Track 03 お前がいるなら


 年が明けヴァレンタインでお袋以外の女から初めてチョコを貰い(好きな子じゃなかったからやんわり振ったが)、少しくすぐったいなと感じていた頃、俺の人生設計は音を立てて崩れた。


 部活帰りの夜八時過ぎ、見通しの悪い道路で俺は車に轢かれた。


 病床で目覚めると左脚の痛みに、身に降りかかった災厄を思い出す。……只管に眩しかった。ハイビームの奥でハンドルを握るドライバーと目が合った。しまった、と言わんばかりの顔をしていた。……耐えがたい痛みと薄れゆく意識の中でドライバーが救急車を呼んだのを覚えてる。ずっと俺に声を掛けていたのも覚えてる。いい人だった。俺を轢いた事以外は。


 手術を終えて覚醒する前から脚が痛かった。朧げな意識の中痛みだけは明確に感じた。しかし目覚めるとそれ以上に胸が痛い。苦しい。俺もう走れないの? 俺もう部活戻れないの? 俺、オリンピック出られないの? 俺これからどうなるの? 入院費も手術代も馬鹿にならない。スポーツ特待生として高校に迎えられた俺は走れなければ御役御免だ。学費免除を受けて在学していた。うちの財政で在学は厳しい。無二の親友だがタロの親父さんからもタロの生活費をきちんと受け取っている程だ。オリンピックに行けないどころか……学校を辞めなければならないかもしれない。タロが居てみんなと戯れ合えて気持ちよく走れて馬鹿みたいに楽しい陽だまりの場所に戻れない。お先真っ暗だ。


 目の奥がじくりと熱くなる。鼻の奥がツーンとする。心臓がぎうぎう締め付けられる。涙で視界がぼやけて鼻が詰まり口を開く。


 洟をすすると枕許の丸椅子で脚を組んで本を読んでいたタロが気付いた。


「起きたか。……三日寝ていた。麻酔切れたら起きる言われたけど、よっぽどキていたんだろうな」


 じくりじくり。目尻から涙が溢れる。


「タ、ロ……俺、走れない、の? オリンピック、行けないの?」


 タロは本を閉じ、組んだ脚を直す。永遠とも思える時間……実際には二〇秒もなかったろうがタロは俺を見つめると口を開く。


「オリンピックは諦めろ」


 分かりきっていた。非情な痛みに予想はしていた。それでも死刑宣告に震え、声を上げて泣き出すしかなかった。


 お気に入りのおもちゃを目前で踏み潰されたガキよろしく鼻水を垂らし俺は泣き叫ぶ。頭で理解しても心は従えない。丸椅子から腰を上げたタロはリノリウムの床に膝を付き、俺を抱きしめた。


 ごめん。親友にこんな事言わせてごめん。こんな役誰だってやりたくないよ。泣いてごめん。叫んでごめん。走れなくなってごめん。お前が好きな俺じゃなくなってごめん。ごめん。ごめん。ごめん。


「タ、ロ。タロ、ごめ。タロ、ごめん。ごめ。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん」


 泣き叫び謝る俺をタロは強く抱きしめる。


「ジロは一ミリも悪かねーよ。謝るな。泣きたいだけ泣け。個室の特権だ」


 どれだけ泣いたのか。どれだけ叫んだのか。今にしても分からない。タロにぎゅうぎゅう抱きしめられ泣き叫んでいると声も涙も枯れた。


 それでも明け方のカラスのような声で叫んでいるとタロにデコを弾かれた。


「そろそろ黙りよし。やかましわ」


 理不尽な。……さっき『泣きたいだけ泣け』って言った癖に。


 洟を啜っているとタロは立ち上がる。


「起きるか? 寝たままでいるか?」


「……起きる、よ」


 タロは俺の背に腕を差し入れ、慣れた手つきで起き上がりの介助をした。……そういえば亡くなったお袋さんを小学校の頃に看病していたって話してたな。


「ほれ。茶ぁ飲みなさいよ」


 マグカップに注いだペットボトルのウーロン茶をタロは差し出した。それを受け取ると俺は辺りを見回した。


「さっき言った通り個室だ。金は谷口のおっさんから出てるから安心しろ。ああ、ジロを轢いたおっさんな。学校も家も店も心配するな。色々話してる。決して悪いようにはならねぇ。ジロはジロの心配だけしろ。舞美さんは疲れて家で寝てる。暫くは俺の見舞いで我慢しろ」


