もう一度、助けてくれた人

 潮騒は近いのに、横を向いて見える波打ち際は何故か遠い。反対側を向いて見える松林も、寝転がっている砂浜もはっきりと見えているから、目が悪くなったわけではない。ただ、……海がウォルターを拒んでいるだけ。目の中の熱さを追い出すために、ウォルターはぎゅっと瞼を閉じた。


 再び瞼を上げて見える空は、もう灰色ではない。爆発で吹き上がった灰は、落ち着いている。落ち着かないのは、自分自身の心の中だけ。


 再び、波打ち際の方に顔を向ける。


 やはり、海は、近くにあるはずなのにずっと遠くに見える。生まれてからずっと、海はウォルターの近くにあったはずなのに。海の中に毒が混じり、魚が捕れなくなる前は、両親や兄のオーガストと一緒に何度も、西海さいかい秋津あきつの間にある海に潜って魚や貝を捕っていた。魚が捕れなくなり、両親が遠洋に向かう船に乗ってしまった後は、兄と共に預けられた、毒の影響が少なかった西海の南端の島の海に毎日潜っていた。両親が居ない間の保護者であったグレンさんが亡くなり、両親を探すという名目で兄が遠洋に向かう船に乗ってしまった後も、ウォルターは、海に潜って魚や貝を捕り、捕ったものを南端の島の聖堂に渡して読み書きと計算を教わっていた。そう、あの時までは。


 二十日ほど前の出来事が、鮮やかに脳裏を過る。あの日、いつものように海に潜ったウォルターが感じたのは、海水の異様な温かさと、海の底を割って出てくる火柱の幻覚。グレンさんに教わったから、自分の幻視の確かさはある程度自覚している。だからウォルターは海から出るなり、生まれたときから使えない声の代わりに聖堂にあった石板に赤と白のチョークを使って幻視した光景を描き、聖堂の修道士達と村人達に見せた。修道士達は訝しんだが、ウォルターの保護者であったグレンさんの能力を知っていた島の村の人達は修道士達を説得し、その日のうちに島からなるべく遠くへ逃げた。ウォルターの幻視通り海底が爆発したのは、その次の日。


 爆発によって、あの南端の島は消えてしまった。大きな津波が収まってから様子を見に行った村人達が修道士達に話していた言葉が、耳に響く。だが、幸いなことに、爆発でも、その後の津波でも、人的被害は無かった。そして、人の命を海の中に引きずり込むことができなかった海は、災害を幻視することで海への生贄を奪ったウォルターを拒み続けている。


 砂浜に寝転んだまま、ごろりと身体を回転させ、波打ち際に身体を寄せる。しかし次の瞬間、大きな波が、ウォルターの身体を、濡れていない砂浜へと押し上げた。


 やっぱり、ダメだった。涙が、砂浜を濡らす。生まれたときから、海は、ウォルターの一部だった。なのに、これでは。途方に暮れたまま、松林の方へと顔を向ける。これからどうすれば良いのだろう? 松林の向こうにある修道院に避難している修道士達は、魚や貝が無くても、ウォルターに読み書きや計算を教えてくれるだろうか? 多分、……無理だろう。


 中途半端に長い髪から滑り落ち、風に飛ばされそうになったバンダナを、腕を伸ばして掴む。このバンダナは、今は爆発で消し飛んでしまった南端の島の南にある無人島に流れ着いていた、サシャという人がくれたもの。初めて出会ったとき、サシャは、無言のウォルターを怖がらず、ウォルターの望み通り、持っていた祈祷書を読んでくれた。運命の悪戯で、ウォルターが西海の神帝じんてい候補という大それたものになってしまったときも、帝都ていとという名のあの冷たい街で、サシャはウォルターを守ってくれた。あの人に、逢いたい。不意の想いに、再び涙が零れる。サシャと、あの祈祷書なら、自分の今の苦しさを分かってくれる。


「ウォルター!」


 ここでは聞こえないはずの、サシャの声が、ウォルターの耳にはっきりと響く。


 跳ね起きたウォルターの視界に映ったのは、松林からまっすぐウォルターの方に駆けてくる白い影。


「良かった、無事だったんだね」


 砂浜に一度足を取られた白い影が、ウォルターを抱き締める。砂の付いた白い服も、エプロンの胸ポケットの中に入っている祈祷書も、確かに、サシャのもの。


「事情は、聞いてる」


 本当に、サシャが、ここに居る。胸の温かさが涙を誘う。


「僕と一緒に、帝都に行こう」


 次に聞こえてきた、優しいサシャの言葉に、ウォルターは無意識に頷いていた。

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