第135話  マーベンの切り札

 ――それは遠い遠い、愚かな男の半生の物語。

 

 元領主、現ヒルデリースの王を自称するマーベンの人生は、屈辱と敗北にまみれたものだった。

 貴族の六男坊として生まれ、期待も何もせずに育てられた。

 貴族というものは長男や次男こそ重宝されるが、あとは次期当主の予備の予備。

 つまり『いてもいなくてもさほど痛くない』という存在だった。


 六番目に生まれたマーベンが、捻くれた性格になるのに不思議なことはなかった。彼はいつも長男や次男である兄たちと比べられては、『嫉妬』を抱いていた。


『くそ! どうして俺ばかり! 俺ばかりが虐げられているんだ!』


 マーベンは伯爵家の中、多くのメイドや使用人たちに毒を吐いていた。

 彼の世話係であった壮年の男性は穏やかにたしなめて、お付きのメイドはやんわりと慰めた。

 だが少年時代のマーベンには、我儘な坊やのご機嫌を治す使用人――程度の認識としか映らなかった。


 事実、その頃のマーベンは未熟であり、単なる六男坊の少年に過ぎなかったのだが。彼自身は己を有能と思っていた。

 ――俺は優秀なのに。誰よりも優れているのに。なぜ侮る? 理不尽な!


 思春期特有の、根拠のない有能感。そして父親譲りの傲慢さも相まって、マーベンは傲慢だった。

 己が兄弟の中でも最も優秀だと信じてはばからなかった。


 だが十八歳のとき、事態は急変する。

 指名手配であった探査者崩れの殺人鬼に家族が殺されたのだ。

 父親、長男、次男、三男、四男、五男たちが、たった一日で殺されてしまった。


 たまたまマーベンは遊覧で領地外に出ていたが、帰宅するとそのあまりの惨状に驚いた。

 血溜まりに沈む父や兄。数々の倒れた調度品。そして折り重なるようにして倒れている何人ものメイドや使用人の遺体。


 それを一目見て、マーベンは思った。

 ――なんだ、俺がこれで一番じゃないか。

 最高だった。肉親が死んだ悲しみより、これから訪れる多忙な日々の想像より、何よりマーベンは思ったことはそれだった。


 貴族は血統が命。

 ゆえに六男であっても唯一の生き残りの跡取りであるマーベンは宝物。

 ないがしろにするものは伯爵家には皆無となった。それどころか、これまで未熟者扱いしていた家令の長やメイド、その他の使用人たちが一斉にマーベンに忠誠を誓った。


 それは、伯爵家に対しての忠義であって、マーベン自身の人徳によるものではなかったが、そんなことは関係ない。

 マーベンは権力が欲しかった。自分を認めてくれる立場が欲しかった。自分の思うままに他人を動かせる地位が欲しかったのだ。

 それが――唐突に、一日で叶った。

 マーベンはその夜、屍となった父や兄たちの亡骸を前に心の中で笑っていた。


 ――これで俺が当主だ! 俺がこの家の主だ!

 もし彼のそばに、一人でもその性根を善人に傾かせられる者がいれば、その後の人生は変わっただろう。

 六人もの肉親を亡くした六男が、奮闘する美談として語られたことだろう。


 だがそうはならなかった。マーベンの近くには彼の人徳を高められる者はおらず、彼は贅沢と、権力の強みを使った。民のためではなく、自らの欲望のために使った。

 ゆえに悪徳領主。彼が成人して間もない頃から領民にはそうささやかれた。


 しかしマーベンを止める者はどこにもいない。

 この世界の地下に大迷宮がある。その探索に有能な人材や時間を使わねばならない、

 この世界において悪徳貴族をいさめる存在は国王でも領民でも探索者でも無理であり、貴族は生まれ持った資質と育った環境、そして周りの人間の補佐能力によって決まってしまう。


 マーベンは、悪徳領主としての条件を満たしてしまっていた。

 領民が何を言ってもどれほど苦難を訴えても『俺の領地だ。何をしても文句などあるまい!』とまるで大国の王のように振る舞った。

 年齢を重ね、自らの欲望を阻害する者がいない日々が続いた。マーベンにあった、わずかな躊躇いや良心などその頃にはまるで無くなった。

 マーベンは悪徳領主――それは彼が側近に裏切られ、一度は落ちぶれた後であっても変わらない。


 そして今。

 マーベンは『緑魔石』で大量の金を生み出し、都市ヒルデリースを都市国家にまで発展させた彼の。

 自らの楽園にまで押し上げた彼の楽園が――リゲルという、規格外の少年によって打破され権力の全てを奪われかけていたとき。


 マーベンは思う。

 ――このままで、なるものか!

 ――俺は、若い頃には散々、馬鹿にされたのだ。

 ――その俺が、どうして若造なんぞに邪魔される!?