「……親子で世話させてごめん」


「お馬鹿。お前はお前の心配だけしとれ言うただろうが。早く茶ぁ飲め。ジフテリアみてぇな声だしやがって」


 無愛想な声音は少し疲れているものの、気丈に響く。いつものタロが側にいる事に安心した俺はマグに口をつけるとゆっくりゆっくり喉にウーロン茶を送った。


 長い溜息を吐くとちゃんとした言葉が出た。


「走れなくなってごめん」


「ごめん言うな。聞き飽きた。それに走れなくなった訳じゃない。競技人生は難しいって話だ。それでも一番苦しいのはジロだろうが」


「……今までタロやお袋、コーチ、部員の奴ら、店のお客さん、クラスの奴ら、他校の陸上の奴ら……沢山の人に応援されて背中押されて走ってきたから……みんなをがっかりさせた。ごめん」


「お前はお前の心配しとれ何回言わすんじゃ。この際みんなはどうでもいいやろが。ごめん禁止。次言うたら恐ろしいもの見せちゃる」


「ごめん」


 タロの薄い片眉がぴくりと動いた。あ。やべ。


 舌打ちしたタロは俺の掛け布団をひっぺがすと病衣の裾を捲し上げた。何すんだよ! スケベ! すると術後の固定された左脚よりもショッキングな物が目に飛び込む。己が息子棒……小便ホースに小便ホースが刺さっているのだ。上向きに固定された息子棒に突き刺さった……いや、息子棒から生えたカテーテルは大腿にテープで押さえつけられ、ベッドの傍を通り、床へと姿を隠している。


 これには流石に声が出ない。


 タロは粘ついた笑みを浮かべる。


「モンちゃん。おまー、チェリーなのにハードプレイな事になってんのよ? ずっとおねんねだったから手術からブッ刺されたままなの。時々、おっぱいが大きくて可愛い看護師のおねーさまがモンちゃんの息子棒を甲斐甲斐しくお世話してくれるの。正にエロ漫画ワールド。いいなぁ。退院したらズリネタに困らんなぁモンちゃん」


 恥ずかしくて死にそう。急に熱を帯びた顔を両手で覆っているとタロは言葉を続ける。


「悲しくて悔しくてムカついてやり切れないのは分かる。しかしな、このままじゃ満足に小便も出来ねーぞ。キツいだろうが前進しろ。まずは一人前に小便出来る事を目指せ」


「……こ、こんなの刺されたらもうお婿に行けない。と、取る!」


 前傾すると腹圧がかかり、左脚にも響いた。痛みを堪えて大腿に貼られたカテーテルのテープを剥がすとタロに止められた。


「やめとけ。看護師のおねー様の話じゃカテーテルの先は膀胱なのよ。しかも風船みたいに膨らんでるっちゅー。ジロちゃん、左脚どころか立派な中の脚がさよならよ? プロに頼みましょ?」


 俺は泣き叫んだ。





 様子を見に来た看護師のおねー様にカテーテルの抜去を頼み倒した。水色のエプロンを纏った看護師のおねー様が道具を広げ抜去の準備を進める。すると『いいないいな息子棒お世話されてジロちゃんいいなぁ』とタロに揶揄われ羞恥で下肢に力が入った。『これじゃ抜去出来ないでしょ』とタロはおねー様に病室を追い出された。


 処置後、痛みや筋肉の虚脱感に悩まされつつも車椅子を頼りにトイレまで行った。便座に座り自ら小便垂れた時には安堵で泣いた。もうハードプレイは御免だ。翌日にはリハビリを始める。食欲がわかなかったが食事は出されたものを平らげた。面会時間にはタロに付き添われたお袋が足をふらつかせながらやってきた。泣きつかれ宥めるのに苦労した。俺を轢いた谷口さんも見舞いに来て土下座した。『そんな事やめて下さい。そりゃやり切れませんけど谷口さんだって轢きたくて轢いた訳じゃないんですし』とこちらも土下座をやめるよう宥めるのにかなり苦労した。……俺、怪我人なのに何でこんなに体力気力削られなきゃならないの。警察の人も来てある程度事情を聞かれた。見通しが悪かったとは言え谷口さんの過失で起きた事故だった。しかし責める気は毛頭ない旨を伝えると示談を勧められた。


「……と言われても俺、これからの金の事とか相場とか調べないと分からない。弁護士雇った方がいいの? でもそしたらまた金がかかる。どうすりゃいいんだ」


 溜息を吐くとお袋が俺の肩を叩いた。


「タロちゃんがね、私の代わりに谷口さんと話し合ってるから心配しないで。……こんなに大変な事をジロの親友、しかも高校生にやらせてしまって親なのに大人なのに不甲斐ないわ」


「舞美さん、それは言わない約束でしょー。気が動転してもおかしくないですよ。俺は血縁者じゃないし日本一の秀才だから出来るんです。気に病まずに任せて下さい。谷口のおっさんも全面的に支えようとしてますし。舞美さんの仕事はジロの心配、そして一日も早く笑顔を取り戻して美味しい中華を作る事です」


