第16話 勇気を出した片桐先生(1)(幸也)

 客商売は本当にままならないものである。今が暇だからと言っても、十分後もそうだとは限らない。逆もしかりだ。


 ある程度、曜日や時間帯で忙しさの予測は立つのだが、忙しい筈の時間帯に暇だったり、暇なはずの時間帯に忙しかったりするなんて日常茶飯事だ。そうなると廃棄ロスやチャンスロスが発生して悔しい思いをすることになる。


 七月に入って最初の木曜日の午後七時半。この時間の飲食店は忙しいと思われるだろうが、たこ焼き屋は暇な時も多い。やはりたこ焼きはディナーではなく、ランチかおやつなんだろう。今もお客さんが居らず、店の前を行き交う人を見ながら、保温しているたこ焼きを固くならないように定期的に回している。


 何気なく店の前を眺めていると、ふと一人の女性に気付いた。特に変わっている訳じゃなく、スーツ姿のアラサーぐらいに見える普通の女性なのだが、左に行ったり右に行ったりと頻繁に店の前を通り過ぎるのだ。


 何度目かに店の前に来た女性が、今回は立ち止まってこちらの方に体を向けた。その様子をじっと見ていた俺は、彼女と目が合う。彼女は俺が見ていたことを、予想していなかったのか、驚いた表情を浮かべた。


「いらっしゃいませ」


 俺はなんとかお客さんになってもらいたいと、女性に声を掛けた。そのまま立ち去ってしまう場合が多いが、声を掛けることで買うきっかけになるお客さんも居るのだ。


「こんにちは」


 女性は一瞬ためらった後に、ぎこちない笑顔を浮かべて頭を下げた。


「どうぞ、ご注文お聞きします」


 俺がそう声を掛けると、女性は注文窓の前まで来た。


「あの、たこ焼きを六個、店内で食べたいんですが良いですか?」

「はい、ありがとうございます! 中にどうぞ」


 ちょうど今たこ焼きが十個ある。少しでも売れて、廃棄ロスが少なくなると喜んだ瞬間、女性の後ろから、サラリーマン風の中年男性が現れた。よく来てくれる常連さんだが、待つのが嫌いで、たこ焼きが無ければすぐに帰ってしまう人だった。


「いつもの十個すぐにある?」


 予想通りに、男性は注文してくる。


「あっ、すみません。今注文が入ったので、四個しかないんです。でもすぐに焼きますよ」


 俺は内心では駄目かもと思いながらも、そう返事をしてみた。


「ああ、待たなきゃ駄目なら、また今度にするよ」


 予想通りとは言え、最悪のパターンだ。暇な時間がずっと続いていたのに、一人来たと思ったら続けて次のお客さんが来るなんて。


「あっ、それなら私は後からで良いですよ」


 店に入ろうとしていた先程の女性が、俺と男性客のやり取りを聞いていたのか、そう言ってくれた。


「ありがとうございます! あっ、お客さん、すぐに出せますよ」


 俺は帰ろうとしていた男性客を慌てて引き止めて、たこ焼きを仕上げてお渡しした。


「ありがとうございます。すぐにお焼きしますので、お待ちください」


 俺はすでに店に入り、カウンター席に座る女性に礼を言う。


「いえ、急いでませんので、ゆっくりで大丈夫ですよ」


 女性は恐縮したようにそう応えてくれた。


 俺はすぐにたこ焼きを焼き上げ、仕上げて女性の前に置く。


「お待たせしました、どうぞ」

「ありがとうございます。美味しそうですね」


 女性は目の前のたこ焼きを見て笑顔になる。


「先程はありがとうございました。ああいうチャンスロスは悔しいので、本当に助かりましたよ」

「いえ、あれぐらいは……。前に助けて頂いたことを考えれば、全然です」


 女性は照れたように下を向いて、そう呟いた。


 前に助けて頂いた? そんなことあったか?


 確かに初めて見たお客さんではなく、おぼろげに記憶のある顔なのだが、常連では無いし何か助けた記憶は無い。


「あっ、覚えてませんよね……」


 俺の戸惑った顔を見て、女性の顔には明らかな失望が浮かぶ。


 これはマズい。同窓会で向こうは覚えているのに、自分は相手の名前すら分からない状況と同じだ。気持ちは焦るが、思い出そうにもまるで手掛かりが無かった。


「あの……五月の雨の日に、たこ焼き食べて元気づけられた……」


 五月の雨の日……。


 俺の頭の中に、あの日の記憶が甦った。


「ああ、あの彼氏に振られて落ち込んでた……」


 思い出した嬉しさで、思わず俺は余計なことまで口走ってしまった。


「そうです、その時にたこ焼きを食べて良いって言われて、気持ちが楽になれたんです」


 良かった。女性は俺の失言をそれほど気にしていないようだ。


「あれで元気が出たなら良かった。さあ、たこ焼きが冷めない内にどうぞ」

「はい」


 女性は嬉しそうにたこ焼きを頬張る。美味しい物を食べて人が浮かべる幸せそうな笑顔を見て、俺も嬉しくなる。


「前に来た時より、ずいぶん……」


 俺は食べている女性の横顔を見て、前より痩せたと感じて、思わず口に出しそうになる。でも、考えてみれば、痩せたとわざわざ言うってことは、前は太っていたと言うのと同じだと気付いた。


「前より、何か変わりましたか?」


 俺が途中で言葉を濁したので、女性は不思議そうに聞いてくる。


「あ、いや、元気になったと言うか、明るくなりましたね」


 俺は少し違う言い回しで誤魔化した。


「ありがとうございます。今日も美味しいからまた元気になりますよ」

「それは良かった。ゆっくり食べてくださいね」


 俺はそう声を掛けて、店内から店の外の方へ視線を移す。


「おはようございます! ネギの配達に来ました!」


 俺が店の前に視線を戻したと同時に、ドアが開いて元気よく茜ちゃんが入って来た。きっと家の手伝いで、配達してくれているんだろう。


「茜ちゃん、ご苦労さん。値段は幾ら?」

「はい、一キロで九百円です」


 俺はレジからお金を取り出し、茜ちゃんに手渡す。


 茜ちゃんは料金を受け取り何気なく店内に視線を移すと、ハッとした表情でカウンターの女性を見る。


「片桐先生! 来てたんですか?」

「ま、増田さん!」


 茜ちゃんは女性に「片桐先生」と声を掛けた。あの女性は北校の先生なんだろうか?

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