 屈折した彼の精神は、どこまでも利己的で傲慢だった。

 ゆえに彼はためらわない。金の力で手に入れ、同志となったダヤイにも、『それは使わない方が良い』と言われた、とある切り札を。

 自らを本当の悪魔の領域にまで堕天させる――禁断の魔術具を。使うことに、なんの躊躇いもなかった。




「よし、これでひとまずは安心かな。後は――」


 ――リゲルは。

 そのとき、わずかにだが油断していたのだろう。

 楽園創造会シャンバラの幹部との戦い。時間を押してのヒルデリースへの移動。

 そして連続するマーベンとの戦い――幾重にも訪れた激戦に、ほんのわずか――時間にすれば数秒の油断が出来てしまった。


 誰もそれを責められはしない。

 人は神にはなれない――全能に近くとも、真の全能に人間は至れない。

 しかしほんの数秒、通常なら隙とも言えないわずかな間隙に――事態は急変する。


 ――バキンっ、と。マーベンが奥歯に置換して装備していた魔術が噛み砕かれた。

 それこそは『グラスヴォルの魂』――人体を悪魔に変性させる禁忌の宝である。

 噛み砕かれた宝石は、内包した魔力が爆発的に膨れ上がり、リゲルを吹き飛ばした。

 次いで近くにいたメアを、マルコを、テレジアを――周囲の屋敷の調度品ごと一層。全てを塵芥のように弾き飛ばした。

 そしてマーベンの屋敷が、猛烈な爆発によって弾け飛んだとき。


「なっ!?」

〈リゲルさんこれは――〉

「皆、下がって。――守護せよ、《アイアンゴーレム》、《ウォールゴーレム》!」


 弾き飛ばされながら、リゲルが魔石を投じる。

 守護に秀でた巨人が八体、屋敷外の庭に出現する。

 爆発した屋敷の中央、粉塵の柱が朦々と立ち込める壁を突き破り、『何か』が――巨大な陰影となって疾走した。


 それは、『腕』だった。

 節くれ立ち、突起物が幾重にも生え、赤と黒の不気味な線が走っている。この世ならざる『腕』。

 伝説や神話、あるいは冒険譚などに描かれる『邪悪』を具現化したような悪意の塊。

 その巨大な『腕』が、八体のゴーレムをまとめて薙ぎ払う。

 まるで塵のように、重量数十トンはある巨人たちが、なすすべなく弾き飛ばされていく。


「あれは――」


 リゲルが見上げる先、粉塵を突き破り禍々しい巨影が天を衝くようにそびえ立つ。

 ねじくれた大きな角。巨大な一対の翼。尾は大蛇のようにのたうち、大きな影を備えている。

 そして太く荒々しい四本の腕は強靭な爪を備え、ぬらぬらと光る赤色の口腔が不気味だ。

 鋭い牙が見える。――人間など簡単に噛み砕ける、鋭利で、邪悪で、負の魔力を凝縮させたような黒と赤の巨人。


「オオオオ、オオオオオオオオ――ッ!」


 巨大なる『悪魔』と化したマーベンが、人の喉では出せない、禍々しい声音とともに歓喜に震えていた。


『――俺は、成った。人間を超える存在に。魔を束ねる存在に。至高なる存在に。俺は! ついに至ったのだ!』


 暴風が巻き起こる。マーベンが巨大な翼を羽ばたかせると、それだけで屋敷の残骸が爆裂し、弾け飛んだ。

 周囲の壁や木々が巻き込まれ、マーベンに苦情を言い募っていた民衆たちのもとまで襲い掛かる。


「きゃ、きゃああああああ!」「な、何なんだ、あれは!?」

「マーベン……なのか? けれどあの姿は――」


 恐慌する民衆たちが雪崩打ったかのように逃げ惑う。我先にと、悪魔化したマーベンから一刻も早くと逃げ走る。人が人倒し、衝撃波が荒れ狂い、大狂乱となる。


「いけない、リゲルさん!」

「このままでは彼らが!」

「――わかってる! テレジア、マルコ、民衆の脱出を手助けして! ――メア、ミーナ、僕と一緒にマーベンのもとへ! あれは危険だ、このままでは都市そのものが破壊される!」


 リゲルが咄嗟に《ワイバーン》の魔石を投じた。

 爆裂する破片や衝撃波から人々を守ろうと突撃させる。

 しかしワイバーンはマーベンの放った一撃こそしのいだが、そのたった一撃で四肢のほとんどを砕かれた。幻のように消失する。


「な、に? ――ワイバーンが、竜種が一撃……?」


 リゲルは、想定はしていたが、あまりに圧倒すぎる光景に束の間、硬直する。


〈リゲルさん!〉


 途端に、メアが叫ぶ。リゲルが二度目、三度目の《ワイバーン》の魔石を放り投げ、ブレスでマーベンの攻撃に対抗しようと試みる。

 しかし駄目だ。悪魔化したマーベンは、翼の一撃だけでも暴風そのものだ。

 大空の覇者とも言うべきワイバーンですら一撃、もしくは三度撃たれれば爆散して消失してしまう。


 咄嗟に喚んだのが低位とは言え、曲がりなりにも竜種。それを容易く葬れるマーベンの驚異はこれまでの数十倍。

 リゲルは、もはや相手をほとんど災害級のものだと判断した。


『――リゲルよ。愚かにも俺の覇道を阻害せんとした不埒者よ』


 巨大な悪魔と化したマーベンが睥睨する。


『――俺は、嬉しい。この力を行使することが出来る理不尽を前にできたことが。俺は感謝している。貴様が、俺を至高の頂きに連れてくれた。クク。光栄に思え。貴様は、俺が『グラスヴォルの魂』でもって、塵も残さず殺してやろう』


