇ」


「ま……マジ?」俺は思わず顔を上げてしまった。


「笑い堪えられなかったわ。搬送先の病院で舞美さんの前で盛大にゲラって叱られちゃったけどね。舞美さんも笑い堪えてたわ。……まー、ゲラった後が大変だったわ。トオルの会社に報告せにゃならんし、複数の女囲んでるから誰の腹でタネが育ってるかとか分からんし。きちんと洗わないと俺と弟の金として分配できないからな。トオルに俺ら以外の血縁者居ねぇから分配は楽だと思ったんだけどねー……結婚してないのが唯一の救いとも厄介とも言えるわなー。流石に今回は弁護士頼むわ。舞美さんにも申し訳ない事したなー。着替え取りに行かせるとか飯用意して貰うとか雑用やらせて。好きな女をアゴで使うとかないわー」


 タロは長い溜息を吐いた。


 どんな死に方にせよ、人が逝くと悲しみよりも金や権利等大きな問題が残る。それをタロは誰の力も借りずに乗り越えようとしている。お袋はそんな面を支えてやりたい、甘えて欲しいと手を差し伸べているのに優秀なタロはそれに気付かない。……いや気付いているが好きな女に無様な所を見せたくないのだろう。タロはプライドが凄まじく高い男だ。お袋の寂しさが少し分かった。


 再び俯いているとタロにお湯を掛けられる。


「なーにシケた顔してんのよ」


「……いや、大変なのに俺は支えるどころか迷惑かけただけだなって」


 タロは悪戯っぽく笑むと声を潜める。


「ジロちゃんの世話焼くのは今に始まった事じゃねぇだろ。あー。でもコマっちゃんは大変だったわな。あとでお礼言っておきなさいよ。フラれても邪な想い抜きで支えてくれてんだから」


「なっ……。俺が立花振った事知ってたのかよ」


「振った癖ににちゃにちゃ笑いながら手作りチョコぬめぬめ食ってたのも包装紙を本の栞にしてるのも何でもお見通しよー」


 うわぁ……俺のクソ具合、タロにまでバレてる。ヴァレンタインの俺クソ過ぎた。勇気を振り絞って告白してくれた立花の事、トロフィーの一つくらいにしか考えてなかった。頭を抱えているとタロは粘ついた笑みを浮かべる。


「コマっちゃんに相談されてたのよねー俺。アザラシの赤ちゃんみたいに今にも泣きそうな可愛い顔を更に困らせて聞くのよ。『ねえねえタロ君、小林君って好きな子居る?』って。『ジロちゃんは世良が好きみたいよー』って答えたらすっげぇヘコんじゃったけど」


「おまっ……何でそれ知ってるんだよ!?」


「使い捨てフィルムで撮ったバレー大会のスナップ買ってたじゃねーか。世良が『ぽいよーん』ってデカパイばるんばるん揺らしながらサーブしてる健康エロ写真。ズルのかなぁと思ってたら大切に大切に仕舞ってるんだもの。あーコイツ『好きな子をズリネタに出来ない純情チェリー』なのねって」


「……うわー。世良の事知った上で告白してくれたとか、フラれた上で友達として支えてくれてるとか……やっぱり天使じゃん。ってか立花はなんで『小林君』って俺を苗字で呼ぶ癖にタロには名前で呼んでるんだよ……。タロも立花を渾名で呼んでるし……ヘコむよ俺。ずるいよタロ」


 タロは粘ついた笑みを浮かべる。


「何? 今更コマっちゃんに惚れたの?」


「そうだよ。悪いか、畜生」


「お馬鹿め。お前なんぞにコマっちゃんは勿体ないわ」


「……だよな」


「なーに落ち込んでんのよ。男ぶり上げて告白しろ。まずは学校にいられる努力しなさいよ」


 タロはカラカラ豪快に笑うと湯をすくい、自らの顔にかけた。


「……なんか、悪い。こんな時くらいタロの傍にいなきゃって思って来たのに逆に励まされてる、俺。足引っ張ってる」


「おう引っ張れ引っ張れ。こーして来てくれたから息抜きになったわ。ブレイク上等!」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る