「タロちゃん……」


 涙ぐむお袋はタロの胸に顔を埋める。タロの鼻の下がにょーんと伸びるのを俺は見逃さなかった。


 金が絡む大人の話が終わるとクラスの奴らが見舞いに来てくれた。同じクラス委員の森山、学年一の生意気な巨乳美少女世良、ムードメーカーの竹下、そして俺にチョコをくれたノッポで大人しい立花が個室を賑やかにした。皆んな事情を知っているのだろう。左脚については決して話題にしない。気を遣わせて悪いなと思いつつもヒリヒリしたものを感じた。『毎日見舞うからな』と言ってはくれたが忙しいのだろう。三日と経たずに来なくなった。清々しいな。まあ社交辞令だ。俺だってそれくらいはわかる。しかし立花は学校が退けると毎日来てくれた。タロもお袋も自分の生活があるからしょっちゅう来る訳にはいかない。一人で居ると事故を思い出すので苦痛だった。見舞いは本当に有り難かった。


 背を丸めて丸椅子に座る立花は今日クラスであった事、学校でのタロの事を話すと俺のリハビリ話を聞いたり、タロとの出会いを聞いたりした。立花は内気で大人しいが故にあまり話をしない。一生懸命に会話を続けようとするものの直ぐに言葉に詰まる。黙す度に眉を下げて泣きそうになる。……そんな子の告白をやんわり断ったんだから俺って鬼だよな(当時は気怠そうでもズケズケ喋る世良がタイプだったんだよ)。どれだけ勇気が必要だっただろうか。だのに自分を振った男を毎日見舞うって天使かよ。


 ノッポな背を更に丸めてもにょもにょ泣き出しそうな立花に話題を提供しようと頭を捻る。何の話すりゃスマートなんだ? 立花って休み時間に本を読んでるけど何読んでるんだろう? 聞いても大丈夫か?


「あのさ、立花って読書家だよね。いつも何読んでるの?」


 立花は洟を啜ると(わー。泣くなー)声を震わせる。


「む……武蔵とか血風録とかハードボイルドとか。さ、最近は毒島シリーズにハマってる」


 え? そんなアザラシの赤ちゃんみたいな顔して時代小説とか硝煙紫煙くゆるゴリゴリな毒島刑事シリーズ読んでるの?


「マジで? 俺もゆっくりだけど毒島読んでるよ。孤立無援の毒島、渋くてかっこいいよね。俺、ファン。最新刊の『水脈』読んだ?」


 こっくり頷いた立花は学生鞄からハードカバーを取り出すと『読み終わってるの。良かったら読んで』と差し出した。うわー。立花もファンかぁ。


「いいの? でもまだ手前の『徒花』の途中なんだ。家にあるから暫くかかるよ?」


「明日『徒花』持ってくる。……他に読みたいものある?」


 話をすると小説ばかりでなく漫画(青年誌)や音楽(ジャズ、ロック)の好みまでドンピシャなので笑ってしまった。立花はそんな俺を見て恥ずかしそうに笑った。めちゃくちゃ可愛いかった。だのに俺『よく知らないし好きな子居るしごめんね』ってサクッと振ったんだよな。鬼じゃん。


 悪夢に魘されては目覚める夜が続く。事故に遭ってから食欲は全くなかった。それどころか起きては吐いていた。しかし出された病院食を無理やり平らげリハビリをこなし、回復に努める。絶望する時間はない。高校に残る為の知恵をタロから授かったんだ。まずは次の学年に上がる為に学校へ行かなければならない。学年三位以内に成績を上げなければならない。苦痛とやるせなさ、恐怖、焦燥に耐え徐々に前進する。スローだが松葉杖で歩ける状態まで至った。俺を支えるタロやお袋、そして毎日欠かさず励ましに来てくれる立花のお蔭だ。


 退院の話が持ち上がった頃、タロとお袋の訪問がぷつりと途絶えた。


 妙だ。家庭と店を回さなければならないが二日に一度は来てくれるのに。何かあったのだろうか? 倒れたのか? いや事故? 気になるがもし何でもなかったら……俺が連絡入れるだけでも仕事が増えるからな。ぐずぐず案じる他ない。


 病室で安静にしていられずにスウェット姿で松葉杖をついて廊下を右往左往していると背を丸めて歩く立花に出会した。


「こ、こんにちは。……今日はとても元気だね?」


 頬を染める立花に俺は問う。立花とタロは体育係なので連絡が取れるように番号とアドレスを交換してると聞いた。


「タロ知らない? 学校来てる? 何か連絡あった?」


 矢継ぎ早に問われた立花はおろおろするが『タロ君……忌引。お父さんが亡くなった』と答えた。


 ……タロ!


 俺は立花の制止を振り切り、左脚を引きずり廊下を駆け出した。

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