夜の告白
祭壇を庇うように両腕を横に伸ばしたサシャの全身の震えを確かめながら、月灯りの下で揺れ動く床板の一枚に目を凝らす。
「おっ、やっぱりまだ繋がってたか」
だが。跳ね上がった床板の下から響いた、聞き覚えのある擦れ声に、一人と一冊は同時に息を吐いた。
「ご苦労さん、サシャ」
「……ユドークス教授」
サシャが羽織る白い上着の裾が、埃一つない床を滑る。尻餅をついたサシャが俯いたので、サシャのエプロンの胸ポケットに入っている、普通の人々からは『祈祷書』として認識されているトールの視界は、石と木の板が混じる聖堂の静謐な色の床でいっぱいになった。だがそれでも、床下から身軽に身体を持ち上げたユドークス教授の、月明かりに揺れる老いた影をしっかりと確認することは怠らない。
何故、
「……!」
その影を拒むように、サシャの白い袖は再び、祭壇を守るように横に引き延ばされた。
「分かっておるわ」
そのサシャに微笑んだユドークス教授の影は、素直にサシャから二歩離れる。
「その祭壇の隠し戸棚に、王太子を選ぶ籤が入っているのだろう?」
ユドークス教授の正しい指摘に、サシャの唇が横に引き結ばれる。
「そんなに怖い顔しなさんな」
速くなるサシャの鼓動に唇を噛んだトールの前で、ユドークスがひらひらと右手を振る。
「ホセの父が王位に就いた時もそうだった」
次に響いた、意外な言葉に、一人と一冊は同時に目を丸くした。
「あの時は、そうだな、儂もまだ、秋都に住み始めたばかりでな」
その一人と一冊を見やり、にやりと笑ってから、ユドークス教授は埃一つない床にどっかと腰を下ろす。
即位式の夜、振る舞われた葡萄酒をしこたま飲んだユドークスは、まだ秋都に慣れていなかったせいもあってか道に迷い、浮かれ気味の夜の秋都を彷徨っていた。
「そうしたら、な、道の脇に空いた小さな穴から人が二、三人出てきてな」
何かを思い出すように顔を天井に向けたユドークスの小さな声が、聖堂を微かに揺らす。
「しかも妙なことをこそこそと話す奴らでな。『籤は上手くすりかえたな?』とか言っておったな」
次に響いた、この世界の物事にはまだまだ疎いトールが聞いても不穏な台詞に、トールの背は別の意味で緊張した。
「どうも焦臭い。儂もそう思ったわけだ」
だから教授は、不穏な奴らを物陰に隠れてやり過ごすと、彼らが通り抜けていた『穴』を調べ、酔いにまかせてその穴に滑り込んだ。
「そうしたら、な、ここに繋がってたんだ」
居るはずの、籤を守る者は影も形も見えない。唯一神を示す北の三つ星を模したステンドグラスの下で揺れる祭壇の上に、籤が入った箱がぽつんと置かれているだけ。これは、……陰謀の匂いがする。躊躇いなく箱を開けて中の籤を確かめる。籤に書かれていたのは全て、当時の津都の太守、秋津では王以上の振る舞いをみせていたロレンシオの名前だった。
「まあ、王より権勢を振るっていたとはいえ、まだ王ではなかったからなぁ、あいつは」
八都と神帝を巡る陰謀のとばっちりで暗殺されたロレンシオに負わされた怪我のことを思い出したのだろう、一瞬で蒼くなったサシャの頬に頷いたトールの耳に、ユドークスの心底呆れた声が響く。
「しかし不正は許されない」
そう言って、ユドークスは懐から、自分の祈祷書を取り出した。
「だから儂は、籤を元通りに作り直した」
ユドークスが見せた祈祷書のページには、あるはずの余白が無い。
「使える紙はこれしか無かったのでな」
微笑んで祈祷書を閉じたユドークスに、一人と一冊は頷くほか無かった。
「あ、もちろん、ロレンシオの名前も籤に入れた」
あっさりとした声が、聖堂に響く。
「どんな奴でも、選ぶのは神だ。そうだろう?」
ユドークス教授の言葉にサシャは頷いたが、トールは、素直に頷けなかった。幸いなことに、ユドークスが元通りにした籤で選ばれたのは、当時はまだ秋都の学生だった新王の息子ホセ。だが、もしもロレンシオが選ばれていたら、サシャは、今、生きてこの場所に居ただろうか?
「さて、長居したかな」
話すことを話してすっきりしたのか、教授の影が、傾いた月明かりにゆっくりと揺らぐ。
「ここはちゃんと埋めとくよう、ホセには明日にでも忘れずに言っておくさ」
ユドークス教授はホセの指導教員だったのだから、これまでにもいくらでも助言する機会はあっただろうに。呆れが、トールの脳裏を過る。だがトールが息を吐く前に、ユドークスの老いた身体は再び身軽に、床下へと消えていた。
動いた床板も、既に元に戻っている。
夜は、まだ終わらない。
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