第36話 自分の気持ちが定まらない
「じゃあ、お忙しいようなのでこれで」
「い、いや、待て。ちょっと待って」
一礼して去ろうとしたら、今度は亮翔に全力で止められた。
それに千鶴は何なのよと睨んでしまう。今日の亮翔は明らかにおかしい。ついでに挙動不審だ。大丈夫だろうか。本当に何か良くないものを食べたのかもしれない。
「なんですか」
「そ、その、労研饅頭をたくさんもらったんだ。住職と二人では食べきれない量でさ、食べて行かないか」
「え? まあ、いいですけど」
千鶴は唐突なお誘いだなと思いつつも、労研饅頭は好きなので貰うことにした。
ちなみに労研饅頭とは蒸しパンのことで、松山っ子の定番おやつの一つとされるものだ。全十四種類売られていて、一つが百円ほどと安く、どれも素朴な味わいで美味しい。千鶴もよく大街道商店街で買い食いしている。
「じゃあ、茶室に行こう。うん、すぐに行こう」
「はあ」
なんだか動揺している亮翔に押し切られ、千鶴はそのまま相談もないのにお茶室に行くこととなった。
その姿を本堂からこっそりやって来て、裏から社務所に入っていた春成と恭敬にばっちり見られていたのだが、もちろん二人は気づかない。
「なるほど。御山におった時よりも囚われておると思えば、あの子が原因か」
「はい」
そそくさと出ていく亮翔を見つつ、春成は呆れたと溜め息だ。それに恭敬はすみませんと謝ってしまう。
「で、あの子、そんなに似ているのか。そもそも年齢が合致せんだろうに」
「それを言われてしまうと反論の余地がありませんね。でも、どことなく似ているんですよ。笑った顔が特にと、親の私もびっくりしたほどです」
「なるほど。御仏からのご縁かもな」
これはどうなるか見届けねばならんと、春成はそそくさと茶室に向かう。それに恭敬はぎょっとした。
「ま、待ってください。というより、覗き見なんて駄目ですよ」
アクティブな春成に驚かされつつ、恭敬は春成を止めるべく茶室へと追い掛けていくことになるのだった。
「へえ。これが月岡芳年の『月百姿』ですか」
「ああ。図書館で見つけたから借りてきたんだ」
「綺麗な絵ですね」
「ああ」
茶室にて。労研饅頭とお茶をいただきながら、千鶴は亮翔が借りてきたという月岡芳年の『月百姿』の画集を見ていた。
この間の騒動で気になっていたものの、わざわざ絵を確認しようと思っていなかった千鶴とすれば、これはラッキーだった。亮翔の行動は意味不明だが、まあ帳消しにしてもいいかと思えるくらいに機嫌がよくなっていた。
そんな笑顔の千鶴に亮翔もほっとしていた。
ただでさえ師の春成から美希の死をちゃんと理解していないと指摘されたところだった。そこに笑った顔が美希とそっくりだなんて考えて見とれてしまい、次に詰め寄られて動揺してしまい、どうしていいか解らなくなってしまった。
苦し紛れと春成に会いたくない一心で茶室に誘ったが、取り敢えず、それらの気持ちには気づかれていないようだ。
「これは、仏様の絵ですか」
「ああ、そうだな。観音様の姿だ」
千鶴が指差したのは『南海月』という絵だ。そこには女性的な観音菩薩の姿が描かれている。激しい波が打ち付ける岩に座るその姿はとても神々しかった。
「なんで海なんですか?」
「それは、観音様は
「へえ」
千鶴は熱心に亮翔の言葉に耳を傾けてくれる。
その姿にまた美希を重ねてしまい、亮翔は胸が痛くなる。そして痛烈に実感した。自分は美希の死を全く乗り越えられていなかったのだ。
見つからないことを理解しつつ、まだ美希がいるのだと勘違いしている。この観音様のように、もう手の届かない存在だというのに、そのことを感情が全く理解していなかったのだ。
「美希は、補陀落にいるのだろうか」
「えっ」
ふと呟いてしまい、千鶴に問い返されて恥ずかしくなる。
美希はすでにこの世にいない。だったら、補陀落にいてもおかしくないのだ。観音様の下にいるのならば、何の心配もないではないか。そう思ったものの、自分の気持ちが落ち着かないことに戸惑ってしまう。
「いなくなったのが、南だからですか」
千鶴に問われて、亮翔はああそうかと苦笑する。
もし生きているのならば南の島にいるのではないか。それが今話題にしている補陀落と繋がっただけか。そう気づいて辛くなる。やはり師の春成の言う通り、自分は全く理解していない。
しかし、その反応は千鶴には予想外だったようで、思い切り顔を顰めた。
「今日の亮翔さん、なんか変ですね」
「そうだな。ちょっと色々とあってね」
「ふうん。お坊さんも大変なんですね」
「ああ」
あっさりと認めたからか、千鶴はそれ以上追及してこなかった。
労研饅頭はぱくぱくと食べ始め、画集へと目を戻している。その顔を見て、ほっとしている自分に気づく亮翔はますます困惑してしまう。
彼女は美希ではない。時折そっくりな顔を見せるけれども、まったく違う。特に今、労研饅頭を食べながら本を見ている姿は美希と重ならない。それなのに、こんなにも心が騒めくのはなぜだろうか。
「それって、お前、中森に恋を」
ふと、旅館で八木に言われた言葉が脳裏に浮かぶ。
しかし、そんなわけあるかと亮翔は必死に打ち消した。相手は女子高生だ。十も下だ。そんな相手に恋心なんて、それこそ美希のことを考えすぎてどうかしているとしか思えない。
「本当に、大丈夫ですか。少し休んだ方がいいですよ」
なんだかずっと様子のおかしい亮翔に、千鶴は思わずそう声を掛けていた。
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