もう一度、逢いたかった人

 馬車の揺れが、ゆっくりと止まる。


 いよいよ、だ。横に置いていた肩掛け鞄をぎゅっと掴むと、ユリアンは宙に浮いていた足を床に降ろした。


 同時に、馬車の扉が開く。


「坊ちゃま」


 気遣いをみせた家令ゼバスティアンに頷くと、ユリアンは滑るように簡素な馬車から降りた。


 馬車の外は、思っていた以上に騒がしい。まだ背が小さいためにゼバスティアンの影に隠れる形で辺りを見回す。大小の荷物を持った徒歩の人々が、向こうに見える橋の方へと向かい、そして橋を渡った人々が、こちらにあるベンチや小店で休んでいる。ユリアンも、この人々に混じって、橋を渡らなければならない。


「坊ちゃま」


 ユリアンの足の震えを見たのか、ゼバスティアンの顔色がますます沈む。ユリアンの家令になる前は東雲しののめを守る黒剣こっけん団の一員であったというゼバスティアンの肩幅が、今日は普段より小さく見える。


「大丈夫」


 殊更大きく頷くと、ユリアンは掴んでいた肩掛け鞄を肩に掛け、大きめの一歩でゼバスティアンの影の外に出た。


「今までありがとう、ゼバスティアン」


 顔を上げて笑みを作り、ゼバスティアンの冷たい手を握る。


「元気でね」


「坊ちゃまも」


 ゼバスティアンの手が、ユリアンの手を力強く掴む。


 その手を振り解くと、ユリアンはゼバスティアンに背を向け、東雲と帝華ていかを繋ぐ橋へと震える足を進めた。


 荷馬車が二台すれ違うことができる幅の丈夫な橋は、今は徒歩で渡る人々で溢れかえっている。確か、太陽が南中してから日没までの間は、徒歩でしかこの橋を渡ることはできない。それを教えてくれたのは、母だったかな? いや、違う。白い影が目の端を過った気がして、ユリアンは肩掛け鞄の紐を強く掴んだ。帝都と東雲を繋ぐ橋のことを教えてくれたのは、あの冬に出会った、サシャという名の小さな家庭教師。


 サシャのことを考えると、胸の中が冷たくなる。人にぶつからないように橋の端に移動する。ユリアンの母リーンハルトの紹介で、粒熱からの療養を兼ねて、ユリアンが持っていた東辺とうへん領にある小さな砦に現れたサシャは、細く小さな身体をしていたが、母が連れてきた他の家庭教師のように東辺の淋しさから逃げ出したりせず、星の観測が好きなユリアンに付き合って計算を教えてくれた。だが、ユリアンの祖父リーンの奸計に嵌まったユリアンを助けるために、サシャはリーンと契りを結び、サシャとユリアンに危害を加えたリーンを斬った後で気が触れて東辺の砦を飛び出したリーンハルトに連れ去られる形で行方が分からなくなってしまった。母と祖父の諍いは、薄々分かっていた。だが、何も知らないサシャを犠牲にしてしまった。自分がもっと大きくて、母と祖父を諫めることができれば、サシャは無事だったかもしれない。それが、ユリアンの後悔。


 小さな歩幅で歩きながら、肩掛け鞄の中身に思考を移す。ユリアンを新しい神帝じんてい候補に選んだ、母リーンハルトの従弟である現東雲王は、王族であるユリアンが東雲で得ていたものの持ち出しを禁じた。ユリアンが着ている無染色の服も、肩掛け鞄も、ゼバスティアンが東辺のあの砦から持ち出したサシャの行李の中に入っていたもの。下着は、サシャの行李に入っていた布でゼバスティアンが縫ってくれた。肩掛け鞄の中に入っているのは、サシャが使っていた蝋板と鉄筆、そしてユリアンがゼバスティアンと一緒に黒剣団の詰め所の一つに隠れ住んでいたときに送られてきた小さな祈祷書が一冊。南苑なんえんの製本師カレヴァが発明した『印刷術』によるものだと、ゼバスティアンは言っていた。サシャがエプロンの胸ポケットに入れていたものと同じ表紙を持つ祈祷書は、ユリアンだけのもの。その祈祷書に、ユリアンは、リーンが破壊したサシャの祈祷書の一葉を挟んでいる。サシャは、帝都に留学していたこともあると言っていた。もしも帝都でサシャを知るものに出会うことがあったら、サシャの祈祷書の一葉を渡し、サシャの最期について知っていることを話そう。


 決意したユリアンの瞳に、ゴツゴツとした意匠の欄干が見える。橋を、渡りきった。汗を覚え、小さく息を吐く。橋を渡った先で、迎えが待っている。ゼバスティアンはそう言っていた。その迎えは、どこだろうか? 小さく辺りを見回すと、白く塗られた馬車がユリアンの目に入ってきた。馬車の御者と話している黒い髪と髭を持つ影は、かつてユリアンに剣術を実践的に教えてくれた黒剣団の一人、黒剣団の再編によって任を解かれ東雲を去ってしまったウベルトという戦士に似ている。


「ユリアン!」


 そこまで考えたユリアンの視界が、不意に、白い影に覆われる。この影は、まさか。


 半信半疑で、顔を上げる。


「心配掛けて、ごめんね、ユリアン」


 ユリアンを抱き締めている小さな影は、確かに、かつてのユリアンの家庭教師、サシャ。


「サシャ」


 エプロンに入った祈祷書ごと、サシャをぎゅっと抱き締め返す。確かに、サシャだ。ぽろぽろと零れる涙が、ユリアンの胸の錘をすっかりと溶かしていた。

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