 巨影が笑っていた。歓喜に。感謝に。高揚に笑っていく。

 禍々しい魔力がそれだけで毒となり、周囲の地面や家屋を溶かしていく。空気に流れた魔力が民衆を昏倒させ泡を吹かせて倒れさせる。

 暴風めいた翼の羽ばたきは、ヒルデリースの一角を、中央区を確実に破壊し、混沌の坩堝と化していった。


「まずいわ、リゲルさん!」

〈このままじゃこの都市が!〉


 あえぐように叫ぶメアたちだが、リゲルは真っ直ぐマーベンを睨みつける。


「――そんな人外の巨大な悪魔になってまで得たいものとはなんだ? マーベン」


 総数三十の魔石をばら撒きつつ彼は問いかける。

 《ワイバーン》、《ヤクトワイバーン》、《アイアンドレイク》、《リザードマン》、《ホブリザードマン》……耐久や飛翔性に優れた、決戦用の布陣である。


「悪魔とは人ならざる者。その秘宝はおそらく大国の邪教が生んだ負の遺産だ。――そんな、人から離れて、人を危機に陥れて、それで得られるものは、なんだ? マーベン」


 悪魔となった男は嗤った。


『愚かな人間だな。それは悦楽だよ。リゲル。貴様もわかるだろう? ――『強い力は持っていると興奮する』――貴様は、その魔石を使うとき、ほのかな喜びを感じないのか? 普通ならば倒せない、自分では成し得ない強敵を倒したときの高揚は。歓喜は、格別だ。それをわずかでも得ていなかったと、断言出来るのか?』

「……それは」

『貴様は思っていたはずだ。俺にはわかる。――我らは同類だ。生まれ持った、自分の力だけでは自分を活用出来ず、運や、膨大な金、秘宝の力で事を成した。お前の瞳に映るもの。それは俺だけではない。それは『もしも、自分に力があり続けたら』という、お前のもう一つの可能性だ』


 リゲルは、即答はしなかった。民衆に避難に力を注ぐべきではある。メアやミーナと共に連携をし、即応する立場ではある。だが『魔石』という、色も違うが、活用法も違うが――虐げられた過去を持ち、そして魔石によって人生を変えられた者として、譲れないなにかのために、即答だけはしなかった。


「……かもしれないな」


 リゲルの手からさらに竜種の魔石がばら撒かれていく。


「マーベン。君は魔石の使い方を誤らせた僕自身かもしれない。そうだ、僕も魔石を使うときに何の高揚感もないと言ったら嘘になる。戦いに勝てる――強者に拮抗する――凌駕する。それは力を操る者としては当たり前の感情だ。でもね、マーベン。僕はお前とは違う。僕はその得た力を悲劇には使わない。僕は悲劇を生み出さない。――なぜなら、かつて友と言えるはずの『錬金王なかま』を、凶行に陥らせた責任がある。もう、あのときのような光景は繰り返させない。僕は、お前とは違う」

『ほう、ならば証明してみせよ。可能性の俺であった者よ。――俺を倒し、屠れるものならやってみるがよい!』

「言われずとも。――メア、ミーナ。悪いけど、手は出さないで」

〈え!?〉


 二人の少女は驚愕の顔で彼を見つめた。


〈でもリゲルさん!〉

「危険です……っ」

「わかっている。――でもこれは僕の可能性を打ち壊す戦いでもある。僕の堕天した可能性を打破する戦いなんだ。――僕は、もうひとりの僕とも言うべきマーベンを倒さなければならない。あんな風にならないと、僕は違うのだと、自分自身に刻み込む必要がある」


 一拍置いて。


「それに、君たちにはまだ他の『緑魔石』使いのために力を温存させておく必要もある。――だから、ごめん」


 数々の竜種が、咆哮を放った。

 剣を、牙を、爪を、翼を、翻し、大いなる存在へと威嚇する。

 リゲルは前に一歩出た。悪魔化したマーベンが傲岸に睥睨する。


「――わかりました」

〈ご武運を〉


 そう言って、メアとミーナはその場から離れた。

 リゲルの邪魔にならないように。

 マーベンの余波に巻き込まれないように。

 ――そうして、魔石と緑魔石。超常の力を使いこなす者同士、激戦となるその瞬間が――いま、訪れた。

 

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